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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 その32
 陣地以南の経路は比較的安全だった。魔の大軍と衝突することもなく、無事出迎えの部隊と合流して北岸の橋頭堡へと入る。
 だが出迎えたレゾンド大尉の表情は緊張と不安でこわばったままだった。水嵩の増した河に架けられた橋はすでに何度も流されており、その都度修繕されているとはいえ一時に大軍を渡すには不安がある。しかし渡し切る以外に生きて帰る道はない。
 ニコルはレゾンド大尉が無事、橋と橋頭堡を守り抜いたことをねぎらい、祝杯をノーラスで挙げることを約束して引き続き渡河の指揮全権をゆだねた。
 ただちに渡河が開始される。
 水位が下がるのを待つ暇はない。
 濁流逆巻く河に命綱を渡し、手すりもなく足下も定かでない仮の橋を、時に激しい逆波を浴び、流木や鉄砲水の恐怖に怯えながら、とぼしい灯だけを頼りに渡るのである。
 流れ来る轟音の傍ら、いつ魔が襲ってくるやもしれぬという恐怖のなかで数千名もの兵を待機させておくのは焦燥との戦いだった。
 やがて訪れる夜を前に、時間ばかりが無駄に浪費されてゆく。橋脚に流木が衝突するたび、橋全体が恐ろしい軋みをあげておののき、揺れ、たわみ、後方からは悲鳴にも似た怒号が噴出する。
 いつ緊張の糸が切れてもおかしくない状況だった。動揺はやがて恐怖をきたし、恐慌寸前へと高まってゆく。
「早く渡らせろ」
 我を忘れた誰かが怒鳴り出す。
「壊れたらどうしてくれる」
「うるさい、黙れ。静かにしろ」
「俺が先だ」
「待て、止まれ!」
 恐怖に駆られた兵が我先に渡ろうとして列を離れ、大挙して橋へと押し寄せる。悲鳴が踏みにじられる。
「貴様等、軍法会議ものだぞ」
 下士官が銃を振りかざして叫ぶ。だが崩壊しかけた秩序はもはや下士官の制止ごときでは止められなかった。
「ちょ、ちょっと、みんな待って」
 あまりのことにニコルは血相を変えて兵の前へ飛び出した。両手を広げ、わたわたと泡を食って制止しようとする。
「そんなにいっぺんに来たら危な……うわっ!」
 あっけなく突き飛ばされかけたところを背後から襟首ごと掴まれて後ろへと放り出される。
「止まりなさい」
 松葉杖の先で石突く固い音が聞こえた。
「これは命令です」
 暗闇に凛と澄んだ声が貫き走る。
 今にも途絶えそうな灯がふらふらと闇に揺れている。雨に打たれた真鍮色の髪がくすみ光っていた。
「皆、わたくしの声が聞こえるか」
 シャーリアは手にしたカンテラを顔前に掲げた。汚れてもなお気高いかんばせが照らし出される。
 見る間に恐慌が鎮まってゆく。代わりに、闇の彼方からどうどうと流れゆく河の瀑音が四囲を押し包んだ。
「皆に伝えたいことがある」
 シャーリアは一人一人の兵の顔を見回した。おもむろに口を開く。
「幸いにしてわたくしたちはこの地に戻ることができた。でも、未だ、帰還し得ない仲間がいる」
 敢えて感情を押し殺した口調で続ける。
「皆の力を合わせたからこそ、ここまで来ることができた。よって聖ティセニア第一公女シャーリアの名において、この場を借り皆の尽力に心から感謝するとともに、未だ戻れぬ彼らの無事を心から祈りたいと思う。かくなる上は全員で帰還を遂げ、もう一度、勝利と希望を分かち合いたい。そのためにもどうか今は言動を慎み、各部隊長の指示に従って欲しい」
 しんと抑えた声が染み入ってゆく。
「皆の勇気に感謝する。以上だ」
 シャーリアは毅然として姿勢を正した。
「殿下……」
 ニコルは尻もちをついたまま、半ば呆然とした畏敬の表情でシャーリアの言葉を聞いていた。
「全員、整列。待機小隊は引き続き全周警戒態勢。各担任界を注視」
 矜持を取り戻した下士官たちの指示が飛び交い始める。ニコルはあわてて立ち上がった。
 シャーリアは明かりを掲げ、杖をついた不安定な姿勢で歩き出した。橋の袂で立ち止まり、渡河してゆく兵へ順繰りに励ましの声をかけ始める。
「水で滑るかもしれなくてよ。足下に気をつけて渡りなさい。落ち着いて。ゆっくりと。前の者を決して押さぬように。重傷者を優先して。大丈夫、しっかりと綱につかまって」
 公女が自らより先んじて兵を渡す。麾下の兵にとってはその事実だけで充分だった。生還の可能性に賭け、全員が気持ちを一つにして動き始める。
 この場はシャーリアや参謀たちに任せていれば大丈夫だ。ニコルは安堵の思いで胸に手を当てようとし、わずかにぎくりとした。
 右腕のルーンから深紅の光が、まるで血のようにこぼれ落ちている。
 斜に横切る雨の軌跡が目に焼き付いた。
 思わず胸の薔薇十字を雨具の上から探して握りしめる。
 ニコルはもう一度吐息をついた。静中の静は真の静にあらず。平静を取り戻すため、いったんメガネをはずし、疲れ切った頭を重苦しく振ってから手袋の指先で雨の滴をぬぐう。
 敵の気配が次第に引いては寄せ、寄せては返す不穏なうねりとなって高まってくる。
 今何をすべきか。慎重に考えを巡らせてゆく。
 陣を引き払い中州への渡河を完了させるだけでも数時間はゆうにかかる。ならば、あたら急いでも致し方ない。
 時間が必要なら、確保するまでのことだ。
 仮橋に背をむけ、よどみなく歩き出す。次第に足を速め、かろやかに水たまりを飛び越えながらエッシェンバッハの姿を探す。
「ああ、いたいた」
 エッシェンバッハは防塁の櫓にいた。天幕を張り、ごうごうと燃える篝火をいくつも焚いて、身体の芯まで濡らして戻ってくる哨戒兵に当たらせている。ニコルがのこのこと近づいてゆくとエッシェンバッハは目だけをじろりと動かして無愛想に応じた。
「何用だ」
「いえ、お疲れかと思いまして。か、代わろうかな、なんて」
 ニコルはもじもじと手を揉み添わせた。
「無用だ。それより早く中州へ主力部隊を移動させろ」
 そっけなく突き放される。ニコルはとりあえずの笑みでだんまりを決め込んだ。すかさずエッシェンバッハが糾弾の視線を放ってくる。
「よもや抗戦しようというのではあるまいな」
 ニコルは真っ直ぐにその視線を受け止めた。
「駄目だ」
「もし、河岸に到達したとき、誰もいなかったらどうするんです」
 ニコルは思わずチェシーの名を口走りそうになって、喉元にまでこみ上げた言葉をぐっと噛み殺した。
「だから、最後の一人が渡り終えるまで橋頭堡で待つつもりです」
「無駄だ」
 エッシェンバッハは軍帽の陰に表情を伏せた。
「戻って来るわけがない」
「そんなことないです」
「悪あがきは止せ」
 吐き絞るような声だった。
「敗残の寡兵で何ができる。庇護と封殺の守護たる我らが揃ってあのていたらくであったのだぞ。いくら彼の者どもが手練れとはいえ」
 残酷すぎる現実が、烈刃にも似た言葉になって突きつけられる。
「あの状況ではひとたまりもあるまい。違うか」
 即答できない。ニコルはくちびるを噛んだ。
 あの逆巻く奔流に足を取られたら。魔の津波に巻き込まれたら。
 エッシェンバッハの言うとおりだ。ひとたまりもなく死に呑み込まれるがおちだろう。どこまでも押し流されて。
「俺とて最悪の事態など考えたくもない」
 エッシェンバッハは闇すら呑み込む森を振り返った。沈痛な声がひくく漏れ出る。
「だが、当て処のない希望に引きずられて道を踏み外すよりはましだ」
「そんなことありません」
 依怙地に睨み付けた地面がなぜか熱くにじむ。
「戻って来ます。絶対に、みんな」
 ふいに雨音を切り裂く魔の遠吠えが聞こえた。ニコルはぎくりとして顔をあげた。防御柵に駆け集まる騎士の姿が見えた。炎を溶かし込んだサーベルの赤い輝きが鮮烈に目を射る。
「ならば俺が北岸に残ろう」
「そんな」
 ニコルは弾かれたように顔を上げた。愕然として眼を押し開く。
「ぼ、僕が」
「貴公に選択の余地はない」
「上流方向、魔物の接近を確認。排除に向かえ」
 緊急事態を告げる叫び声が交錯する。副官が駆け寄って来た。エッシェンバッハは呼ばわられる前に身支度をすばやくととのえ、踵を返すと行く手にいたニコルを乱暴に押しやった。
「退け。邪魔だ」
「し、しかし、あの」
 ニコルは必死で首を振った。押しのけようとするエッシェンバッハの腕を逆に掴んで引き止める。
「そういうつもりじゃなくて」
「話は後だ。回りの状況を見ろ。遊んでいる場合か」
 エッシェンバッハはにべもなくニコルの手を振り払った。
「貴公だけが苦しんでいるなどと思うな。皆、断腸の思いなのだ」
 ニコルは目を瞬かせた。大きく息をつく。
 何かが意識の端に引っかかった。びくりと肩をふるわせる。
 出し抜けに猛々しい焔のゆらめきが視界を占めてゆく。暗緑の波動が琴線に触れた。
 一人。二人。数十人。数百人。いや――もっと多数の、千に近い数の気配が急接近している。熱情にも似た猛々しい生気が押し寄せた。怒濤の歓呼が聞こえる。
 敵ではない。ニコルは挙措を失って揺れ動くルーンのきらめきを見下ろした。
「こ、これは」
 ルーンの輝きが天幕を赤く透かして放たれてゆく。
「だ……第一師団……?」
 エッシェンバッハが立ち止まった。
「アーテュラス」
 燃えさかる篝火の向こう側から冷静な声が飛ぶ。
「あ、あの、こっこっこれっ」
 ニコルは不意を食らって飛び上がった。上手く言葉にできず、身振り手振りで不器用にルーンを示して説明しようとする。
 エッシェンバッハは首を振った。自らのルーン《庇護のアルギス》に目線を落とす。
「どうやら守るべき友を見いだしたようだな」
 エッシェンバッハは銀盾に触れ、きらめきを確かめながらぐいと顎をしゃくった。かすかな微苦笑が口元を彩っている。
「俺は橋を守らねばならん。迎えに行ってこい」
「はいっ!」
 ニコルは大きく勢い込んで笑い、天幕から飛び出した。
 ざわめきが聞こえた。森が浮き足立っている。あれほどまでに人間の侵入を拒絶していた闇の森が、今は人いきれにあふれ、歓喜の雄叫びに揺れ動いてでもいるかのようだった。
 追い立てられた魔が逃げまどっている。薄緑にきらめく光が森の中を動いているのが見えた。
 ニコルは手に明かりを持って防塁の門から外に駆け出した。
 人籟のどよめきが近づいてくる。
「旗を掲げて」
 こみ上げる気持ちを抑えきれず大声で怒鳴る。旗持ちの工兵小隊が集まってきた。すっかり濡れそぼって貧相な有り様になった聖ティセニアの軍旗が竿に貼り付いている。
 ニコルは闇に眼を凝らした。何度も瞬かせながら身を乗り出す。
「誰か、何か見えますか」
「いえ、まだ」
 傍に控えた士官のもどかしい返答にニコルは濡れたメガネをこすった。
 近づいているのは仲間の気配だけではない。森の中には魔が相変わらず潜んでいる。
「助勢しましょう」
「了解。第六歩兵小隊、前へ」
「僕も出ます」
 ニコルは左腕の《ナウシズ》に触れた。
 ぞくりと背筋につめたい感覚が走り抜ける。ガラスが砕けるに似た破砕音が聞こえた。力が抜け落ちてゆく感覚を振り払って、前方へと歩を進める。
 ねばつく魔の気配が流れ込んでくる。
 と、そのとき。目の前の闇が真二つに割れた。
 何もない――と思っていた空間から突如。
「アーテュラス、何で君がここにいる」
 被っていた迷彩の擬装をばっと剥がして放り投げたかのように、眼前に人影が現れた。深緑色の光が放たれる。
「ホーラダインは何してるんだ」
「う、うわあ!?」
 心底仰天してニコルはのけぞった。
「な、な何っ、怪獣っ!?」
「怪獣はひどいな、久方ぶりにまみえた友に向かって」
 驚きの声――少し疲れて聞こえはするものの、相変わらず陽気な笑い声がきらめいた。泥まみれの顔が笑っている。はしばみ色の瞳が真っ直ぐにニコルを捉えた。
「ああ、それにしても世も末だよよりにもよって君が救いの天使に見えるだなんて。だが終わりよければ全て良しだ」
 髭と泥だらけのむさくるしい顔でアンドレーエは豪快に笑い、いきなり駆け寄ってきたかと思うと馴れ馴れしく肩を組んでのしかかった。
「この際誰でもいい俺の感謝をくれてやる! んむむむむ!」
「ぎゃああ!」
「嬉しくないのか!」
「嬉しいですけど何でアンドレーエさんがぎゃあああ……!」
「おい、ユーゴ、やったぞ、敵じゃねえ! 味方だ! 友軍だぞ!」
 後方に手を振りながら怒鳴っている。
 アンドレーエはニコルにさんざん髭面をすりつけ、首拉ぎの技をばきべきぼきと掛けてひねりつぶしながらにこやかに笑って言った。
「こいつら全員、第一師団の生き残りだ。ということで陣地に入る許可をくれ」
「今すぐぐごごががごぐふっ!」
「通訳しろ、ユーゴ」
「無理です」
 アンドレーエと同じ迷彩服を着ていながらどことなく怜悧な、計算高い雰囲気を漂わせる軍人が近づいてきた。
「こ、この人は」
「俺の副官でユーゴだ」
「お初にお目に掛かります、アーテュラス司令官」
 ユーゴはそこはかとなく憐憫の眼をそらしながら敬礼した。
「こここちらこそご無事で何よりで……っていうかこんなことしてる場合じゃないです。今エッシェンバッハさんが魔物の迎撃に出てるんで早く戻らないと。追撃はありませんでした? 敵第十師団は? イェレミアスと接触しませんでしたか? 魔物は?」
 ニコルはじたばたしながら思いつく限りの質問を重ねようとした。
「第十のアルトゥーリなら来ねえよ」
「え……」
「ヴァンスリヒトが食い止めたからな。ユーゴ、全員を陣へ移動させておけ。とりあえず待機でいい。以降は第五の指示待ちだ」
 いつの間にか声の雰囲気ががらりと変わっている。ただならぬ緊張感にニコルはつい気を呑まれて黙り込んだ。
「というか、エッシェンバッハだと。何だそりゃ。どうなってんだノーラスは」
 アンドレーエはニコルをぽいっと放り出した。
「ホーラダイン猊下様々はどこにいる」
「ざ、ザフエルさんならツアゼルホーヘンに」
 ニコルは喉を押さえ、げほげほと咳き込みながら東南の空を適当に差し示して答えた。
「あの野郎肝心なときに! まあいいや。シャーリア公女は。無事か」
「は、はい。あれっ、え?」
 とりあえずうなずきはしたものの、心外な気がして目をぱちくりとさせる。
「何でアンドレーエさんが殿下のことを御存知なんです? 御一緒してたわけじゃないんでしょ」
 アンドレーエは答えず、暗いまなざしをそらした。
「そ、それに」
 ニコルは次第に高まってくる不安にかられて周囲を見渡した。
 目の前を次々に行軍の兵が横切ってゆく。誰もが疲れきった顔をしていた。ずしりと重い背のうに丸めた寝袋と銃を横差しにして携行し、足を引きずって歩いている。手足に巻いた包帯は泥に汚れ、中には酷い怪我を負っているものもいた。
 呆然と見送る。どれも見慣れない顔ばかりだ。
「第一師団はこれで全員……他には?」
「全員だ」
 突き放すようなアンドレーエの声にニコルは一瞬、身をこわばらせた。部隊の後方に目をこらす。
「え、でも」
「いいからそっちの状況を先に聞かせろ。情報が欲しい」
「あ、あの」
「ぼんやりしてたら魔に食われちまうぞ。だいぶん片づけてはくれたらしいが」
 アンドレーエの声も耳に入らない。
 ニコルは立ちすくんだ。
 何の疑いもなく、彼らと行動を共にしているものとばかり思っていた。
 なのに。
 知らぬ顔ばかりが幽鬼の如く通り過ぎてゆく。どんなに探しても、見当たらなかった。
 ここにあるはずのチェシーの姿が、ヴァンスリヒト大尉の姿が、どこにも。
「アーテュラス」
 アンドレーエの声が降りかかった。
「来い。話がある」
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