次第に青さを増してゆく《紋章》の明滅があやうい炎となって風にたなびく。悪魔の影が闇の尾を引いて目障りに飛び交った。
恍惚とした、一人芝居めいた口調で言葉を継ぐ。
(ああ、これは極上の絶望に匹敵するね。差し入れたひとさじのスプーンからあふれる濃厚な地獄の泥濘感、たちどころにとろけるあまやかな闇の悦び――)
悪魔はくつくつと影をふるわせて嗤った。やがて見慣れたウサギのぬいぐるみに似た形に黒い粒子の影を寄せ集めてふわりと浮き上がる。
(よだれが出るね。あの《カード》を使えばあいつも闇の眷属だ。ええと、ほら、何ていったかなあ、あのはっちゃけた金髪のマダム。敵も味方もないとか言ってたよねえ? 一撃で何人、いや、何千人殺せちゃうのかなあ?)
空が蒼白の色に照らし出される。一瞬、暗黒の影が森をけざやかに切り取った。
引き伸ばされた影がまるで足下から崩れ去るかのように激しく揺れ動いている。激しい風にあおられた木の葉や枝がちりぢりにちぎれ飛んでいった。
理性を奪い去る暗紫の波紋が微弱な鳴動となって地を伝わり、空気を伝わって四方へと広がってゆく。
チェシーは人知れず口元をゆがめた。
《ラグナレク》が揺り立たせる波紋に内なる深淵が呼応している。虚無のうねりが身裡を通り抜けるたび、黒い炎にも似た呪の烙印が皮膚に浮かんでは消え、消えてはまた黒く浮かび上がって、身体の表面をおぞましい束縛の紋様に染めあげてゆく。
(最初から分かってたはずだろ)
半ば濁り、半ば消えかけた幻の薄暗い翼が音もなく広がる。
(祖国ゾディアックの、いや、君自身の覬覦(きゆ)のために争乱を引き起こしティセニアを、ノーラスを焼き尽くし、友を陥れ、踏みにじり――真意はどうあれその擾乱こそが君の任務であり目的であったはずだ。違うとは言わせないよ。まさに僕はそのためにこそ喚ばれたのだからね……なのに、よもや、まだあの――馬鹿のことで未練がましくもためらっているのではないよねえ……?)
「違う」
悪魔は鼻白んでそらぞらしく首を振った。
(では、なぜ、最後の一歩を踏み出そうとしない?)
「……」
(いいんだよ、別に。どうせ今さら何一つ伝えられはしないし、伝えたいこともないし、だからといって改めて君に真実を告げるつもりもない。すべては一夜の夢、過ぎ去りし刹那の戯れだ。眼が覚めれば悉く崩れ去ってゆく。今の君のようにね。それが君の選んだ断絶の未来なのだから)
チェシーはうつろにうなずいた。
「ああ……その通りだ」
(分かってるならいいんだけどさ)
悪魔は眼をほそめ、残酷に含み笑った。細くくねる舌をぺろりと出して口元を舐め回す。
(もう、”敵”なんだからさ、あいつがどうなろうと構わないよね)
影が邪悪な渦をまとって姿を変え始める。
(……あの《カード》を使えば、敵の全てを殺せる)
降りしきる雨。
ゆらりと天を射す、無数のゆがんだ槍。
(自分の命、あるいは味方の命と引き替えに、だっけ……?)
厭わしい笑い声が濡れてまとわりついてゆく。
(いや、他人の命を生贄に僕ら全員を皆殺しにするっていう趣向も一興なんだけどね?)
耳障りな甲高い笑い声が散乱する。
チェシーは無言のままだった。表情すら変えない。
(あいつのことだからさ……ま、どう出るかは分からないけどねえ……?)
青白い閃光が凄惨な夜を照らし出した。
悪魔の影はひょいとチェシーの肩に舞い降りてきた。背や腕を自在に伝って駆け回り、ふざけた仕草で尻尾をまきつけてふいと首元にまで戻ってくるや、ひそやかな毒のささやきを耳打ちする。
(想像するだけでぞくぞくするよね……あんなになってもまだ、もしかしたら君を信じてるのかもしれないって思ったらさあ……戻ってくるはずもない君を待って、待ち続けて、その挙げ句ぼろぼろに穢されて、傷ついて、最後には壊れてゆくのかと思ったらさ……ああ……たまんないよねえ……!)
豪雨の中、雷鳴が続けざまに鳴り渡る。
「もういい」
チェシーは眼を半に閉じた。濡れた左腕を振り払う。
飛沫とともに闇の奔流が解き放たれた。
嗤い声が裏返った。小悪魔の姿がみるみる巨大でいびつな漆黒の闇へとうち広がり、ねじれ返ったかと思うと一瞬で収縮して元の姿へと戻る。
ル・フェはけたたましく笑いながら雨にうたれ、弾丸のように飛び立った。青黒い光跡で闇をジグザグに切り裂いて消え失せる。
チェシーはその光のゆくえをうつろな眼で追った。
思い出せない。
何がが欠け落ちている。
手のひらに触れる、つめたい――
何かの、あるいは誰かと共に過ごした記憶がこぼれおちてゆく。
チェシーはひくく嗤った。探しても無意味だ。裏切り者に神の祝福は必要ない。失われてしまったものはもう、戻らない。
二度と。
甲高い声が聞こえる。
何者かの影が頭上を駆け抜けたような気がしてニコルはふいに顔を上げた。だが何も見えない。
闇のオーロラが手元を黒く染め上げてゆく。朗々たる角笛の音響が鳴り渡った。酷薄な音色に死の絶叫と狂気の混成合唱が入り交じってゆく。
薔薇の瞳に虚無が映り込んだ。魔の群れが怯え、どよめく。
「ひとつ」
耳を聾する死の交響曲が戦場を震撼させる。
「ふたつ……」
黄昏の呼び声にあやつられた魔の群れが咆吼を上げてなだれかかった。
ニコルは声を上げて笑った。振り上げた《カード》からあふれ出す暗黒の呪魂がありとあらゆる呪いの言葉、忌まわしき音階、中傷、害意、憎悪、そして五感の全てを狂わせる精神の矢となっておぞましい尾をくねり引きながら魔の群れへと突き刺さった。
「隠れても無駄だ、イェレミアス」
黄昏の織り成す音律が魔物の群れをつらぬき、残酷にのたうって、串刺しにした死骸を四方八方へとまき散らした。さらなる断末魔の旋律が奏でられるなか、雷鳴が轟き渡り、崩れ落ち、絶叫と暗黒の豪雨が天をも引きずり堕とす。
「賤しくも貴族を称するのならば正々堂々、前に出て僕と戦え。兵と魔物の背後に隠れてこそこそするのが貴様の戦術か」
闇にまといつかれ、眼が次第に見えなくなってゆく。
感じ取れるのは吠え声ばかりだ。
周囲は闇。完全なる闇だった。確かに景色が見えているはずなのに光すら感じ取れない。
視覚を――失ったのだと気付いてニコルはまた笑った。見えていないのではない。ただ、分からない。眼に映る阿鼻叫喚の光景が理解できなくなっている。光が心に届かない。
聞こえるのは破壊の轟音ばかりだった。自らの手で握りつぶすのにも似た粉砕と轢殺の騒音、精神を極限にまで削り取るけたたましい軋みが耳を掻きむしる。
《先制のエフワズ》が脳裏に映し出す凄惨な深紅の映像だけが現実と乖離した崩壊の画像となって迫ってきた。
「たかだか数百人の敗残兵を相手に」
制御を失った魔物の群れが逃げ散ってゆく。ニコルはその気配を感じ取ってけたたましく泣き、叫んだ。
「イェレミアス、お前は卑怯者だ。敗軍の将を前にしてなおその名を末代まで嘲笑と愚弄の対象として残すとは。さぞや満足だろうな、イェレミアス」
「おのれ、小僧……言わせておけば!」
歯ぎしりにも似た声が洩れ伝わってきた。
「全軍、前へ! あの小僧をひねり殺せ!」
敵軍がどこに、何人いるのかも分からなかった。吐き気を催す恐怖と生理的な嫌悪が豪雨となって吹き付けてくる。耐えきれず、ニコルは再び恐慌の大音響を解き放った。
声が聞こえた。
人の死ぬ声だった。すべてを圧して響き渡る絶望、悲嘆、恐怖、激痛、正視しがたい、凄惨極まりない末路、この世の終わりにも似た断末魔の声、声、声、声――
心が、砕ける。
ふいに何も聞こえなくなった。狂気の棘と化してまとわりついていた叫喚が断ち切られる。
聴覚をも失ったらしい。ニコルは笑った。その壊れた笑い声すらもう聞こえない。
「何人死んだ? まだ来る気か? 僕は、一人でも戦える……!」
何一つ見えない。
聞こえない。
でも、これで、もう、聞かずにすむ。
すべてを。
心も。感覚も。
全部、固く、閉ざしてしまえば。
もう――
出し抜けに誰かの絶叫が聞こえた。
ニコルは錯愕として眼を押し開いた。
見えてはならないものが見えた。
赤い色。黒い闇。
あってはならないことが、酸鼻をきわめた様相で眼に飛び込んでくる。
もう見えないはずだった。聞こえないはずだった。なのになぜ現実が見えるのか。ニコルは震え、かぶりを振った。突き返されてきた現実に理性が悲鳴を上げる。
足がふらつく。
霹靂の如き記憶がよみがえった。あの日、レディ・アーテュラスが言った言葉。自分、あるいは仲間の命と引き替えに――
「もう、諦めたら……?」
雨に濡れ、不穏にきらめく銀色の闇が揺れ動いている。
それは豊満な女の裸身を擬した悪魔だった。いつの間に集結したものか、何十、何百、いや、何千何万もの群れとなって森にひしめいている。
無数にひそむ、妖艶な気配。
水笛に似た、白い吐息の音。
息を呑む静寂のなか、目の前にゆらりと赤と黒の軍衣をまとった女が歩み出てきた。
黒い優雅な傘を傾けて差し、もう一方の腕にちいさな何かを抱いて、イェレミアスとニコル、それぞれにあやうい紅を掃いた臈長けた眼差しを走らせる。
静かな女の声が聞こえた。
「そこまでよ、ニコル・ディス・アーテュラス」
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