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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 その37
 異国の香りと言葉が記憶の深層に突き立つ。
「お前は」
 息苦しく喘ぐ。
「ふふ、いつぞやの襲撃以来ね。ノーラスの坊や」
 レディ・ブランウェンは残酷な余裕を見せて笑った。腕に抱いている黒いものがうっすらと青い陽炎を立ちのぼらせる。《悪魔の紋章》だ。
 ニコルはくちびるを蒼白になるまで強く噛みしめた。恐怖を無理やりに憎悪へと転嫁し、相手を穿つように睨み付ける。完全に手詰まりだった。それでも心が折れたことを悟られぬよう、身構えつつじりじりと後ずさる。
「……わたしのこと覚えていてくれたかしら」
 黒い傘を地面へと投げ棄てる。水しぶきが跳ねた。それが合図でもあるかのようにレディ・ブランウェンの背後を赤いランプの炎がいくつも取り巻いて浮かび上がった。
「ブランウェン、貴様、これは何の真似だ」
 怒鳴り声をいたずらに興奮させたゾディアック軍人が豪奢な軍衣をひるがえらせて突き進んでくる。
「出過ぎた真似をするな。この悪魔は何だ。《紋章使い》でもない貴様がどこで使い魔を手に入れた。答えろ」
 語調も荒くわめき立てる。軍人は手にした元帥杖で銀の悪魔を指し示した。鈴なりになった胸の勲章が滑稽な音を立てて互いにぶつかり合った。声の端々に苛立ちと動揺が混じっている。
 レディ・ブランウェンはふんと鼻先でいなし、せせら笑った。
「うるさいわね。さんざんやられたくせして」
「黙れ、牝犬が!」
「女王アリアンロッド勅使として」
 レディ・ブランウェンは胸元から銀色に光る筒を取り出した。ほのかに赤く発光するゾディアックの紋章が透き通って見える。
「イェレミアスと第四師団に一時休戦を命ずる。いいわね。はいこれ陛下の勅書。負け犬は負け犬らしくそこで遠吠えしてなさいな」
 そっけなく銀の筒をイェレミアスの足下へと投げやる。
「貴様、いつの間に!」
「休戦の条件はひとつよ、坊や」
 以降、怒りのあまり青筋を立てこめかみをひくひくと痙攣させているイェレミアスを完全に無視し、レディ・ブランウェンはゆっくりと振り返った。
 カンテラの醸す幽玄な明かりに照らされた妖艶な女の立ち姿がくっきりと浮かび上がっている。その足下から立ちのぼるようにして伸びる暗い影にニコルはなぜか身体の奥底がうすら寒くなるのを覚えた。
「アルトゥシーの戦いを思い出すことね」
 レディ・ブランウェンはひそやかに笑った。
「そこにいる貴方の部下全員を皆殺しにしてもこの戦争は終わらない。でも、もし」
 影が不穏に波打つ。反応した銀色の下級悪魔が鉄の羽をきしめかせて甲高く鳴いた。
「貴方の誇りと一時の平和を引き替えにするとしたらどうかしら」
 ニコルは息を呑んだ。
「そこにいる全員の命と」
 差し伸べられた指先と講和の微笑みが重すぎる豪雨となって降りしきる。
「貴方の誇り。どちらが重いか比べてみなさいな。もしかしたら、貴方なら彼らを助けられるかもしれなくてよ」
「勝手な条件を付けるな」
 イェレミアスが憤怒の形相で怒鳴る。
「これ以上貴様等に恥をかかされてなるものか。奴は《ナウシズ》の守護だ。絶対に処刑するぞ。この手で直々にな!」
「相変わらずどうしようもないクズね」
 レディ・ブランウェンは侮蔑の表情で吐き捨てた。
「ほんの少し口を開いただけで無能が露呈するなんて」
「おのれ!」
「悪いけど馬鹿と話している暇はないの」
 レディ・ブランウェンはくすくすと指の背を口元に添えて笑った。
「可哀想だと思わない? まだこんな子どもなのに、何百人もの兵の命を無理やりに背負わされて、戦わされて」
 蠱惑的なまなざしがふいにぎらりと赤い光を放ってティセニア兵を射すくめた。
「投降なさいな、アーテュラス」
 どよめきが電流のように走り抜ける。レディ・ブランウェンは籠絡の笑みをこぼして肩をすくめた。
「さもなくばそいつらを皆殺しにするまでよ」
 銀の悪魔が笑いめいた軋みをあげて身体を揺する。
「たかだか雑兵如き、捕虜にしてやる価値もないわ。それとももっと刺激的な展開がお望みかしら。例えば、この悪魔どもを中州へ放って、何とか自分たちだけは生き延びたと油断しきってる与太連中の頭上で全部まとめて自爆させてやるとか、ね」
 ニコルは呆然としてレディ・ブランウェンの顔を見た。
 アルトゥシーの凄惨な破壊の情景が脳裏によみがえる。
 降り注ぐ銀の炎と爆風でまたたくまに廃墟と化していった街の、身悶えんばかりに凄まじい痛恨の光景。燃えさかる火、天を真っ黒に染める煤煙、そして鳴き交わす銀の悪魔に見下ろされながら無力にほぞを噛むだけの自分と、絶望と瓦礫に埋もれ、血まみれになったチェシーの姿と――
 思い出しただけで膝が震えた。
「だめだ。それだけは」
 声がかすれる。
「もちろん、貴方のその邪悪な《仲間殺しのカード》がこの場にいる全員を喰らいつくすのと、中州にいる貴方の仲間が全滅するのと」
 レディ・ブランウェンは冷酷に続けた。
「どちらが早いか試してあげてもよくってよ。貴方にその匹夫の勇が少しでもあるのならばね。試す価値がないとは言わないわ。少なくともわたしとイェレミアス、あと何人かの兵と魔物どもを道連れにすることぐらいはできるはず。さっきも言ったように」
 足下にわだかまった黒い影がわずかにうごめく。
「貴方やわたしたちを殺しただけではこの戦争は終わらないけど、でも、その化け物みたいな《カード》には、間違いなくティセニアに勝利をもたらす”力”がある。そうね、むしろ今こそ使うべきかもしれない……おびただしい犠牲を払うことによってのみ得られる唯一無二の純粋な”力”、たとえそれがどんなに邪悪な”力”であろうとも、多少の犠牲で完全なる勝利と支配権を得られるのであれば誰も貴方を責めたりはしない。容赦なく振るって当然だわ。それが戦争なんだものね。みんな血みどろになって戦ってきた。綺麗な戦争なんてどこにもない、今さら貴方だけが被害者ぶるのも正論じゃない。わたしたちの仲間も何百人、何千人と死んできたのだから」
 レディ・ブランウェンは何が可笑しいのかくすくすと笑い出した。
「だから、お互いに利する条件を出そうということなの。分かったら決めてちょうだい。貴方一人の命と引き替えに何千という同胞の死を留保するか、それとも」
「ふざけるな」
 突然、ニコルの背後から数人の士官が駆け出してきた。ニコルはよろめいた。
「誰がそのような奸計に惑わされるものか」
「そうだ」
 口々に叫び立てる。
「師団長を守れ」
「師団長、お下がりを」
「師団長っ」
 ニコルを背後へ押しやろうとした士官がふいに硬直した。
 血走った眼が愕然と剥き出される。
 ニコルの意志に反して《カード》から放たれた何かが士官の身体を襤褸雑巾のように絞り上げていた。狂気めいた蠕動を見せて激しくのたうつ。
「ま、さか」
 そのまま士官は棒のように泥を散らして倒れ込んだ。幽体じみた青白い光が《カード》の裏面へと音を立てて吸い込まれる。
「し、しっかりして」
 ニコルは動顛して膝をつき、士官を揺すり起こそうとした。その声が凍り付く。
 士官は動かない。
 手が、ぶるぶると震えだした。
 もう、限界だった。
 ニコルは泥に汚れた顔を上げた。茫然と周りを見回す。視線の先の兵が息を呑み、あからさまに死から逃れようとして逃げまどうのが見えた。
「時間よ、坊や」
 混乱するティセニア兵を嘲笑の眼で見やりながらレディ・ブランウェンは肩をすくめた。
 ささめきが雨と濁流の轟音とにかき消される。
「決めなさい、アーテュラス。貴方自身で」
 あまりにも無力だった。
 誰ひとり護れない。誰一人、救えない。
 いや、もう、そんな風に思うことさえおこがましいのかもしれなかった。敗北を悔しいと思うことすら。
 ニコルは《ラグナレク》を取り落とした。
 《カード》の表面がみるみる濡れて、雨に滲んでゆく。漂う闇紫の霧が妬みと飢餓にくねる無数の小さな黒い手となってニコルの腕にからみついた。
「……僕ひとりで十分だ」
 かすれた声でつぶやく。
「賢明な判断ね」
 レディ・ブランウェンは酷薄に微笑んだ。
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