時を移さずしてイェレミアス率いる第四巨蟹宮師団及びレディ・ブランウェン率いる第八天蠍宮師団は敗走するティセニア軍への追撃を開始した。
それだけではない。さらに急迫の展開が追い打ちを掛ける。攻城砲部隊としてアルトゥーリの第十磨羯宮師団、加えてツアゼルへ進撃中であった第一白羊宮師団より分隊しノーラス方面へと密かに展開していたという第五獅子宮師団がそれぞれノーラス攻囲戦へ合流することとなったのである。
相次いでもたらされた撤退と敗北、敵接近の急報にノーラスを取り巻く情勢が混迷の極みへと陥ったのは言うまでもない。退却するティセニア軍を追う魔物の軍勢は海嘯の如く押し寄せて森を埋め尽くし、退路を塞ぎ、堡塁をことごとく破壊し尽くした。かつては無敗を誇り、鉄壁、盤石の要塞と賞されたノーラスが今や見る影もなく孤立し、防戦一方のていたらくに転落するなどと、一体誰が想像し得ただろうか。今やノーラスは彼の城砦に決死の覚悟で踏みとどまったエッシェンバッハとアンドレーエによる死にものぐるいの抗戦でかろうじて防御要塞としての体裁を保ち、ティセニア国内への敵軍浸透を押し止めているに過ぎなかった。後方からの増援がなければいつ戦線が決壊するか分からない状況でありながら、その増援自体を送り込むことすら困難な戦況へと至りつつあったのである。
「魔物もいいけどいい加減うっとうしいわね」
数日間降り続いた雨がようやくあがって中州への渡河が可能になったと聞いてレディ・ブランウェンはいらいらと吐き捨てた。
「どこぞの馬鹿が考え無しにそこらじゅう魔物だらけにしてくれたせいで肝心の歩兵を全然先に進められないじゃない」
ニコルは足枷と鎖で縛められた状態のまま、ゾディアック軍が渡河準備にかかるのをぼんやりと見つめていた。
身につけているのはボタンすらない質素な女物の服だけだ。
ひそかに武器を仕込めるような、例えばブーツ、手袋、上着の類やあるいは髪留めのようなアクセサリーの着用も当然許されない。それどころか生活の全てをレディ・ブランウェンの厳重な監視下に置かれている有り様だ。
捕虜として投降したにも関わらず未だ収監されていないのは、ひとえにノーラス急襲への従軍を強制されているせいだった。人間の盾として、あるいは無力な捕虜として強引に連れ回される姿をティセニア軍へ見せつけ、士気喪失させるためだろう。
あれからずっと、天幕の入り口に杭を打ち、鎖で片方の足首をまるで犬のように繋がれて、持ち出すことを許された折りたたみの帆布椅子に日がな一日座り続けるだけのうつろな囚われの姿を晒している。
しかしそれすら捕虜にとっては最上級の待遇であると思えた。
風に白いワンピースの裾がふわふわとはためいている。
裸足の足下がこころもとない。
ざわざわと森の緑がうねっている。河は一時の激しさとはうって変わって比較的おだやかで豊かないつもの流量に戻っていた。
見上げる南の空はひどく青く、広く、何より怖いほどにまぶしかった。
何日ぶりの太陽だろう、と思う。
豊かな南の森の彼方に青く濃く雄大に伸び連なってゆく山嶺が見える。あの山腹のどこかにノーラス城砦があるはずだった。
目を凝らして白い城壁の在処を探す。
見えるわけがなかった。
思わず涙がこみあげそうになる。
ニコルはふるえる唇を引きつったぶざまな自嘲の形にきつく噛みしめた。
泣くのは最後だけでいい。泣いて済む状況でもない。
胸元の小さな薔薇十字のペンダントを手で探り、鎖ごとからめ取るようにして握りしめる。
ルーンもカードも奪われた自分が物理的に無力であることは分かっていた。だからといって精神論でどうにかなるものでもない。
冷静に考えるしかなかった。幸いにして時間はそれなりにある。好機を捕らえ、何としてでも奪われたルーンを取り返し、その後ザフエルに連絡を取ってティセニアへ帰るのだ。
連れ戻されるのではなく、自らの意志で脱出しノーラスへ帰り、そして。
真実がつまびらかにされるのを審問の場で待つ。
……怖かった。
赦しが請えるとは思わなかった。身分性別を偽ることは神を欺くも同然だ。不信仰と棄教、異端の罪を覚悟する以外にティセニアへ戻るすべはない。
もし神殿騎士団が何らかの行動を起こすとすればそれは囚われの聖女を奪還するためなどでは決してなく、背教の騎士を異端審問に掛けんがための追討となるはずだった。
逃げることはできない。それは今まで庇ってくれた皆を窮地へ追い込むことになる。司教伯座にあるザフエルがニコルの帰参に伴う免罪を願い出ることは自らもまた異端に与するを認めるに等しいだろう。アーテュラス家の義父母やアンシュベルも同様だ。異端の魔女をかくまったなどという罪を恩義有る彼らに着せるわけには絶対にゆかない。
皆が手向けてくれた慈愛を浅ましくも裏切って自分だけ逃げ隠れするなどできるはずがなかった。
運命は変わらない。
きっと繰り返される。
それでも、帰らなければならない。
二度と戻らない平穏な日々、皆で笑い合い支え合ってきた、あのころの幸せな思い出だけを胸に抱いて。
死の丘、城砦ノーラスへ。
「橋ができたら対岸へ渡るわよ」
足下に人影が差した。ニコルは顔を上げた。
日傘を差したレディ・ブランウェンが微笑みながらやって来るのが見えた。馬鹿にしたような声音で話しかけてくる。
「貴女にも当然人間の盾として参戦してもらうことになるわ」
「いや」
ニコルはとっさに底意を秘め隠し、意識の表層を愚かしく濁らせた。敗北の事実に挫折したかのような素振りをしていればいつか敵も油断するだろう。そうすれば脱走の機会は十分にある。
「……こわい……行きたくない……」
「お馬鹿ちゃんの真似はお止しなさいな」
レディ・ブランウェンは首を振って苦笑した。
「そんなやわな性根じゃないでしょ」
「やめて……おねがい……殺される……」
「ま、そこまで徹底して演技したいというなら止めはしないけど」
甘い香りがふわりと近づく。レディ・ブランウェンはニコルの顎を籠絡の仕草で持ち上げた。甘い紅の香りのするくちびるを近づける。
「全然泣きもしてないくせに」
ニコルはどきりとして眼を瞠り、レディ・ブランウェンを見返した。レディ・ブランウェンはしたりとばかりにニコルの視線を真正面から受け止めた。如才なく笑っている。
「あら、図星みたいね。ふふ、可愛い。これは虐め甲斐があるってものだわ」
(獅子宮師団が来たぜ。それとアルトゥーリが補給を連れてきた)
黒いぬいぐるみの影が舞い降りてきた。レディ・ブランウェンは表情をうんざりした苛立ちに変えて身を起こした。
「せっかく弄って愉しんでたのに」
(は?)
「まあいいわ。補給は有難いし。それより」
ぱたぱたと小さな羽を動かす影に不信の眼差しを向ける。
「その獅子宮師団って何なの。名前はこの際どうでもいいけど実際に第五が師団として編成されたって話は今まで聞いたこと無いわ。誰の差し金なの。指揮官は?」
(聞くまでもないと思うけど)
レディ・ブランウェンは肩をすくめた。
「……皮肉なものね。連絡はそれだけ?」
(うっ)
影は妙に怯えた仕草でおどおどとちぢこまった。
(ティセニア軍の増援が近づいてる。おそらくあいつだ。もし奴と手合わせを望まないというなら城攻めの猶予は二、三日しかない)
「ということは、結局、ツアゼル方面では何の成果も上げられなかったということね。だらしない」
ニコルは肩を震わせた。つい顔を上げてしまう。
「あら、聞いてたの」
レディ・ブランウェンがからかうような微笑みを投げかけた。
「もしかして期待した?」
ニコルは顔を伏せた。首を振る。
「……僕に人質としての価値なんてないって言っただろ」
「試してみれば分かるわ」
そのとき森の向こう側から鉄騎の騒然とした物音が近づいてきた。黒と赤の軍衣を着た部隊が現れる。軍馬が牽く物々しい野戦砲や砲弾の箱、重厚な幌を被った荷車などが続々と到着し、たちまち周辺はむせ返るような牛馬の臭いと鳴き声、人と鉄のごったがえす苦々しい赤錆混じりの空気で満たされた。
「とりあえず、来たけど」
「ずいぶんと遅い御到着ね、アルトゥーリ」
レディ・ブランウェンは気安い態度でかろやかに手をひらめかせた。
「悪かったな」
耳当てのついた帽子をかぶった陰気な顔の青年が猫背気味に近づいてくる。青年はじろりとニコルを見やった。
「これ、何」
「言ったでしょ。捕虜よ」
「だから何で女の格好なんだよ」
「女の子だからよ」
聞くなり、第十師団のアルトゥーリは帽子の下のぼさぼさした黒っぽい前髪の下に隠れた眼を心外そうに見開いた。
「ノーラスの悪魔野郎を捕まえたんじゃなかったのか」
「だからそうだと言ってるでしょ。鈍いわね」
レディ・ブランウェンは侮蔑の表情で冷ややかに吐き捨てた。
「詮索はいいからさっさと橋を架けてきてちょうだい」
アルトゥーリはろくに答えもせずむっつりと踵を返そうとした。そのまま、しばらく考え込んだ様子で立ち止まる。用心深い眼差しがニコルを捉えた。
「その他は。第二のアンドレーエとか、そのへん」
「さあね」
レディ・ブランウェンはそっけない。
「何か気に懸かることでもあるの」
アルトゥーリは黙りこくった。そのまま背中を丸め、ポケットに両手を突っ込んで陰鬱に去ってゆく。レディ・ブランウェンはニコルを見下ろしながらくすくすと笑った。
「明日には河南へ渡れると思うわ。総攻撃の際は貴女にもせいぜい役に立ってもらうから。期待してるわよ」
ニコルはレディ・ブランウェンの嘲笑を無視し、うつむいた。地に落ちた悪魔の影が目の前を音もなく飛びすぎてゆく。
虜囚の鎖が残酷に鳴った。
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