ふつふつと煮滾るようなおぞましい軋り声が四方八方から聞こえてくる。
地面から、闇の彼方から、泥にまみれた魔物が漆黒にねばつく腕を伸ばし、這い上がってくる。饐えた鉄錆の臭い、息をする度に苦みすら感じられる空気の味、枝の砕ける音、濁流の轟き。
唸り声が雨音を圧して森を取り巻いてゆく。
もはや生き延びる希望などとうに潰えていた。必死に逃げて、足掻いて、ようやくここまで来たというのに、さながら断崖絶壁の氷山に遮られたかのような絶望が圧倒的な重量感で行く手を悉く押しつぶしながら立ち塞がっている。
それでもなお不撓不屈の燃えるまなざしを失わぬ騎士たちは、公女を円陣で守りつつ、うごめき押し寄せる悪鬼の群れを睨み返していた。
「もう、嫌」
シャーリアは声をふるわせた。がくりと力を失って膝から地にくずれる。
わななきの止まらない手から、豪奢な金装飾を施した自決用の拳銃がこぼれ落ちた。
「嫌よ、こんなところで死にたくない」
「殿下」
顔も知らぬ騎士が駆け寄ってきた。くずおれるシャーリアを血まみれの腕で抱き支える。
「どうか最後まで希望をお捨てになりませぬよう。援軍は来ます。必ず」
「何度も同じこと言わないで。あんなにいるのに。来られるわけがないわ。それより」
シャーリアは悲痛にうめいた。
「サリスヴァールはどこなの。ヴァンスリヒトは。はやくわたくしの元に来るように言って。それともまたわたくしを見捨てて――」
「殿下」
騎士は名状しがたい表情をこわばらせた。地に落ちた拳銃を拾い上げ、逡巡の所作で手渡そうとする。
「嫌よ」
シャーリアは甲走った声をあげて騎士の手を払いのけた。
「だれが、そんなもの」
ふいに。
魔の気配がまがまがしい風に吹き流され、ぞわり、と凶悪に揺らいだ。
声が途絶える。
闇に毒々しく光る無数の深紅の眼が、恐怖を捕らえた。喜悦のまなざしがまさぐるような舌なめずりの様相に変わってゆく。
「……来る……」
誰かが、息を呑んだ。
「来るぞ……」
「殿下! 早く」
騎士は切羽詰まった声をあげてシャーリアの手へ拳銃をねじ込んだ。そのまま円陣の防御に駆け出してゆく。シャーリアはよろめき、息をすすり込んだ。
前方から。
後方から。
頭上から。
おぞましく膨れあがった腐肉の塊が、ぼとぼとしたたり落ちながら伸び上った。寄せ集められた一つ一つが強欲の牙となり、悪臭の噴煙となり、毛むくじゃらの身体、ぎらつく眼となって、涎をまき散らし吼え猛る。
次の瞬間。
常軌を逸した濤声が森を埋め尽くした。吐瀉物にも似た魔の群れが襲いかかってくる。飛び散る汚濁に悲鳴が一瞬にして呑み込まれ、かき消され、吹き飛ばされ――
シャーリアは泣きさけびながら闇に向かって自決用の弾を撃ち尽くした。銃声だけがいたずらに呑み込まれる。それでも、何の手応えもない。
もはや反応すらしなくなった引き金をシャーリアは半狂乱の状態で何度も引き続けた。
目前に暗愚なる飢餓が迫ってくる。骨を、正気を削り飛ばすかのような歯ぎしりに視界の全てがうずめつくされてゆく。
死ぬ。貪り喰われる。
気が違いそうなほど無様な最期に思えた。
魔を打ち払う《封殺のナウシズ》は魔女マイヤの魂を継ぐアーテュラスにしか使えない。
そのアーテュラス率いる第五師団を無力にしたのは誰か。思い起こすまでもなかった。ホーラダインとサリスヴァールの不在という致命的な状況下で何万という援軍を派遣する余力などあろうはずもない。
今度こそ終わる。誰も助けになど来ない。
そう、覚悟したとき。
闇が白銀の十字に断ち割られた。
重金属めいた轟音が降り注いだ。ガラスの砕け散るのにも似た残響の音が続けざまに炸裂し、鼓膜をつんざく。
シャーリアは悲鳴を上げた。爆煙が地に沿ってめくれ上がるように噴出し、視界をかき乱す。
鎖の音がした。悲鳴の木霊が消えてゆく。
十字を描いた銀盾を掲げる人影が見えた。
時に暗く、時に激しくきらめき燃える水晶の結界が遙か頭上にまで広がっている。
流れくだる滝にも似た光が蒼銀の飛沫を散らしていた。
結界に触れた魔物が絶叫を上げて潰れ、次々に蒸発し霧散して消え失せてゆく。
「でっでっでーーー……んがっ!」
次いで、びたーんと。
おそらくは最後の瞬間に足を滑らせでもしたのであろう、結界内へ転がり込もうとしてあえなくも失敗し、がしゃーんと頭からスルメのごとく結界に衝突して貼り付いていた何某かが、頭上にピヨピヨと金色のひよこを回らせてずずずず、と剥がれ落ちた。
ひょろりと足をもつれさせたかと思うと、ひび割れメガネを手にしたまま失神し仰向けにばたーんとひっくり返る。
「魔物にも劣る反射神経だな」
エッシェンバッハはにべもなく声を投げかけた。ゆらめきの白い影が痩け落ちた横顔を鋭利に照らし出す。
腕に巻かれた鎖が澄んだ音を立ててじゃらりとほどけ落ちた。
その真横を白銀の霊光に護られた騎兵隊が泥を蹴立てて駆け抜けた。たちどころにあふれる希望のきらめきが戦場の空気を一転させる。
神を讃美する雄叫びが雨空に解き放たれた。
「殿下殿下殿下ーー!」
声に押され、ニコルは真っ赤な鼻を手で隠しながら飛び起きた。
「良かったご無事で!」
半泣きでシャーリアに飛びつく。
シャーリアは空虚によろめいた。
「あっしまった」
ニコルはあわてて鼻をこすり上げ、汚れきった包帯を巻いたシャーリアの足に手を添えた。
「お怪我はっ! と、と、とりあえず止血はされてますね、うん、これなら大丈夫。ゾロ博士が調合してくれた秘薬を持って来てますので後ですぐに治療できます! 他に重傷の人はいませんか」
「皆の者」
エッシェンバッハは余計な無駄口を一切叩くことなく冷徹にシャーリアを護衛してきた騎士を見回した。
「よくぞ公女の御身を守り抜いた。貴公等の果敢なる勇気感じ入ったぞ。以降は我らに護衛を任せ身体を休められたし」
「後続は僕が《エフワズ》で探し出して誘導します」
ニコルが後を引き取って続ける。
「だからみんなはこのまま殿下を護衛して先に撤退を開始してください」
「大丈夫か」
「大丈夫です。任せてください」
ニコルは凛と声を響かせた。
「まだ到着してない部隊もあるはずですし」
エッシェンバッハは冷厳のまなざしをニコルへとくれた。
「そうだな」
「おだまり、アーテュラス」
シャーリアはふいに泥と涙で汚れた顔を上げた。険しくも濡れた美しい青い瞳でニコルを睨み付ける。
声が震えていた。
「おまえ――おまえは、いつもそうだわ。いつも、自分だけが特別であるかのような顔をして。だから、あのひとも」
「総員撤収。繰り返す、総員撤収だ」
エッシェンバッハが場を圧する怒鳴り声をあげた。
「アーテュラス、後方は任せる。側面からの襲撃に気をつけろ」
「了解です」
ニコルは首を鶴のように伸び上がらせて声を張り上げた。
「馬鹿。何を言ってるの。魔女の分際で。おまえはわたくしだけを護ればいいのよ」
シャーリアは涙でくぐもった声をあげた。ニコルの腕を掴み、ぎり、ぎり、と、手袋越しに悲痛な爪を立てる。
「そうすれば後で貶めるでしょ。我が儘で、愚かで、最低の女だと。そうすれば皆が敗残の将たるわたくしを失墜させている合間にあのひとを取り戻せるわ。さぞや良い口実になるでしょうよ。愚かなわたくしの代わりに指揮を執って無事に撤退を完了させれば、皆がおまえの手腕を賞賛する。わたくしを陰で貶む代わりにおまえを真の英雄と褒め称えるわ。そうよ、そうなさいな……そうすれば今度こそ認められるわ! 傀儡の元帥としてでも、異端の聖騎士としてでもなく、本当の――」
「殿下」
ニコルは泣き出しそうになるのをこらえてシャーリアの声を遮った。くちびるを噛み、首を振る。
「フランが言ってました。もし危なかったら逃げろって。真理だと思います。今、僕らがすべきなのは皆で力を合わせて全力で逃げることです。皆が必死になって殿下を守ってきたという、その事実こそを信じてあげてください」
「信じてどうなるというの」
シャーリアは他の騎士に促され立ち上がりながらつぶやいた。
「わたくしが誰を信じようと、もう誰もわたくしのことなど」
「えっ僕は信じてますけど。殿下なら分かってくださるって」
「それは」
シャーリアは顔をそむけた。
「おまえが馬鹿だからよ……」
「ありゃりゃ」
「もう、いい加減になさいな。分かっているのでしょ」
シャーリアは刺々しい自嘲の声で吐き捨てた。
「わたくしは……ずっと……おまえを!」
「ええ、分かってますとも!」
ニコルは無駄に明るく胸を張った。
「逃げ足だけは誰よりも早い、でしょ。でもこれは実はすごい取り柄だったんですよ。こういうときにお役に立てるんだから」
呑気に笑って見せつつニコルはすばやく付け加えた。
「だから、ね、お願いします。安心して逃げてください。殿下を守り抜くことが僕らにとっての希望であり、騎士の誇りなのだということを忘れないでください」
「……魔物が急激に増えています!」
哨戒兵が切迫の声で怒鳴った。
「危険です」
「まずい」
エッシェンバッハが腕を振り払った。鎖がきらびやかに鳴る。
「敵本隊と直接衝突することだけは避けねばならん。急げ。可能な限り隊列を整えろ。傷病兵を囲い込め。ひるむ間はないぞ」
絶望から希望へ。生還への最後の望みを賭けて兵が集結する。俄然勢い込み、慌ただしくなった部隊の後方へと向かおうとして、ニコルは唐突に肝心なことを聞きそびれていたと思い出した。
「殿下、あっ、すみません」
護衛の騎士に囲まれて馬に乗ろうとしていたシャーリアの背にあわてて声をかける。
「ヴァンスリヒトさんはどこです。一緒じゃないんですか。チェシーさんは? 後続とどれぐらい離れてるか分かります?」
シャーリアはふいに蒼白の顔をこわばらせた。答えずに去ろうとする。
「殿下、あの、ちょ、ちょっと」
聞こえなかったのかと思い、焦ってばたばたと追いかける。
「殿下ってば」
「いないわ」
遠い雷鳴が聞こえた。一瞬、青白く闇が反転する。
シャーリアの落とす影がくろぐろと浮かび上がった。
「いないのよ。二人とも」
凍える稲妻がひらめく。
騒然と行き違う馬群に呑み込まれ、シャーリアの声はあっけなくも途切れ、消え失せた。
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