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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 その31
 部隊は絶望の泥沼をかきわけ進み始めた。
 何度、結界が破壊されたか分からない。止むどころかますます激しさを増す雨に打たれ、体力を奪われて、疲労困憊した兵がくずおれるように倒れて動かなくなる。支える暇もなく、魔に襲われる度にまた一人、また一人と無惨な犠牲者が増えてゆく。
 それでも、諦めるわけにはゆかなかった。
 ニコルは時に涙を堪え、時に皆を鼓舞しながら必死に駆けずり回って部隊の護衛を務め続けた。その様子に感化されたか、さしものシャーリアも弱音ひとつ吐こうとはしなくなっていた。貴人らしい流麗な剣を振るいつつ、《ナウシズ》が討ち洩らした魔の尖兵を討ち、一方でティセニアの青い旗を振りかざして前へと進んでいる。
 エッシェンバッハの姿は見えなかった。おそらく庇護の結界を維持するのに全精力を尽くしているのだろう。
 気を抜けば結界をこじ開けようと魔が迫ってくる。《アルギス》の庇護がなければとうに全滅していたに違いない。陣地に残してきた仲間のことを思うと心まで震え出しそうだった。
 大丈夫だ。大丈夫に決まっている。ニコルは何度もそう自分に言い聞かせた。恐怖が敵の圧迫を二倍にも三倍にも見せているだけのこと。個々の魔にさほどの力はない。見晴らしの良い場所でしっかりとした防塁を築き、守りを固めていさえすれば必ずしも危険な相手ではない。必ず持ちこたえられる。
 だが余所事を考えてばかりもいられなかった。ぬかるんだ地面に足をとられ、前のめりに転びかける。
 誰かがとっさに手を差し伸べた。かろうじて倒れずにはすんだものの、足下がふらついて仕方がない。ニコルは悟られまいとあわててぎごちなく礼を言い、逃げるようにしてその場を離れた。
 封殺の力を使うたび、全身が凍てついた悲鳴の軋みをあげてゆく。《ルーン》と言えどもその呪力は無限ではない。ルーンの使い手が心を折れば、ルーンもまた慈しみの支えを失って砕けるのだ。まるで終わることのない死の舞踏のように、踊っては消え、消えてはまた現れて。
 ふいに、自暴の考えが浮かんだ。
 《ラグナレク》。
 マイヤが自らの命と引き替えに残した永遠の黄昏。あまねくすべてに等しく停滞をもたらす喪失のカードだ。
 笑い出しそうだった。
 暗黒属性のカードには魔を呼び寄せる力がある。
 これを使えば、誰かの――あるいは自らの命と引き替えに敵を一掃できるかもしれない。
 ふるえる手を伸ばし、《ラグナレク》を収めた腰袋をまさぐる。冷ややかな暴虐が、どくり、と胎動する。
 途端、《カード》を取り出そうとした手に激痛が走った。耐えがたい冷気の反発が神経を伝って腕から背中まで突き抜ける。
 ニコルは悲鳴を上げて腕を抱え込んだ。
 背筋に氷柱を突き立てられたかのような、途轍もなく凄まじい魔の感応が押し寄せた。今までの不協和音とはまったく異質な、冷徹ですらある笑い声が聞こえる。
 暗黒の理知と相反する憎悪が天を打ち叩く拒絶の稲妻となって喨々と鳴り渡った。
「来るな」
 なぜか、声が聞こえた。

 もう、忘れたと思っていた。

 あまりにも遠すぎて。
 あまりにも、苦しすぎて。
 忘れるほかにどうしようもない思いを持て余し、表にあらわすことも一縷の願いを託すこともできず、ただ優しさを疑い、背反を疑い、偽りの手紙で拒絶を突きつけ、その結果、冬のツアゼルホーヘンで決別を告げられて。
 もう、遠い人なのだと。
 もう、自分の元には帰ってこない、と。
 あの日、白く舞い散る雪の彼方に見た最後の姿が、今のこの瞬間の予兆でもあったかのようにまざまざと凍り付いて甦ってくる。
 二度と戻ってこない。もう、二度と、逢えはしないと――本当は、気付いていたのかもしれなかった。
 それでもまだ、思いたかった。
 愚かにも、信じたかった。
 いつか、戻ってきてくれたらと。せめて、無事でさえいてくれたら。もしかしたら皆が死を覚悟するしかないようなそんな間一髪のどうしようもない瞬間に、ふいとあのいつものやさぐれた態度で飄々と現れて何もかもを平然と吹き飛ばして、そして、何事もなかったかのように素知らぬ体で笑ってくれたら。
 そう、虚しくも願った――あの声が。

 だがすぐに幻聴は脆くも砕け散った。
「アーテュラス!」
 シャーリアの緊迫した声が覆い被さる。
「どうしたの、しっかりなさい」
 ニコルは涙を拭った。声が出ない。立ち上がれなかった。
「何してるの」
 シャーリアの顔が間近に屈み込んでくる。
「魔物の数が急に減ってきてるわ。今のうちに進むのよ。ほら、立ちなさいな」
「す、すみません」
 シャーリアに腕を掴まれてよろめき立ち上がる。ニコルはシャーリアの横顔を見上げた。まっすぐ前方を見据えたままのシャーリアは唇を固く引き結び、ニコルの変化に気付いた様子はない。
 聞こえなかったのかもしれなかった。
「どうやら敵の間隙を突くことができたみたいね」
 シャーリアは険しくつぶやき、ふと疲れた表情を気遣わしいものに変えてニコルへと向けた。
「おまえ、大丈夫なの。顔色が良くないわ」
「は、はい、大丈夫です。すみません……」
 呆然と周囲を見渡す。シャーリアの言ったとおりだった。あれほど溢れかえっていた魔の瘴気が薄れ、遠ざかっている。
 ニコルは肩を震わせた。《ナウシズ》の反応は当初の状況と変わっていない。感じたそのままだ。消えたわけではなく、ただこの場から別の場所へ、すなわち自分たちから別の何かに標的を変えたというだけのことだ。
「今のうちに急速離脱。しんがりは落伍者に注意しろ」
 エッシェンバッハが銀の盾を振って結界を解除する。行く手に薄明るい森の切れ目が見えた。
「あ、あの」
「行くわよアーテュラス」
 シャーリアは杖代わりの旗を支えに決然と踵を返した。
「殿下」
 ニコルはよろめいた。ぐらりとつんのめる。
「ぼ、僕」
「ぐずぐずするな」
 エッシェンバッハが振り返って怒鳴りつけた。
「一刻の猶予もならぬ。この空白は諸刃の剣だと知れ。魔物が消えれば敵もまたこの戦域に駒を進めることが可能になる」
 ニコルは絶句した。平静の裡に激情を秘めたエッシェンバッハの声が冷酷な現実に追い打ちをかける。
「もし河に架かる橋を落とされでもしたら我が軍は全滅だ」
 ニコルは蒼白なくちびるを噛みしめた。躊躇している場合ではない。
「分かりました」
 魔の激減した森を全速力で退却する。一時の凄まじい大混乱と比べれば多少の魔に出くわしたところで被害は無に等しかった。
 ようやく味方の防御陣地が見えた。聖ティセニアの軍旗が雨に打たれつつも高々と誇らしげに掲げられている。
 皆、無事だった。生存と勝利を確信し、ニコルは心底から安堵して陣地の防塁を指差し笑った。シャーリアも笑っている。
 仲間の姿を認めたのであろう、感極まった大歓声が聞こえた。騎士たちが防塁の向こう側からばらばらと駆け出して来る。勢いに気後れし立ち止まろうとしたシャーリアだったが、たちどころに皆の歓呼に取り巻かれ仲間の輪と万歳の叫びに引き入れられてゆく。
 その様子を見送っていたエッシェンバッハはつと後方を振り返った。引き結ばれた薄い唇に苦渋の表情が浮かんでいる。
 ニコルもまた笑みをかき消した。目を見交わす。決断の時が訪れた。
 エッシェンバッハは腕を振り払った。号令を下す。
「ただちに全員撤収準備にかかれ。敵襲を受ける前にリーラ河南岸まで後退する。中州橋頭堡のレゾンド大尉に伝令。合流次第、中州へ移動開始すると伝えろ。その間、哨戒を怠るな」
 再び雨が強さを増してゆく。混然とする部隊の様相をよそにニコルは足下を浸す泥水を睨み付けた。
 雨が頬にあたって流れ落ちる。喧騒が意識から追い出された。
 鬱蒼と暗くよどんだ森と、右腕に嵌めた《先制のエフワズ》の赤いゆらめきとをそれぞれ交互に見やる。
 シャーリアを救出するという大目標は達成できた。だが、必死に生還を目指して戦っているであろう仲間の苦闘と信頼を見捨ててこの戦地を去ることはできない。
 未だ何千、何万という兵が敵地に取り残されている。チェシーも、ヴァンスリヒトも、アンドレーエも。
 必ず、戻ってくる。
 必ず、迎えにゆく。
 たとえそれが青臭すぎるそらゆめごとに過ぎぬと分かっていても、自らの良心に背を向けて逃げ出すことはできなかった。
「こんなこと言ってたらまたザフエルさんに怒られそうだ」
 ニコルは悲壮に微笑んだ。首を伸ばし、あちこち見回してシャーリアの姿を探す。
 陣の中心部から少し離れたところにある、救急の赤い十文字が入った天幕周辺に雑然と人だかりができていた。開け放たれた入り口から看護兵らしき人影がいくつも慌ただしく出入りしている。ニコルは駆け出した。
 中に入る。シャーリアの後ろ姿が見えた。ちいさな折りたたみの丸椅子に腰掛け、肩に毛布をかけ、傍らに真新しい松葉杖を、足下に金だらいを置いて足の傷を酢で洗わせている。負傷した足の治療を受けている最中らしかった。
「あわわ失礼しまし……」
「いいのよ。おまえなら」
 シャーリアは顔をそむけながらぎごちなく言った。
「それよりも話があるのでしょ」
「は、はい。準備でき次第、撤退を開始します」
 ニコルは急いで報告した。
「レゾンド大尉が中州の橋頭堡を守ってくれてます。とはいえこの大軍ですしとても一斉には渡りきれないと思いますので、順次整然と渡河する必要があると思われます。つきましては殿下にお願いが」
「分かってるわ」
 シャーリアのくちびるがわずかに震えている。
「わたくしが皆に、急がず、落ち着いて冷静に渡るよう声をかけてやれば良いのでしょ」
「よろしくお願いします」
 ニコルは安堵の胸を撫で下ろした。
「出立予定時刻が来たら連絡をよこして頂戴。行軍指揮ぐらいならわたくしにも執れるわ」
「いえ、殿下にしかできないことだと思います」
 ニコルは濡れて汚れた帽子を小脇に手挟み、さっと敬礼した。
「そ、それじゃあ僕はこれで」
「アーテュラス」
 辞そうとしたニコルの背にシャーリアの声が降りかかった。
「はい?」
 ニコルはきょとんと振り返った。
 シャーリアは何かを言いかけようとして口をつぐんだ。
 そのまま臆し、言い淀む。
「あ、あの、何か」
 シャーリアはふいに声をおののかせてうつむいた。
「もう……戻ってこないかもしれなくてよ。あのひとも、ヴァンスリヒトも」
「大丈夫ですって。そんなことないです」
 ニコルは、砕け散りかけた心のかけらをとっさに寄せ集めかき集めて、虚勢の笑みを返した。
「僕らだって何とかここまで戻って来れたじゃないですか。みんなかならず無事に帰れますって」
 両手を振り回して大袈裟に主張してみせる。
「そうね」
 シャーリアは指先の背でまなじりの涙をぬぐった。
「……ゆるして、アーテュラス」
「あ、あの、ええと、いや、そ、そんな、し、し、失礼しますーーー!」
 堪えきれず天幕から逃げ出す。参謀副官がニコルを認めて走り寄ってきた。
「アーテュラス司令」
「は、はい」
 ニコルは鼻を拳の背でぐしゅぐしゅとこすり上げた。
「ななな何でしょうか」
「全部隊、出立の準備が整いました」
「了解です」
 喉の奥が苦しかった。何とかごまかして続ける。
「で、敵の様子は」
「現在のところ魔が戻って来る気配はありませんが、後方からの連絡によるとリーラ河の水嵩がかなり増しているとのこと」
「今を逃しては渡河できるかどうかもわからないということですね」
 参謀副官が緊張の面持ちでうなずく。
 雨が降りしきる。無数の泥しぶきが地表から跳ねていた。土のうを積んだ防塁の斜面が流水で削れ、地割れめいた跡を深く刻みつつ流れ落ちている。取り巻く雨音はもはや瀑音に近かった。
 ニコルは表情をけわしく変え、うなずいた。
「急ぎ出発しましょう」
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