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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 その33
「あ、あ、後で聞きます」
 ニコルはとっさにかぶりを振り、口元を引きつらせて後ずさった。
「ちょっと、今は、その、後で」
「待て」
 アンドレーエが険しい眉根を寄せる。
「どこへ行く気だ」
「い、いや、別に、その」
 ニコルはアンドレーエの声を振り払った。闇雲に部隊の最後尾めがけて走り出す。虚しく通り過ぎる兵の顔を一人一人食い入るようにしてのぞき込み、声を掛け、彼の人に似た背姿がどこかに紛れてはいまいかと探し求める。
 絶対にいるはずだった。空耳じゃない。あのとき、確かに聞こえたのだ。絶対に、この中にいる――
「師団長」
 先ほどユーゴと名乗った副官が駆け戻ってきた。
「陣地より伝令。魔物の群れが急接近中とのことです。掩護要請が出ています」
「くそ、休む間も寄越さねえってか」
 アンドレーエはぐいとニコルの腕を掴んだ。
「聞いたかアーテュラス。いいから早く持ち場につけ。報告は戦闘後にまとめてする」
 強引に引きずり戻される。
「待って」
 ニコルはかすれた悲鳴を上げて手を振り放し、抗った。
「これで全員じゃないでしょ。だっていないじゃないですか。チェシーさんも、ヴァンスリヒトさんも。二人ともどこにいるんです」
 身をよじり、涙声で口走る。
 蒼白の稲妻がひらめいた。
 刹那、閃光がユーゴとアンドレーエの形相を照らし出した。総毛立つほどに暗く、濃く、まざまざと刻み込まれた激情があらわになる。
 轟音が地面を揺るがす。
「ヴァンスリヒトは」
 続く声は雷鳴にかき消され、聞こえない。
 アンドレーエは沈痛な仕草でニコルを突き放した。
「ぐずぐずできる状況じゃねえんだよ」
 ニコルはよろめいた。
「師団長」
 ユーゴがこわばった横やりを入れる。アンドレーエはうなずいた。目を見交わし、たちどころに姿を消す。
「橋が」
 遠くから誰かの切羽詰まった叫びが聞こえた。
 ニコルは呆然と顔を上げた。取り残されたと気づき、ぎごちなく振り返る。
「橋を守れ」
「上流だ。回り込ませるな」
「橋が流されるぞ」
 兵が集結している河岸から悲鳴が散った。見る間に隊列がばらばらに崩れてゆく。
「誰か」
 とぎれとぎれになった女の叫び声が怒濤にかき消された。
「橋に、魔物が」
 シャーリアの声だ。
「殿下!」
 ニコルは反射的に走り出した。
 逃げまどう兵に突き飛ばされながらそれでも必死にひしめく人波を掻き分け、橋に駆け戻る。シャーリアの姿は右往左往する人影に飲み込まれ見えなかった。つんのめるようにして立ち止まり、雨合羽を重く濡らす飛沫を振り払って闇に目をこらす。
 崩れた隊形の合間から、黒い不気味な影が滲み出るようにして膨れあがってくる。奇声が響き渡り、隊列が乱れ、崩れる。
「魔物だ」
「く、来るな」
「助けて」
 耳元に怒鳴り込まれる叫びはもはや阿鼻叫喚と混乱の極みだった。
 瞬時に事態を把握する。
 上流だ。おそらくイェレミアスは森側ではなく河の上流に移動し、激流に魔物を放流して一気に橋と中州を奪還しようとかかっているに違いなかった。
「アーテュラス、応戦しろ。ぼけっとしてんじゃねえッ!」
 アンドレーエが駆け戻って来るなり声高に叫んでニコルを橋へと押しやった。
「《ナウシズ》で橋に取りつく魔物を片っ端から撃ち落とせ」
 叫んでいる間にも、見る間に河全体がどろどろとうごめく魔に侵蝕され、ねばついてどす黒く発酵しながらよどんでゆく。悲鳴があがった。
 橋脚にからみついた魔物が毒の飛沫を噴き掛ける。直撃を受けた兵が顔を押さえ、身を仰け反らせて、悲鳴もろとも河へと転落するのが見えた。恐怖の形相が暗黒の濁流に呑み込まれる。悲鳴が断ちきられた。
「ユーゴ」
 アンドレーエは副官がどこにいるのかも確認せずに怒鳴った。
「公女を中州へ連れて行け。帰り道を魔に奪われたら全滅だぞ」
「了解」
 声だけが響いてすばやく遠ざかる。アンドレーエは革に剃刀の刃を編み込んだ鉄鞭を引っこ抜き、甲高く空で打ち鳴らしてから、伸び上がりせめぎ寄ってくる魔物を真一文字になぎ払った。殺ぎとばされた汚物がばらばらに地面へとまき散らされる。
「何なのおまえ、手をお放し。無礼な」
 シャーリアの悲鳴が聞こえた。ユーゴが問答無用でシャーリアの腕を掴んで引きずってゆく。
「殿下、その者と一緒に先に中州へ行ってください!」
 ニコルはその後ろ姿に声高く呼びかけざま、たばねた腕をぐいと大きく振り上げた。《ナウシズ》が氷点下の光を放ってきらめく。
 月にも似た、澄んだ青白い光が橋上を照らし出した。橋脚をへし折らんばかりに覆い尽くしていた魔物の群れが一瞬、《ナウシズ》の放つ蒼光に貫かれ凍り付いたかと思うと、次の刹那、漆黒の飛沫と化して四散する。
 ユーゴが立ち止まり、振り返って敬礼した。ニコルはうなずき返すとかざした腕で雨を振り飛ばして兵を促した。
「皆続け。命綱を絶対に放すな」
「お、さすがに凄え威力だな」
 振り返りざまにアンドレーエが目をまるくした。濡れた髪が粗野に貼り付いている。
「のんきに笑ってる場合ですか」
 ニコルは咳き込んだ。追撃しようとした《ナウシズ》の霊光がひきつり、ふつりと途絶えて力なく瞬く。
「そうか。すまねえ」
 アンドレーエは余裕に似せていた笑いを瞬時に緊迫の面持ちへとすげ変えた。
「エッシェンバッハのおっさんを呼んでくる。とにかく全員撤退だ」
「上流側へ防衛に出てると思います」
「戻ってくるまで持ちこたえられるか」
「もちろんです」
 ニコルは振り返り、泥に汚れた顔で微笑んだ。
「全員を護れる自信がなければこんな任務は引き受けませんよ」
 気力を振り絞って、もう一度ルーンを玲瓏ときらめかせる。
「まだ最後の切り札もありますし」
「分かった」
 雨の最中、飛び出してゆこうとしてアンドレーエは突然たたらを踏んで立ち止まった。
「無茶すんなよ」
「アンドレーエさんこそ」
「よし。すぐに戻って来る」
 《静寂のイーサ》に照らし出された不屈の笑みが口元を染める。
 アンドレーエは指笛を甲高く吹き鳴らして配下を呼び集め、たちどころに闇へと消え失せた。
 橋が激しく軋み、揺れ動いた。また何人かが身体の平衡を失って橋から転がり落ちる。
 ニコルは悲鳴もろとも《ナウシズ》を振りかざした。逆巻く河面から無数に這い登ってくる魔物を半ば自暴自棄状態で打ち払う。命綱に食らいついていた魔物が氷の弾丸に打ち抜かれ、奇声を放って蒸発した。
 雷鳴と咆吼が雨天を震撼させる。
 腕が砕けそうだった。《エフワズ》が放つ激しい深紅の炎の軌跡と《ナウシズ》の今にも消えそうな弱々しい点滅とが目を眩ませる。
 皆を護りたい。今となってはその思いだけが、とうに祈りの力の限界を超えた《ナウシズ》から封殺の力を引き出しているのだった。
「異界へ帰れ! 来るな! 帰れ!」
 光の矢に打ち抜かれた魔物がもんどり打って河へ落ち、泥状の水しぶきを上げる。
 ルーンから悲鳴にも似た軋みが聞こえた。灼けつく氷の痛みが腕をつらぬく。
 マイヤが自分を護ってくれたように、この橋を、皆を――
「師団長っ」
 副官が蒼白の面持ちで駆け寄ってきた。ニコルを押しやろうとする。
 反射的に腕を振り払う。
「僕のことはいい。それより先に全員の無事を確認して下さい」
「待機部隊はほぼ渡河終了しました。あとはエッシェンバッハ元帥の部隊と、第一師団の残……!」
 副官はふいに血相を変えてサーベルを抜き放ち、ニコルの背後へと回り込むなり目前にまで肉薄していた魔物の凶悪な一撃を受け止めた。血しぶきをあげて仰け反り倒れる。
 腐臭まみれの噴煙にも似たおぞましい吐息が頭上から垂れかかった。ニコルは悲鳴を上げ、がむしゃらに《ナウシズ》をかざし、魔を吹き飛ばす。
「だ、大丈夫ですか……!」
 副官はびくりと身体を痙攣させた。断末の微笑みが浮かぶ。
「早く、お逃げください……」
「そんなこと言わないでください」
 魔が迫っているのも忘れ、ニコルは瀕死の副官を前に動顛した。
「ごめんなさい、僕のせいだ。ああ、何て事、どうしよう、誰か、お願い、誰か……!」
 《先制のエフワズ》が息詰まる鮮烈の光芒をまき散らした。
「橋が!」
 絶叫が聞こえた。弾かれたように涙まみれの顔を上げる。
 魔に乗っ取られた橋が、めきめきと半狂乱じみた音を立てて湾曲しかかっている。取り憑いた魔物の重みで、命綱もまた弓を引き絞ったかのようにいっぱいに張りつめている。今にも食いちぎられそうだった。
 他の兵が逃げまどっている。
 絶望が希望を、止むことのない雨が生きる余力を奪ってゆく。
「嫌だ」
 ニコルは悲鳴じみたかぶりを振った。
「そんなの嫌だ……」
 最後の力を振り絞って抗いの光矢を全方向へと撃ち出す。無数の魔物が粉々に吹き飛んだ。
「みんな揃ってノーラスへ帰ると決めたんだ!」
 駆け寄ってきた別の参謀に負傷した副官を託し、ニコルは涙を振り払った。
 我が身の危険をも厭わず魔物の蔓延る橋へと直接駆け上がり、《ナウシズ》の霊光を全身にまといつけて一気に薙ぎ払う。
 闇を切り裂く光が一直線に走り抜けた。
 雄叫びが聞こえる。照らし出された対岸の中州がきらきらと青白く輝いていた。
「だから、この橋だけは」
 必ず護る。
 皆が渡り終えるまでは、絶対に。
「絶対に、護り抜くって……!」

(無理だね)
 ぞくりとひそやかに忍び寄る、狡猾な蛇の嗤い声が聞こえた。

「……っ!」
 ニコルはふいに全身の虚脱感に襲われて膝から下をがくりと砕かせた。《ナウシズ》がガラスの砕ける音を立ててたわむ。
 宿していた光が致命的な音を立てて消え失せた。輝かしかったルーンの表面がみるみる白い蜘蛛の巣に似たひび割れに覆い尽くされ、くすんでゆく。
「アーテュラス!」
 切羽詰まった声が背後から駆け寄ってきた。
「大丈夫か」
 アンドレーエは倒れかかったニコルを支えながら振り返った。
「おっさん、後は頼んだ。俺はアーテュラスを運ぶ」
「誰がおっさんだ」
 きらめく庇護の結界を背後に、やや不興じみた冷静な声が後を引き取る。
「失敬な」
 じゃらりと鳴る鎖の音とともにエッシェンバッハのひるがえす黒衣が視界の端を横切った。
「待って」
 身体が動かない。確かに覚えたはずの安堵と相反して、全身を寒々と浸してゆく無力感にニコルは喘いだ。
「まだ、チェシーさんが」
「ここはいったん退け。敵軍が接近してる。おそらくイェレミアスだ」
 アンドレーエは険呑な口調で吐き捨てた。
「で、でも」
「何度言わせりゃ気が済むんだ」
 はしばみ色の瞳がじりじりと焦燥の光を宿してぎらつく。
「あいつはもう戻らねえ」
 押し殺した声で言い捨てる。
「え」
 ニコルはぎくりとして動きを止めた。アンドレーエを呆然と見返す。
「何」
 声をつまらせる。
「い、今、何て」
「な、何でもねえよ」
 アンドレーエは失言に気付いたらしくあからさまに狼狽えて挙動不審にかぶりを振った。
「だからあいつならって、いや、な、何でもねえって何でまたいちいちそんな」
「戻らないってどういうことです」
 ニコルは出し抜けにしゃくりあげるなりアンドレーエの手から逃れた。
「まさか、チェシーさんに、どこかで」
 アンドレーエは思わず顔をこわばらせた。
「な、何のことだ」
「ごまかさないで本当のこと言ってください」
 ニコルは両の拳を固めて振り払った。
「本当は無事なんでしょ。チェシーさんも。ヴァンスリヒトさんも」
「違う」
「うそ……」
「違うって言ってんだろう!」
「嘘だ」
 ニコルはぎごちなくかぶりを振って後ずさった。声が涙を含んで震え出す。
「生きてるって分かってて何で見捨て……!」
「勝手な思い込みで先走るな」
 アンドレーエは気色ばんでニコルを取り押さえようとした。
「元帥ともあろう者が兵の前で取り乱すんじゃねえ」
「そんなの関係ないです、放して」
 ニコルは抑え込まれそうになって山猫のように激しく身をよじらせた。掴み寄せようとするアンドレーエの手を打ち払う。
「くそっ、何だってんだ」
 アンドレーエは苛立ちまぎれに声を荒げ、乱暴にニコルの胸ぐらを掴んで激しく揺すぶった。
「いい加減にしろ。女じゃあるまいし。話は中州へ渡ってからっつってんだろうが」
「きゃあっ……!」
 どんなに抗ってもアンドレーエとの膂力の差は歴然だった。ニコルはあっけなく引き倒されてアンドレーエの胸に頭から思い切り倒れかかった。
「うわっ、す、すまねえ」
 反射的にアンドレーエがニコルを抱き止める。
 ぶつかった衝撃でメガネがずり落ちた。
「や、やだ……っ」
 ニコルは涙をいっぱいにためた眼で愕然とアンドレーエを見上げた。弱々しくあえぎ、手を突っ張ろうとする。
「へっ?」
 おそらく、予想だにしていなかったのだろう。引き寄せた時のあまりのか弱さにアンドレーエはニコルを抱き止めたまま、眼を押し開いて硬直した。
「な、何だ、今の……きゃっ、て……?」
「う、うわっ!」
 ニコルは蒼白な顔でアンドレーエを突き飛ばした。足をもつれさせ、よろめきながらまろび逃げる。
「ご、ご、誤解ですってば、ち、ち、ちが……!」
「誤解って」
 アンドレーエはぽかんと口を開けた。逃げようとして足を滑らせ、じたばたとつんのめるニコルと、つい今し方まで当の本人を抱き止めていた腕に残る柔らかい少女めいた感触のそれぞれを、愕然と見比べる。
「い、今の」
「何をぐずぐずしている」
 エッシェンバッハの怒声が聞こえた。
「さっさとしろ」
 アンドレーエははっと我に返って再びニコルの手首を掴んだ。
「と、とにかく、分かった。話は後だ。いいから来い、アーテュラス」
「だ、だめです」
 ニコルは必死にアンドレーエの手を振り払おうとした。
「まだ、他のみんながあんなに」
「いいから来るんだ」
 アンドレーエは強引にニコルを引きずって橋へと駆け上がった。
「すぐに全員渡り終えられる。渡っちまえばいくらでも体勢は立て直せるんだ」
「早く行け」
 切羽詰まったエッシェンバッハの呼び声と濁流の轟音とが交錯した。
「イェレミアス軍だ」
 上流側に無数の明かりが迫っていた。深紅に燃える敵軍の烽火だ。
「急げ、早く、走れ」
 アンドレーエの悲鳴じみた叫びが耳に突き刺さる。
 ふいに。
 エッシェンバッハの張り巡らせた庇護の結界が、びしり、と凍り付く音をたててひび割れた。
 めきめきと異様に隆起し、変形し、ひしゃげ折れ――
 次の瞬間、すべての力を失って粉々に砕け散る。
 真の闇がなだれかかった。瀑音が耳を聾する。《エフワズ》が瀕死の赤光をめちゃくちゃに振り散らした。
 衝撃に耐えきれず橋の一部が橋脚から根こそぎ決壊し、へし折れて木っ端微塵に押し流される。命綱がちぎれ飛んだ。
 誰かの叫び声がつんざいた。怒濤に足をすくわれ、悲鳴を上げて倒れ込む。
 アンドレーエが、エッシェンバッハが、河へと投げ出されるのが見えた。
「……!」
 届かない。声など届くはずもなかった。ニコルはただ手を伸ばして泣き叫んだ。もう何も聞こえない。
 突如、目の前に、どろどろと腐り落ちる肉を滴らせた魔物がびしゃりと打ちあげられた。見る間に伸び上がって鎌首をもたげ、のた打ち回りながら狂声をまき散らし一気にむしゃぶりついてくる。
 とっさに《ナウシズ》で身をかばおうとしてニコルは絶句した。
 ルーンの力が。
 あれほど輝かしかったマイヤの魂が。命を棄ててまで自分や皆を護ろうとしてくれたマイヤの想いが、ついに尽き果てて――枯渇している。
 餓えた魔物が迫ってくる。
 うごめく触手が見えた。
 死んだ魚の眼と同じ色をした、おぞましい突起物が、ぬらぬらと盛り上がってくる。
 まるで舌なめずりするかのように、どろり、と。
 汚辱があふれ落ちた。
 ニコルは凍り付いた。

 助からない――

 足下が崩れた。完全に砕けた橋が激流に呑み込まれる。
 悲鳴ごと揉みちぎられ、暗黒の水底へと叩きつけられる。希望も、生還の望みも。何もかもが断絶し、無惨に押し流されてゆく。
 取り残された兵が絶叫を上げた。
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