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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 狼と神官と銀のカギ その34
 中州の縁から枝垂れ下がる木の枝をがむしゃらに捕らえ、激流の飛沫に揉まれつつ空気を貪り吸う。アンドレーエは流木や土石流に全身を打ち砕かれる激痛を堪えながら必死の形相で四方を見回した。
「アーテュラス!」
 どんなに声を振り絞って呼びかけても返ってくるのは濁流の音ばかり。
「くそっ……!」
 枝をたぐり寄せて重い身体を濁流から引きずり上げる。同じく中州側下流の岸辺に多数の兵が流れ着き、あるいは既に死んで打ちあげられているのが見えた。先に渡った部隊が救助に走り回っている。その中に黒衣の姿が見えた。エッシェンバッハだ。
「おっさん」
 アンドレーエは駆け寄ってゆこうとして足をがくりとくじいた。構わず折れた足を引きずり、近づいてゆく。
 エッシェンバッハは青ざめた顔色で振り返った。
「貴公、足をやられたのか」
「これぐらいどうってこたねえよ。それよりアーテュラスは」
 エッシェンバッハは顔をゆがめた。苦悶の様子でかぶりを振る。
「……見つからない」
「ああ、くそ、何てこった!」
 アンドレーエは身をひるがえそうとした。
「せめてどこかに引っかかってくれてさえいれば」
「待て」
 エッシェンバッハが力なく制する。
「その足では」
「それどころじゃねえよ」
 アンドレーエはエッシェンバッハの制止をふりほどいた。
「あのちびを何としてでも探し出してやらなきゃ」
「先ほどツアゼルホーヘンへ至急の救難信号を打たせた」
 エッシェンバッハが呻いた。
「猊下のお手を煩わせ……此度の失策はすべて我の責任だと申し上げるつもりだ」
「誰の落ち度でもねえよ。あんたらのお陰でこれだけの数を救い出せたんだ。勝手に一人で背負い込もうとしてんじゃねえ」
 アンドレーエは声を凄ませて吐き捨てた。
「いいから上流側へ味方の掩護へ行ってくれ。俺はアーテュラスを探す。どうせこの足じゃ戦闘では使い物にならねえ」
「……すまない」
「あんたのせいじゃねえって言ってんだろ。ユーゴを使え。俺の副官だ。こっち側のどこかにいるはずだ」
 アンドレーエは口早に言い置くと、ニコルを探して中州の岸づたいをよろめき歩き始めた。



 濁流が何もかもをめちゃくちゃに押し流してゆく。もはや生きているかどうかも分からない。流木とともに川底へ引きずり込まれ打ちのめされ揉みくちゃにされ、どこまでも流されて。
 根元からへし折られた巨木が渦に乗ってのたうちながらみるみる迫ってくる。裂けた幹から突き出す鋭い切っ先が今にも身体を串刺しにせんと凄まじい響動をあげた、その瞬間。
 闇が雨を振り弾いて飛び込んできた。水面を打ち叩いて激しい水しぶきをあげたと見えた刹那、得物を鷲掴みにした猛禽のように跳躍して岸へと移り、漆黒の翼を軋めかせて舞い降りる。
 掴んでいた血まみれの身体を肉塊のように放り投げる。
 雷鳴が轟き渡った。
 戯画的に引き延ばされたおぞましい魔の姿形がくろぐろと河原に落ちてゆく。
 濡れて乱れた金の髪。
 憎悪と呪のまだらに覆われた身体。
 理性と情感を喪失した黒と金の瞳が、足下で無力に横たわる聖ティセニアの士官を見下ろしている。
「ニコル」
 かすれた唸り声がもれる。
「……ニコラ」
 ふいに険しい視線がその傷と痣だらけの顔から逸らされ、首筋、胸元、そして腕のルーンへと伝い落ちた。
 ニコルは気を失ったままだった。呼吸している様子もない。ぴくりとも動かず、みるみるどす黒い死相の現れ出でてくる顔を、ただ激しい雨にうたせ、野ざらしにしている。
 魔物は無言で傍らに膝をついた。用心深く気息の気配を探りながら、異様に変形した腕をぎごちなく伸ばす。
 血に汚れた手が頬に触れた。
 稲妻が荒天を切り裂いて走り抜ける。
 凍えきった青黒い唇が闇に照らし出された。
 魔物は葛藤の唸りをあげ、おもむろに生気のない冷たい頬を手挟んだ。抗わぬ身体を仰臥させる。
 血の匂い。
 邪欲の暗いうめきが洩れる。
 ニコルは、動かない。
 影が闇に混じり、のしかかる。唸り声が喘ぎに変わる。
 魔物はふと闇に彩られた金眼を瞬かせた。わずかに身をこわばらせ、意識のない顔を見つめて、 再度ゆっくりと身を折る。
 顔を寄せ、ぐらりと揺れる頭を抱き支えて。
 つめたい唇に、罪と血にまみれた唇をかさね、吐息を深く、強く吹き込む。それでも反応はない。かまわず何度も同じ動作を繰り返す。
「……ん……」
 ニコルの喉からかすかなうめきが洩れた。わずかに身じろぎをし、痙攣したかと思うと出し抜けにむせ返って肺にたまった水を吐く。
「誰……だれ……」
 森の下生えが激しく鳴って揺れ動いた。ランタンを掲げた兵が飛び出してくる。
「魔物だ。魔物がいるぞ」
 愕然とした叫びと怒鳴り声が交錯する。剣を抜き払う鋼鉄の響きがするどく闇に伝い走った。
「くそっ、こんな所にまで!」
「倒せ」
 魔物は咄嗟に飛びすさった。金の妖瞳をぎらりと狂い立たせ、駆け寄ってくるティセニア兵を邪眼の凶悪な一睨みで立ちすくませたかと思うと一瞬で闇に跳ね退き、姿を紛らわせる。
 その騒ぎにようやくニコルは意識を取り戻した。
「……あ……!」
 記憶が激痛とともに呼び戻されてくる。
 ニコルは身をよじらせて喘いだ。
 全身に残された感覚が何かを叫んでいた。涙がこぼれ落ちる。誰かの声。誰かの手。誰かのぬくもり。間違いない、でも、なぜ――
「アーテュラス師団長!」
 幻覚を蹴散らして騒然と飛び込んできた武具の音にニコルははっと我に返った。周囲を取り囲む兵たちを見回す。だがどんなに眼を瞬かせてみてもまったく焦点が合わない。
 ニコルは反射的に涙を拭った。やはりメガネがない。
「こ、ここはどこ。今はいつ」
 口ごもりながら尋ねようとする。
「敵が迫っております!」
 闇の彼方から悲鳴が聞こえた。士官は息せき切ってかぶりを振った。しゃべっている場合ではない。とにかくニコルを立ち上がらせようとして手を差し出す。
「ここは危険です」
「どこへ」
 言いかけてニコルは愕然とした。そんなことは誰にも分かろうはずがなかった。
 支えられ立ち上がろうとして全身を襲う激痛に顔をゆがめる。
 橋が壊された瞬間を思い出す。
 さいわいにして歩くのに支障があるほどの怪我は負っていないようだった。だが取り巻く状況はまったくといっていいほど好転しておらず、むしろなおいっそう悪化しているように思える。この兵たちはおそらく北岸の橋頭堡に取り残された残党だろう。
 待ち受けているのは生還の希望たる橋を失い、なすすべもなく追われ殲滅されるだけの運命だ。それでも逃げる以外にすべはない。
「相手は魔物、それともイェレミアス軍」
「両方です、師団長」
「分かりました」
 ニコルは濡れた髪を振り払った。
「とにかく対岸へ渡れる場所を探して、それから……」
「後方に敵接近中」
「明かりを消せ。気付かれるぞ」
 怒号が飛び交った。
「待って」
 ニコルは歯を食いしばった。
「川に沿って移動するのは危険です……」
 しかし後続の兵は逃げまどう野猿の群れの如くに潰走してくる。たとえ濁流の轟音にまぎれられたとしてもこれだけの筒音、軍靴の物音をまき散らして敵に居場所を気付かれぬわけがない。回り込まれたら終わりだ。
 ふいに《先制のエフワズ》が苛烈な光をまき散らした。
 何かが本能の警鐘を激しく打ち鳴らす。
 視界が定かにならないだけにニコルは耳へと全意識を集中させた。流れ来る怒濤の川音が背後から聞こえてくる。流木の折れ砕ける音、悲鳴にも似た軋みが何度もぶつかり合う凄まじい音をたてて右手前方へと唐突に斜行し消え去ってゆく。
 その音の行き先に気付いてニコルはぎょっとして背後を、そして下流方向を振り返った。
 間違いない。川が急激に蛇行している。
「しまった、ここは」
 呆然と立ちすくむ。部隊は河を背にした凹部に入り込んでいた。当然、敵軍はこの背水の地勢を知っているだろう。
 右斜前方。左手上流。そして。
 真正面にめらめらと揺らめく魔性の炎が見えた。
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