ふつふつと煮こぼれた黄色い汚濁の泡が地を這って流れている。吐き気を催す悪臭が吹き寄せた。横殴りの雨風がいっそう勢いを増して叩きつけてくる。
燐光を不気味に吹き流して包囲を狭めてくる敵の先陣が見えた。当初はまだ突破の戦意を見せていた兵が敵の圧倒的な戦力に気づくや次々に河縁へと逃げ戻り、押し合いへし合いしながら叫び出す。
「師団長」
「どうかルーンのご加護を」
「ご加護を!」
恐怖と懇願のうめきがみるみる詰め寄って来る。何本もの手がニコルの腕を掴んだ。
人の壁が見る間にほつれ、崩れてゆく。
気がつけば岩の転がる河原に不如意な足が取られるのも構わず無理やりに前へ前へと、残酷なまでに過度な期待を一身に担わされて敵前へと突き出されていた。
視界が開ける。
ニコルはたった一人で前へとよろめき出た。
ルーンの加護を請う哀願と罵声が相次いで背に突き刺さる。
その慟哭の内側に潜んだ真意にニコルは立ちすくんだ。
足が動かなかった。
左腕にとめたかつてのルーン――重圧に耐えきれずひび割れ、もはや指し示すしるべの光すら失った石ころに、愕然と手を触れる。
何も感じない。
あれほど光り輝いていたルーンが。
力の源たるマイヤの命を極限まで削り尽くしたせいで――死んでいる。
死んでいる。
ニコルは顔を上げた。
ろくに見定められもせぬ眼で闇に群がる魔の群れを睨み据える。
不思議なほど、恐怖はなかった。
ただ乾いた笑いが洩れた。
自分の所為だ。
アルトゥシーで《封殺》の力を使えるようになったときからずっと、おぼろげながらも感じていた。氷雪の光を浴びるたびにこの光はマイヤが残した自由への悲愴な願い、聖女に科せられた陰惨な末路と引き替えに手にしたあまりにもか細い一縷の希望だと気付いていたはずだった。なのに。
よりによってマイヤに、皆に命を救われ続けてきたはずの自分が。
まるで道具のように平然と――
残酷な真実が深淵の奥底に赤黒く見え隠れしている。
死と。
薔薇と。
炎と。
いつわりの罪に怨嗟の涙ごと焼け落ちていったあの記憶が。
(いつわりの光は真実の闇)
ニコルはまた、心の殺げ落ちた笑いを放った。
間に合わなかった。
手を腰の剣帯へと伸ばし、サーベルを帯ごと取り外して前方の地面へとなげうつようにして叩きつける。
甲高い鋼の音が響き渡った。
「剣など不要だ」
狼狽する兵を見捨て自らの保身のみを図って逃げることもできた。兵の命など目的のためにはどれほど無下に費やしても構わぬ、徴兵すればいくらでも代替が効く、指揮官、あるいは国体さえ無傷ならば軍としての敗北はない。そう超越的に驕り高ぶることができるならば。あるいは誇り高き聖騎士としてこの場に踏みとどまり、玉砕をも辞さぬと決意することも。愚将の汚名をかぶり死ぬまでまとわりついて離れぬ良心の呵責、千の罪悪感と万の怨念にさいなまれ散ってゆく屈辱を良しとするならば。
(いつわりの闇は真実の光)
高く、低く、呪誦に厭わしい毒の韻律を溶かし混ぜて、不協の旋律を狂い咲かせてゆく。
気配が変わった。
どよめきが一瞬途絶える。雨音が遙か彼方から息を呑む風を孕んで通り過ぎた。
ゆらり、と。
薔薇の瞳に黄昏の闇が射し初める。
光を虐げ、闇を拒む永遠の停滞。
ニコルは暗紫の微光にゆらめく《ラグナレク》を指先に手挟み、見る間に熔けくずれてゆく空間の狭間からのぞく陽炎の禍々しさにいっそ満ち足りた笑みすらくゆらせながら魔の軍勢を見渡した。
「最初から、こうしていれば良かったんだ。そうすれば」
うつろな眼差しに狂悦が混じり込んでゆく。
匂い立つ闇の気配に内応したのか続けざまに交わす魔の咆吼がつんざいた。凄まじいまでの邪気がなだれ込んでくる。
「橋をみすみす壊されることもなかった。橋頭堡を奪われることも、中州の防衛を脅かされることも、こんなところに何百人も取り残されるような取り返しの付かない失態を演じることもなくて済んだんだ」
鬱屈した黒紫の放射光がカードからくねり放たれる。風雨に打たれたニコルの横顔が暗く照らし出された。
「……僕さえ、我が身の安泰を望んだりしなければ」
《黄昏》のカードを持つ腕が魔性の侵蝕に耐えきれず膿み、腫れ上がって泡立ち、変色して、異様な瘤状にゆがんでゆく。構わず《ラグナレク》で闇を斬り混ぜ、暗紫にゆらぐ底無しの霧を腕へとまといつかせる。
底ごもる角笛の音が崩壊の序曲となって鳴り渡った。《カード》がずるり、と音を立てて生気を啜り込んだ。命の欠片がおぼろげな蛍色の二重光となって吸い出される。
どくり、と。
闇が脈打った。
ニコルは荒天を仰ぎ、喉をのけぞらせて喘いだ。
《ウィルド》の聖女レイリカのように運命に抗ったりせず、《ナウシズ》の聖女マイヤのように運命と戦ったりせず、最初からあきらめ、託された希望までをもかなぐり棄てて薔薇の血の誘惑に身をゆだね、望まれるがままに虚無へ堕ちてしまえば。そうすれば、もしかしたら。
薔薇の瞳が黄昏の色に、明けることのない絶望へとどす黒く塗り込められてゆく。
だが、もう、遅い。
いつか、きっと、本当の自分に戻れたら――などと、そんな甘やかな、愚かしい、子供じみたうたかたのゆめを見ようとさえしなければ。
そうすればチェシーやヴァンスリヒト大尉が戻ってくるまで余裕で持ちこたえられたかも知れなかったのに。
雨が激しく降りつのってゆく。
何かの砕け散るような、遠い残響音が聞こえた。
突風に吹き荒らされる枯れ木の突端に、豪雨に濡れそぼった暗い影が佇んでいる。
ゆっくりと眼を閉じ、再び開く。かつては強い意思のきらめきを有していた、青い、ゾディアック女帝と同じ色の瞳が、今はどんよりとくすんだ青灰色となってぼんやりと時の彼方を見つめていた。
正気が戻ってくる。
雷鳴に浮かび上がる記憶の断片。
そのほとんどが砂上の楼閣のように壊れ、吹き散らされて闇の水底に沈んでゆく。
(おっと、ようやくお目覚めか)
くくく、と卑屈に笑う声が聞こえた。
(残念、ちょっと遅かったね。ま、いいや。あれを見なよ)
濁流の轟音と憎悪にまみれた怒号が渦巻いて飛び込んできた。ともすれば途絶えそうになる意識を前方へと振り向ける。
雷鳴が轟き渡る。
眼下は戦場だった。召喚された魔の軍勢が逃げまどうティセニア軍をいたずらに追い立ててゆくのが見えた。みるみる包囲の輪が狭まってゆく。
眼を森へと転じると、少し距離を置いた上流側にイェレミアスのゾディアック第四師団、レディ・ブランウェンの第八師団がそれぞれ様子見がてらに伏せられているのが分かった。
(聞こえるかい、皇子。我が、魔の眷属たる者よ)
「ああ」
かつてチェシーと名乗っていた男はこめかみを押さえようとして顔に触れた異形の左腕を見下ろした。興醒めの嘆息をもらす。
「そう言えばそんな盟約を交わしたような気もするな」
(いくら急造とはいえ大切な条項をそうもあっさりと忘れないで欲しいね)
悪魔は情けなさそうにぼやいた。
(君の真の名を手に入れるのに僕の千の贋命のうちのいくつをつぎ込んだと思ってる?)
「それがどうした」
(相変わらずすげないね。ま、同感だけど)
腕の《紋章》に宿ったル・フェは欺瞞に満ちた笑いを滲ませた。
(で、どうするね?)
「何を」
(あれだよ)
チェシーは示されるがままに漠然と地表を見下ろした。ティセニア軍は背水の地勢に追い込まれ、逃げ場も戦意も完全に喪失した絶体絶命の状態だった。悲鳴を上げ右往左往するばかりの部隊に、じりじりと魔が迫ってゆく。
(……あれえ? 覚えてないのかな? 放っといていいの?)
「何をだ」
チェシーはわずかに身を乗り出そうとして、動きを止めた。食い入るような眼差しで戦況に見入る。恐慌状態に陥ったティセニア軍の密集隊形が割れ、後方から最前列へ、半ば生贄の如く強引に担ぎ出されてくる人物の姿が目に入った。
ニコル・ディス・アーテュラス――
「馬鹿な」
雨が悲鳴を押し流してゆく。
(……知ってるかい?)
ル・フェの喜悦にうわずった声が四方八方からはね回るように降りかかった。
(あいつさあ、橋が陥ちるまでずうっと君が戻ってくるのを待ってたらしいよ! 今さらティセニアなんかに戻れるわけないのに、ホント馬鹿だよね。お馬鹿すぎて涙が出るよ……!)
けらけらと笑う黒い小鬼の影が腕から滴り伸びて、青黒く明滅しながらよじれ飛んだ。実体のない影だけが眼前を狂喜乱舞する。
(そうだ、この際、アルトゥシーの時みたいにまた口先三寸でだまくらかして護ってやるってのはどうだい?)
ふいに影がぴたりと止まって目の前に近づいた。
(さもないと馬鹿その二のイェレミアスが殺しちゃうかも)
ひそみ嗤いが忍び寄る。
(ためらうことはないと思うけどね……? 《ナウシズ》と《エフワズ》さえ抑えてしまえばホーラダインにも手は出せない。何一つ怖れることなどないさ。そうなればもうこっちのもの、ノーラスを陥とすもティセニアを蹂躙するも君の望むがままだ。今さえ良けりゃあ後のことなんてどうでもいいし。違うかい……? もう一押しだと思うんだけどなあ……前みたいにほんの少し優しくしてやりさえすればさ、そうすれば……君は忘れてるかも知れないけど……また、好きなだけ弄べるんだぜ……?)
チェシーは答えなかった。無言のまま、窮地に立たされたティセニア兵の混乱に見入っている。
(ふうん)
影はくるりと前回りして身をひるがえした。そっけなく吐き捨てる。
(あいつのこと、見捨てるんだ)
「あの《カード》」
ふいにチェシーは慄然とした。闇をまといつけたニコルの手元に目を奪われる。
「まさか」
死を告げる黄昏の極光がさざめく光と音の波となって降り注いだ。吸い寄せられるようにゆらゆらとはためいて、ニコルの手元を、横顔を、仄暗い闇紫の微光に染め上げてゆく。
(……確か、あれ、《ラグナレク》とか言ったっけ)
悪魔のささやきが聞こえた。
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