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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 空の記憶
「ねえ、リッちゃん、ソラってなあに」
(……リッちゃんとか呼ぶなーッ!)

 怒髪天を衝くとはまさしくこの有り様を指して言うのであろう。全身の柔毛を凶悪な威嚇に逆立て――否、みるみるお間抜け極まりないまんまるい形へとふくれあがらせてゆきながら魔界の大公子リッチェンドルフェン・フォン・バーグレン・デュレッシェン・ベルゲ・ウンター・ラカンターラ略してリッちゃんはキイキイ声で食って掛かった。
(余をどなたと心得る。恐れ多くも魔界の大公子リッ)
「ちゃんでしょ」
 あっさりと気炎を振り払って答えたのは背にちいさな白い翼を持つ少女である。
 とんがった黒い岩の上にひょいと腰掛け、足をぷらぷらさせている。
 暗黒の魔界にそぐわぬ仄かな霊光を帯びた姿。
 薄い水色に白のレース飾りが付いた膝丈のワンピースを着、ちっちゃなバッグをたすきがけにして足首には赤いリボンのアンクレット。加えてちょこなんと白のボンネット帽をかぶり、妙なしっかり者感あふれる出で立ちでちょうちょに結んでいる。
 少女はころころと笑った。
「リッちゃんてホント可愛いね。悪魔なのに」
 ほとんど背丈と同じぐらいある、長い長い金髪の三つ編みが帽子の下からこぼれ、少女が笑うたびにくるりん、くるん、とまるで踊ってでもいるかのように跳ねる。
(ううううるさい黙れ下郎! 下僕の分際で主たる余に向かってカワイイとは何事だ……)
「てへ、そうでした。ごめんねリッちゃん」
 少女はまるで悪びれもせずに屈託なく笑った。
 そのままふわっ、と。
 まるで重力を感じさせない仕草で岩から浮き上がり、ふわふわもこもこな金色の毛玉こと魔界の大公子リッチェンドルフェンに飛びつく。
「うわーいふわふわ。怒ったリッちゃんもだいすき。ねえ、ルーといっしょにごろんごろんして、ごろんごろんー」
 舌っ足らずな甘えん坊の声で少女はせがむ。
(なっ何を言うかこの無礼者……)
 ふわふわな金色の尻尾が驚きのあまりぴきんと硬直する。少女は大喜びで毛玉に頭を突っ込んだ。
「だっておっきなふうせんみたいなんだもん」
 あまりの柔らかさにくんくん鼻を寄せ、頬ずりまでしながらうっとりとキスする。

(……ッ!)
 ぼん、と浅黒い煙が上がって。

「馴れ馴れしくするな、小娘が」
 低い、凄味のある声が闇に響いた。冷気が逆巻き耳元へと流れ込んでくる。
「あ……」
 少女は声をすすり込んだ。口に手を押し当てる。
 巨大な漆黒の剣を思わせる膜翼が傲然とうち広げられる。妖艶になびく闇緑色の髪。青黒い肌の色。青銀にきらめく竜鱗の痕跡が頬にうっすらと浮かび上がる。
 爬虫類じみた金の眼がぎらりと光った。
「……みだりに触れるな」
 棘鋲を打った漆黒の外套の裾をひるがえらせ、魔界の大公子リッチェンドルフェンは少女を恫喝した。鉄の鎖が邪険に鳴り渡る。どこからどう見ても残忍かつ邪悪なる魔性そのものの形姿――
 だがしかし。
「でねでねリッちゃんさっきの話だけどね」
 少女は相手の姿が金の毛玉から悪魔のそれへと変わろうが変わるまいが全く気に留めていなかった。嬉々として遙かに背高になった相手の足下にまとわりつく。
「ソラってなあに? ねえ、ソラってなに?」
「……少しは恐怖を知れ、幼き天使よ」
 まるで怖れる様子のない少女にぺたぺたと思いきり懐かれ、魔界の大公子はうんざりしきった仕草でこめかみを押さえた。
「なぜ闇を怖れぬ」
「恐怖ぐらい知ってるもーん」
 少女はぷうとほっぺたをふくらませた。
「コワーイ思いすることでしょ? そんなの誰だって知ってるもーん。でも残念でしたルーは恐怖なんかこわくないもーん。だからソラのこと教えて」
「知らずとも良い」
 魔界の大公子はすっと眼を細めた。酷薄にさえぎる。
「お前には関係ない」
「何で?」
「……」
「どうして?」
「……」
「ねえ、リッちゃんてば!」
「……この地に空など存在せぬ」


かつて争いがあったとき
全てを滅ぼそうとした神に逆らった天使がいた
神に逆らった天使は力を奪われ
記憶を奪われ
滅びの地へと堕とされた
その日からソラの門はかたく閉ざされ
二度と、開かれることはない

「ふうん」
 少女は分かったような分かってないような顔でうなずく。
「あれはソラじゃないの?」
 悪魔と並んでぼんやりと上を見上げる。
 ぶよぶよの肉を詰め込んだような気味の悪い雲がたれ込めていた。ときおり閃く青や赤の閃光が生々しくもおぞましいものを思わせ、なおいっそう凄惨な様相を照らし出している。
「違う」
「じゃ、ソラはどこにあるの? ソラって遠いの? ルーには行けないとこ?」
 矢継ぎ早の質問に悪魔はため息をつく。どうやらあきらめなければならないのは彼の方であるらしかった。
「お前の故郷だ」
 端的に言う。
「こきょうって何?」
「……かつて、お前が」
 悪魔はかすかに逡巡した。口ごもる。
「いた世界だ」
「えっそうなの?」
 思いも寄らぬ答えであったのか、少女はぱっと顔を輝かせた。
「うわすごーい! ルーのおうちってこと?」
「違う」
「えー!?」
 少女はぷぅと頬をふくらませた。すねたようにくちびるを尖らせる。
「丸くないリッちゃんの言ってるコトぜんぜんわかんない。ふん、いいもん。リッちゃんのけち。いじわる。他の誰かに聞くもーん」
「食われるぞ」
「うっ……ルーはそんなに美味しくないです……」
 ちいさな羽が震えている。
 はらりと淡く、白く、無垢の光を含んだ羽毛が舞い散った。地面に触れた途端、うたかたの輝きを放ってふいと溶け消える。
 悪魔は名状し難い薄暗い眼差しを少女へとくれた。
「帰りたいか。空へ」
「えっ」
 少女はすこし困惑した面持ちで何度も眼をぱちぱちさせた。それからおずおずと手を口元へ持ってゆく。
「うーん……うーんとね、ルーは」
「戻りたいのだろう」
 悪魔は底冷えのする声でつぶやいた。
「戻りたいと言え」
「何で?」
 少女はきょとんとした。心外そうに眼を大きくみはる。
「ルーは別に……」
「お前には空が必要だ」
 悪魔は、いとけない仕草の少女をどこか苦々しい思いで見つめた。
 遠い記憶が甦る。今はもう喪って久しい、古い、懐かしい、息苦しくさえある青い記憶。
 狂おしさと、愛おしさと。自らの思いを伏して殺さなければ到底抑えきれないであろう感情の黒い奔流がふいに心の奥底からあふれ、さらけ出された。
「空さえあれば澱んだ空気に病むこともこんな地の底を這いずり回る必要もなくなる。光さえあれば。だから、もし、お前が取り戻すことを望むならば――俺は」

 少女は微笑みと困惑の入り交じった表情で悪魔を見上げた。
「あのね、リッちゃん」
「何だ」
「ルーはね」
 おずおずと指の先を突き合わせながら言葉を探している。
「ルーは……」
「はっきり言え」
 少女は気後れしたように目線を落とした。
「やっぱり……ソラ、いらない」
「何故だ」
 悪魔は声を険しくした。少女の心を傷つけるかもしれない言葉を投げつける。
「天使の分際で闇に染まる気か」
「闇……」
 少女はびくりと身体を震わせ、怯えた色をかすめさせて悪魔を見上げた。
「ヤミでいいもん」
「お前の居場所はここではない」
 残酷に遮る。
「空へ帰れ」
「イヤ」
 少女はぷいとそっぽを向いた。
「ここがルーのおうちなの。ルーのソラはここでいいの」
「光すら存在しないというのに」
「え」
 少女は困ったような顔で言った。
「お日様ならあるもん……」
 悪魔は総毛立つ微笑みを浮かべた。冷ややかに吐き捨てる。
「たわけるのも大概にしろ、愚昧なる天使よ」
「分かってないのはリッちゃんだよ」
 少女は依怙地に言い張った。
「オトナのくせに何にも知らないんだから。ふうせんもお日様もホントはおんなじなんだよ? どっちもぷかぷかって」
「お前が何も覚えていないだけだ」
 悪魔は少女のかぼそい、幼い喉へと手をやった。罪深い光を帯びた爪が少女の白い首にぎらりと添う。
「思い出せばお前は俺を憎む」
 だが少女は何も気付かなかった。あろうことか悪魔の手の触れるに任せ、それどころかくすぐったそうに身をよじってじたばた足をばたつかせさえしている。
「やだ、リッちゃん、こちょこちょしちゃだめってば……」
 少しでも力の加減を間違えてしまえば。
 今も天使をつけ狙う他の悪魔どもと同じ陰惨な欲望に囚われてしまえば。
 まさにひとたまりもなくその命を奪ってしまうことだろう。赤子の手をひねるが如く、天への冒涜、嫉視、いわれなき嗜虐を目論むその象徴的行為として力を失った使いの魂を無惨に踏みにじり尊厳を奪い尽くし、愚かな虚勢の雄叫びをもって享楽の血祭りに酔いしれてしまうだろう――己もまた魔性の存在であるがゆえに。

「……記憶を、”正義”を取り戻せばきっと、お前は」
「ちがうちがう、そうじゃないもん」
 自らの喉へ突きつけられた殺意とは裏腹に、少女は悪魔の手の中で無心にころころと笑い転げていた。
「ルーは全部好きだもん。暗いソラも暗いヤミもときどきは怖いけどたまには優しいこの世界のみんなもそれからたぶん明るいソラもまぶしいヒカリもルーの知らないほかの天使のみんなも全部好き。同じぐらい好き。でも、リッちゃんだけは」
 少女は息をはずませながら頬を朱に染めた。照れくさそうにはにかみ、ちいさな声で言う。
「ちょっとちがうかな」

 夢から振り落とされたかのようだった。

「そうだな」
 悪魔は感情を殺ぎ落とした。喉に添わせた手で冷酷に少女を押しのける。
「その通りだ。悪魔と天使が相容れることはない」
 少女はきょとんとした。
「あいいれるってなに?」
「理解することもなければ和解することも出来はしないと言うことだ」
「りかいってなに? わかいってなに?」
「……」
「もういや。丸くないリッちゃんのいうこと全然わかんない」
 少女はむっとした様子でぶつぶつ文句を言った。が、ふいに顔を上げてにっこりと笑う。
「でもね、これだけはルーにも分かるよ」
 悪魔の眼をひたと見上げ、ぎゅっと手をつかんでくる。
「リッちゃんはね、ルーの特別」

「な、なにっ」
 やわらかく握られた手を振り払うこともできなかった。
「とく、とくべつとはどういうことだ……」
「特別は特別にきまってるでしょ」
 実は何も分かっていないかもしれない小さな天使と手をつないで。
 冷涼たる闇の荒野に立ちつくし、光と闇が共にあることを拒否し続ける鬱屈の空を、越えきれぬ壁を、呆然と見上げている。
「オトナのくせにへんなの」
 何もかもがひどく間抜けな光景に思えた。


記憶の彼方にある蒼穹の天使
どこまでも青い空
長い、長い、黄金色の髪
光かがやく純白の翼


「お、お前、相変わらず言葉の意味が全く分かっていないようだな……」
「ルーはちゃんと分かってるもん。お利口さんなんだもん」
 少女はえっへんと胸を張る。
「ふうせんはお日様とおんなじなんだから」
「は?」
 悪魔は愕然とした。まじまじと少女を見下ろす。
「お前、何を言って……」
「お日様はソラにぷかぷかでしょ」
「……」
「ふうせんもソラにぷかぷかだよね」
「……」
「つまりお日様とふうせんはおともだちってこと。だからルーのソラもここでいいの」
「何を言い出すかと思えば」
 悪魔は冷笑しようとした。
「闇を空と強弁するとはな。悪魔を――光と」
「待って。ソラが黒くちゃいけないって誰がきめたの」
 少女は精一杯むすっと怖い顔をしてみせた。
「ソラが気持ちよくなくちゃいけないって誰が決めたの」
 悪魔は声を失った。


すべてがまぶしく 白く 遙かに遠く
だが
その笑顔が
向けられた微笑みこそが何よりもまぶしかった


「そんなの気にしないもーん。ちょっとぐらい臭くっても、べちょべちょでもでろでろでもぶよんぶよんでもいいんだもん。ルーはリッちゃんと一緒に見るあのソラが好き」
 少女は懐かしい、まぶしい微笑みの面影をたたえて言った。
「だから、ね、リッちゃん」
 甘くねだるような、鼻にかかった愛らしい声でささやく。
「……おねがい!」

 ぽん、と金色の煙が上がって。

(よ、良いな、今回だけだぞ!)
 むくむくの尻尾を振り立てたまんまるいリスのようなタヌキのようなネコのような金色の毛玉がキィキィ声を荒げて怒鳴った。
(余の懇ろなる温情に感謝するがよい!)
「やったあ! ごろんごろんー!」
 少女はさっそく歓声を上げて飛びついた。
 金色の毛玉こと魔界の大公子は完全に圧倒されてあっちにゴロゴロ、こっちにゴロゴロと転がり回った。少女はと言えば大喜びで羽をうちはばたかせながら金色の毛玉を追いかけ回している。
(余の存在意義はころころの故か……?)
「ううん、リッちゃんだからだいすきなの!」
(う、うむむ。良いのかそれで余は良いのか?)
「うんっ!」

 どうやらさんざん遊びまわって疲れたらしい。
 小さな天使は、つめたい暗闇の裡にあってただ一箇所、日だまりのように輝く金色の毛玉にうずもれ、暗い空を見上げていた。
「リッちゃんて暖かいね」
(う、うむ。有難く思うがよい)
「ホントお日様みたい」
(違うと言っておろうが!)
「ううん、違わない」
 少女はうとうととかぶりを振る。
「……ほんもののお日様もリッちゃんみたいに暖かいといいな……」
(お、愚か者めが。本末転倒だ!)
「え……? ほんまつてんとうって……なに? ねえ、なに……?」
 確かなぬくもりにゆったりと身を預け、いつの間にか少女はすやすやと寝息を立て始めている。
 困惑の尻尾がゆらゆらと揺れて。
 やがて、静かに少女の身体を包み込んだ。


(終)

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