<< 前へ |  TOP  | 次を見る  >>  ……[RSS]
EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 sang bleu
 透き通る氷のような、その瞳。
 叩きつけるような豪雨の中、みるみる色の失せて行く眼差しに涙を浮かべて、イリスはささやいた。
「忍…」
 蒼白な顔立ちの中でただ一点、ほとばしる血の色にも似た唇が震える。
「イリス!」
 その身体を腕に抱きしめ、悲痛に呼びかけた、瞬間。
 腕の中にあった重みが、一瞬にして無数のガラスの羽片と化し、消え去った。空を切った腕がガラスに傷ついて、霧のように蒼い血をしぶかせる。
「……イリス!」
 忍は絶叫した。
 無情に吹き散らされ、舞い上がり、疾風にかすみ消えてゆく、蒼白の輝き。その中で、たった一つ、忍の手に残った銀の十字架……イリスの残した形見が、こぼれ落ちる熱い涙と叩きつける雨に打たれ、銀の光を弾けさせた。
 忍は、涙に濡れた顔をあげた。
 すべてをかき消す雷雨。ときおり闇を引き裂く、白銀の稲妻。その光を浴びて降りしきるガラスの雨。
 その最中に、男が立ちふさがっていた。
 男は、うっすらと笑った。
「私に逆らった罰だ」
 感情のない微笑みに射抜かれ、どうしようもない恐怖に絡め取られて、忍は、凍りついた。
 だが、心を切り裂く痛みが、忍の心を突き動かした。忍はイリスの感覚が残る掌を強く握りしめ、呻き絞るようにして叫んだ。

「貴方だけは絶対に許さない……絶対に!」


 1.

 小さな、古い教会。
 枯れかけたイバラにまとわりつかれた、装飾過多の鉄柵越しに聞こえてくるパイプオルガンの音色に、忍は、思わず足を止めた。
 こんな朽ちかけた教会から、パイプオルガンの音が聞こえてくること自体、珍しいような気がした。
 だが、その哀愁を帯びた音色に、忍は、思わず、深いため息をついた。耳を澄まし、目を閉じ、吹き抜けていく音を胸に吸い込むようにして受け止める。
 忍が育ったのも、こんなふうにパイプオルガンの鳴り渡る古い教会だった。父の顔も、母の顔も知らない。生まれてすぐ、その教会の前に棄てられていた、と聞いた。
 家族と呼べるのは、園長先生、と呼んでいたことしか記憶にない、銀髪の老シスターだけだった。
 今でも覚えている。
 日曜日ごとに奏でられていたパイプオルガンと、灯りのない、薄暗いホールで見上げた巨大な十字架。
 それは、子供心に、畏怖というより恐怖に近いものを感じさせた。
 もしかしたら自分が、何か、人として許されないような罪とともに生まれてきてしまったのかもしれない、という漠然とした思い。しん、と静まり返った薄闇の中で、たったひとり、胸を押さえて十字架を見上げる度に、それが自分自身の背負った十字架のように思えて……。
 忍は、ふと、我に返った。不思議な気がした。
 そもそも、ここに教会なんかあっただろうか? 定かには思い出せないまま、忍は、音をたぐりよせるように教会の門をくぐった。
 ひっそりとした木々に埋もれるかのような煉瓦の建物から、静かなオルガンの音が聞こえている。扉を押し開けた。冷たい風が、さあっと吹き抜けて、忍の髪を揺らす。
 内部は、静謐な暗がりに満ちていた。時を経るに連れ、いつしか忘れられてゆく、寂しげな空気に満たされている。
 オルガンが、止んだ。
「あ……」
 オルガンの前に座っていたひとが、ふと、振り返った。
「誰?」
 それは、異国の少女だった。
「すみません。オルガンが聞こえて……それで」
 忍は、うろたえながら、ようやくそれだけを言った。
 薄闇の中、少女の姿が、まるでほのかな光を放っているかのように見えた。無表情な顔が、完璧な均整を保ったまま傾けられる。
「どなたですか?」
 少女は、もう一度、尋ねた。  
「え、ええと……」
 透き通る瞳に見つめられ、忍は、声もなく立ちすくんだ。 
 ふと、少女は優しい微笑を浮かべた。吸い込まれそうな表情だった。
「ようこそ、私たちの教会へ」
 突然、別の声がした。忍は驚いて振り返った。パイプオルガンの横にある小さな楽屋の扉から、墨衣の男がくぐるようにして出てくる。
「よろしければ、もう少し、イリスのオルガンを聴いてゆきませんか」
 男は、穏やかに微笑みながらそう言った。

 夢のような時間だった。優しいメロディに身をゆだね、目を閉じて、ただ、聴きいる。
 ふと我に返ると、オルガンはすでに止んで、イリスが壇から降りてくるところだった。
「ありがとう」
 鈴を振るような声、とでも言えばいいのだろうか。忍は、微笑みかけてくるイリスの瞳に、胸がつぶれそうな思いを抱いた。
「わたしのオルガンを聴いてくれて。とても嬉しかった」
 哀しそうな眼をしているのに。何か、遠いものを見ているかのような眼をしているのに。しらじらと、そんなことを言う。それが恨めしかった。
 忍はためらいがちにたずねた。 
「また聴きに来てもいいですか」
「いつでもいらしてください」
 イリスは、寂しげな微笑のまま、頷いた。
 胸が、騒いだ。
 差し込む月明かりだけがしらじらと蒼い、夜の窓辺。
 壁いっぱいに描き出された、モノクロの天使たち。胸にいだく、銀の十字架。降り注ぐ、福音の月光。
「イリス、さん」
 忍は、その名を呼んでみた。
 微笑が返ってくる。
「イリス」
 想いが募る。ほのかなくちびるが、銀色にぬれて、光って。
「……忍さん」
 名を呼ばれた、とたん。
 唇を、重ねられていた。
「!」
 イリスにすがりつかれている、と気づいて、忍はわずかに身をよじった。嫌われるとでも思ったのか、イリスの手がさらに強く袖をつかんだ。ほっそりした首すじから、かすかな薔薇の香りが匂い立った。
「どうして?」
 忍は、呻くように言った。
「初めて逢ったのに」
「……初めてじゃない」
 イリスの、月光のような涙が頬に光った。
「わたしたち、何度も逢ってる。貴方を、探してた。貴方が生まれる前からずっと…また逢える日を夢見て…今まで」
 ブラウスの胸元に手を掛ける。柔らかなまろみを帯びた胸のラインが、月のとまる蒼い夜空にくっきりと浮かび上がった。首にかけた十字のペンダントが、ちりちりと光る。
 忍は、息を呑んだ。かすれる吐息が、熱いほどだった。
「何するん……!」
「見て」
 パイプオルガンのたもとに刻まれた、からみつくイバラと翼の意匠を凝らした十字の浮き彫りが、青白い月に照らし出されている。
 うち捨てられた墓標を思わせるそれらのレリーフに、イリスの影が落ちていた。やわらかにふくらんだ、優しい、胸のかたちに眼を奪われる。
 なのに。
 心臓の場所に、ぞっとする黒いあざがまざまざと浮かび上がっていた。
「おなじ……だよね、忍…? 貴方も、わたしと、同じあざがあるんでしょ」
 忍は、ずきんと突き上げてくる感覚に、身体を震わせた。誰一人……いや、たぶん、実の親と、園長先生以外は知らないはずの、あの秘密を……

 忍は胸を押さえ、後ずさった。
「どうして、君がそれを」
 悲しい眼差しがまとわりついてくる。忍は小さな呻き声を漏らした。視線が胸に突き刺さる。心臓が今にも割れて壊れてしまいそうだった。
「見せて」
 逃げだそうにも、背後はもう、レリーフの刻まれた壁だった。
「ずっと捜してた。貴方も……そうでしょ? わたしを探しに来てくれたんでしょう……?」
 押し返され、よろめく。背中がレリーフにぶつかった。
 イリスの指先が、忍の胸元を滑っていく。忍は声をふるわせて、何度もかぶりを振った。
「触るな」
 ずっと、気に病んでいた。真夏でも、肌を陽にさらせなかった。どうしても逃れられないときは、仕方なく胸に大きな絆創膏を貼った。
 そこに、恐ろしく鮮明な、薔薇十字のあざがあったから。
「…ほら…ね?」
 こわばった忍の目に、イリスの淋しい微笑みが映った。
「わたしたち、同じなのよ」
 イリスの眼から、また涙がこぼれおちた。
「さびしかった。逢えなくて、逢いたくて……苦しかった」
 見つめてくる濡れた瞳の、あまりにも孤独な色に、忍は息を呑んだ。
「お願い、もう、どこにも行かないで……!」
 イリスの瞳に、声に、心を深々と囚われて。
 理性も、何もかもが飛び去っていた。忍は、イリスのすべてを受け入れた。つめたく濡れた頬を寄せあい、抱きしめあって、失ったものを取り戻そうとするかのように激しく唇を重ねて。
「……愛してる……この世界でわたしたち二人だけが……おなじ……」
 熱い吐息がもれた。
 忍はイリスを見下ろした。それは、理性ではかれる思いではなかった。初めて逢ったばかりのひとに、こんなにも心惹かれてしまうことの理由さえ、意味がないように思えた。
 何度、口づけただろう。何度、抱きしめただろう。また失ってしまいはしないかと、そればかり怖れて。
「……ごめんなさい。いきなりで……びっくりしたでしょ」
 ようやく、涙をぬぐってイリスは微笑んだ。
「でも、もう、大丈夫」
 忍は声もなくイリスを抱きしめた。なぜか、知っているような気がした。こんなにも求めてしまったのは、イリスの見せた涙のせいだけじゃない。忍は動揺を抑え、尋ねた。
「あの、さっきの神父さん……あのひとも……?」
 イリスはひどくゆっくりとかぶりを振った。
「アレクセイは、sang bleu......ええと、尊い血を持つ人。わたしの家は代々、あのひとの家に仕えてきたの。だからわたしも、あのひとと一緒に日本へ来た。あのひとと、わたしたちとは……違うわ」
 その言い方に、奇妙なほど含みがあるような気がして、不安な気持ちになりかけた、その時。
「イリス」
 ふいに、扉が開かれて、アレクセイのなめらかな声がホールに響いた。
「イリス、いないのか」
 身じろぎしようとした忍の口元をさっと掌で覆って、イリスは息を殺した。気配のなさにアレクセイはそのままきびすを返し、立ち去った。
 イリスは、ほっと安堵の吐息をついた。
「こんなところ見られたら、あのひとがなんていうか」
 怯えた眼だった。
「忍、また、オルガンを聴きにきて。わたしはずっと、貴方を待ってる。今までも、そして、これからも、ずっと」
 イリスは、すっと身を引いた。
 言葉の意味も分からないまま、忍はうなずいた。イリスの残した熱い余韻が、まだ、さざ波のように柔らかく、手のひらに残っていた。


2.

 次の日も。その次の日も。さらに次の日も、忍は教会へ通い、イリスのオルガンを聴いて過ごした。
 なのに。
 その日は、いつもと違っていた。

 石の薔薇に逆手を絡め取られ、残酷にむち打たれる、信じがたい姿が眼に飛び込む。
 甲高い鞭の音が暗闇に響きわたった。
 上気した身体が紅色に染まって、汗ばんで。狂気に満ちた打擲が、残酷にくわえられつづける。
 忍は、あまりの恐ろしさに声を出すことも、姿を現すことも出来ずにいた。だがアレクセイは忍の隠れた扉にむかい、皮肉な声を掛けた。
「イリス、忍が来たぞ」
 イリスの髪を乱暴に掴んで引きずり起こす。忍は、悲鳴を上げて飛び出そうとした。
 だが、動けなかった。恐怖に見開かれたイリスの瞳が、泣き叫ぶかのように忍を見つめていた。
「見せてやれ。本当の姿……イリス、お前の、本性を」
「い、嫌……!」
 イリスは、かぶりを振ろうとした。
 その、喉に。
 アレクセイが、微笑を浮かべて、覆い被さった。
「……っ!」
 呆然とする忍の目前で、イリスはがくりと力を失って崩れ落ちた。
 ぼんやりと光を放つ蒼白な血が、アレクセイの唇から、イリスの喉から、網のように伝い落ちている。
「馬鹿げたことはやめてください」
 忍は、ようやくそれだけを言った。
「たちのわるい冗談です……」
「忍と言ったな」
 アレクセイは、壮絶に微笑した。
「お前も、イリスと同じ、私に仕えるべき”人形”だ」
 忍は、ぎゅっと拳を握り込んだ。
「イリスを離してあげてください」
「”これ”のことか?」
 アレクセイはイリスの髪をつかんで引きずり上げた。イリスの顔が苦悶に歪んだ。
「これは、私の”人形”だ」
「馬鹿なことを言うな!」
 忍は怒鳴った。
「イリスを離せ!」

「ずっと、探してきた」
 アレクセイは眼を細めた。
「忍、私のもとへ来い。蒼き血をその身体へ注ぎ込んでやる。そうすれば永遠の命がお前のものになる。お前も探していたのだろう。同じ血を持つ仲間を。それが、私だ」
 妖艶な微笑みが、鋭い牙をいろどっていた。
「違う……!」
 忍は、叫ぼうとした。だが、できなかった。
 心の奥が、震えている。呼んでいる。知っている。その味を、その喜悦を。心臓が、高鳴る……!
「我に従え」
 アレクセイが目の前に迫っていた。動けない忍の肩に手を回し、ひどくゆっくりと、唇を寄せて。
 冷たい痛み。それがすぐに、凍りつく激痛へと変わった。
 何もかもを奪われてゆくような感覚に、忍は、がくりと膝をついた。無意識に首へ手をやる。手についた血がぽたっ、としたたり落ちた。
 蒼く光る血が。

「忍」
 アレクセイの微笑みに囚われ、取り込まれ、囲われていく。
「永遠に仕えると誓え。この、私に」
 アレクセイの手が、忍の喉をぎりぎりと締めあげた。忍は喘ぎ、息を継ごうとして、力なくのけぞった。
 漆黒の眼が迫ってくる。気が違いそうだった。身体の奥底までを支配されてしまいそうだった。
 かすれた悲鳴が漏れた。
「誓え」
 忍び込んでくる声に、忍は必死でかぶりを振った。
「イヤだ…できない…イヤだ……!」
「そうか」
 アレクセイは、忍の耳元で悪魔のように笑った。
「来い、イリス」
 イリスは、ゆっくりと身を起こした。うつろな眼が忍を見上げる。ほんの一瞬、その奥に涙が浮かんだ、ような気がした。
「はい、アレクセイ様」
 まるで石になってしまったかのような声だった。
「イリス、お前は誓ったな」
「はい」
 イリスは頭を垂れ、ひざまずいた。
「アレクセイ様に永遠の忠誠を」
「…イリス!」
 忍は絶叫し、否定した。
「言っちゃダメだ……!」
 イリスは、小さな銀のナイフを抜き払った。
「……!」
 襟元をはだけられる。氷のようなナイフが、胸のあざにぴたりと押し当てられた。
「ダメだ、イリス…やめ……」
 声が、ちぎれた。
「誓え、忍」
 ただ、アレクセイの声だけが、耳元で何度も繰り返された。
 胸に突き刺さる銀の刃。
 なのに痛みもなく、ましてや刺し貫かれる感覚もなく、ただ、ざくざくと土を掘るように傷付けられ、切り裂かれ、何度も、何度も……

 何一つ感じなかった。
 何もかも信じられなかった。
 青白く光る血だけが音もなく足下にひろがっていく。
 それが、自身のすべてを奪ってゆくと気付いて、忍は、絶叫した。

 その瞬間、イリスを見た。
 イリスもまた、泣いていた。
 誓って。
 眼が、悲鳴を上げていた。
 早く、誓って。
 これ以上、貴方を、苦しめたくないから。 
 愛してるから。愛してるから。愛してるから。

「……違う…絶対に…イヤだ……嫌だっ!」
 忍は、それだけ叫ぶと、気を失った。


 3.

 目が覚めたのは、どれぐらい眠ったあとのことだっただろうか。
 そこは、暗闇だった。じっとりと濡れた地下室の石壁はかび臭く、寒気がした。
 涙に汚れた眼をあけても、何も見えない。
 頬を撫でさする、冷たい手だけが感じられた。

「逃げて」
 弱々しい声が聞こえた。イリスだった。
 忍はかぶりを振った。
「一人は嫌だ」
「でも、わたしはもう…貴方を苦しめた。その罪は、消えない」
 イリスの声は、今にも震えて消え失せてしまいそうだった。
「嫌だ」
 忍は繰り返した。
「イリスと一緒じゃないと」
「だめ」
 呻くような声。
「わたしは…あの方の”人形”。あの方に命を吹き込んでもらう代わりに、たくさんの罪を犯し…たくさんの命を奪った……だから、もう…」
 忍は、イリスの手を掴んだ。
 細い手だった。震え続ける手だった。
「逃げるんだ、イリス」
「できない」
 イリスは、弱々しく手を振りほどこうとした。その手を、砕けそうなほど、強く、握りしめて。
「逃げるんだ、イリス」
 肯くまで、何度でも言うつもりだった。

 イリスを助けるために。
 永遠の命などという、狂気に満ちた鳥かごから解き放つために。

 涙に濡れた唇が、ふるえた。
「忍」
 死を覚悟したかのような声だった。忍は、背筋に伝わる冷たさを振り払った。
 出口を探す。天井に切られた落とし戸から、イリスの降りてきた梯子が下がっているのが見えた。
「行こう」
 忍は、イリスの手を引いて立ち上がった。

 どこに逃げていいのかも分からないまま、忍はイリスとともに自分の家に駆け戻った。
 手持ちの金をすべてそろえ、荷物をまとめて、振り返る。
「とりあえず、どこか人目のない田舎の方へ行けば」
「忍っ」
 イリスは、ふらりとよろめくなり、手のひらで眼を押さえ、ずるずると腰を落とした。
「どうしたの!」
 駆け寄って支えようとした忍を、猫のように細くなった瞳が見上げた。
 顔色が悪い。蒼白だった。
 がたがたと震えている。

「だめ、忍」
 イリスは血を吐くような声で呻いた。
「……欲し……!」
 何かを言いかけて、息を呑み、掌で口を覆う。
 イリスは部屋の中を見渡し、とっさに見つけた電源コードを引き抜いて忍につきだした。
「これで、わたしを縛って……はやく!」
「イリス?」
「早く!」
 叫びかけたイリスの唇に、青ざめた牙がのぞくのを、忍は息を呑んで見つめた。
 イリスの眼が、ますます、細くなって、色を失ってゆく。
「わたしが何を言っても言うことを聞かないで。わたしを助けたいのなら、絶対に、従わないで」
 その声はもう、別人のように、しわがれていた。
 忍がコードで手首を後ろ手に縛るのを、イリスは、必死で何かを押し殺すかのように見つめていた。
 もどかしい仕草で、身じろぎして、忍を見上げる。
 その眼が、血の色にすり替わった。


4.

 イリスの喉から絶叫が漏れるのを、忍は耳をふさいで耐えた。
 深紅の眼が、忍の首筋へ牙のように突き立てられては、弾けるように伏せられ、そむけられる。
 声が外からきかれないようにと、口にタオルを詰め込んでいても。何度も何度も頭を床に打ちつけようとするのを、抱きしめ、引きずり寄せようとしても。
 その度にイリスは声もなく絶叫し、身体を引きつらせ、忍の血を求めて狂ったようにむせび泣いた。
 それは止むどころか、何時間経っても、何日が過ぎても、ただ、イリスの身体ばかりを凄絶に、確実に蝕んでゆくのだった。

 涙に汚れ、意識さえ失いかけた、イリスの姿。

 忍は唇を噛んだ。
 鳥かごの哀れな鳥。
 永遠に美しくさえずることを許されたかわりに、命を歌う喜びを失ってしまった闇の小鳥。
 ほかに、どうすればよかったのだろう。
 たとえ自由を手に入れても、生き長らえることができないのなら。
 苦しむしかないのなら。

 忍は、シャツを脱いで、イリスの傍にひざまずいた。イリスの眼が弱々しく見開かれた。
 その身体を抱き起こし、口に詰めたものを取り払う。
「イリス」
 低く、その名を呼んで。
 そっと、口づける。
 冷たい痛みが唇に走った。

 口の端を、ぽたり、ぽたりと蒼い血が伝う。
  
「……忍!」
 気が遠くなるような感覚に、忍はくずおれた。
 その身体を、イリスが抱き支えた。
「どうして……!」
「イリス」
 忍は、かすかに笑って見せた。
「よかった…元に戻って…」
「嫌!」
 イリスは、悲痛に呻いた。
「こんなことをしても、貴方もわたしと同じように苦しむだけなのよ!」
「イリスが苦しむのを見るぐらいなら」
 忍は、あつい涙がイリスの眼からあふれて、自分の頬に落ちるのを感じ取った。
「ただ見てるしかできないんなら、君と一緒に地獄へ堕ちるほうが、ずっとマシだと思った……」

 イリスは忍を胸に抱いて、呻くように言った。
「わたしは…数え切れないぐらいたくさんの罪を犯した…アレクセイ様に命じられるまま…殺した……。恐ろしかった…あの方も、こんな自分も…だから本当は死にたかった……でも……怖かったのよ!」
「イリス」
 忍は、よろよろと手を伸ばした。
「逃げよう。まだ、間に合う。今からでも間に合うさ。二人で…二人で罪を償おう」
「ありがとう」
 イリスは、泣いていた。

 愛してる。
 愛してる。
 愛してる。
 そう、言おうとしたのに。

 細い、銀色に輝くレイピアが、イリスの背中から、胸へ。
 白いシャツを青白い血の色に染め上げながら、深々と突き抜け、飛び出してくるのが、見え……!

「逃げられると思うな」
 甲高く笑うアレクセイの顔と手だけが、何もない空間からにゅっと生えて、二人を見下ろしていた。その途端、忍はくずおれたイリスの身体を抱きかかえ、外へ飛び出した。
 外は、凄絶な雷の渦巻く豪雨だった。
「”人形”の分際で」
 ふいに現れた手が、走り逃れようとする忍の喉を、がっと掴んだ。
「私の元から逃れられる、などと思うな」
 忍はもんどり打って倒れ込んだ。イリスの傷ついたからだが、道路に投げ出され鈍い音を立てて転がった。

「イリス!」
 とっさに駆け寄って、抱き上げる。
 透き通る氷のような、その瞳。
 叩きつけるような豪雨の中、みるみる色の失せて行く眼差しに、息の詰まりそうなほどの苦痛と涙を浮かべて、イリスはささやいた。
「忍…」
 蒼白な顔立ちの中でただ一点、ほとばしる血の色にも似た唇が震える。
「愛してる…でも……もうだめ……」
「イリス、イリス!」
 その身体を腕に抱きしめ、悲痛に呼びかける。
 イリスは力ない微笑みで応えた。
「また…いつか逢え……」
 腕の中にあった重みが、一瞬にして無数のガラスの羽片と化し、消え去る。空を切った腕が、砕け散るガラスに傷つき、霧のように蒼い血を噴き上げた。
「……イリス!」
 忍は絶叫した。
 無情に吹き散らされ、舞い上がり、疾風にかすみ消えてゆく、蒼白の輝き。
 その中で、たった一つ、忍の手に残った銀の十字架……イリスの残した形見が、こぼれ落ちる熱い涙と叩きつける雨に打たれ、銀の光を弾けさせた。

 忍は、涙に濡れた顔をあげた。
 すべてをかき消すような、雷雨。ときおり闇を引き裂く、白銀の稲妻。光を浴びて降りしきるガラスの雨。
 その最中に、男が立ちふさがっていた。
 月影すら落とさない、雪花岩のような肌。
 見る者を夢見心地へと誘う、あやうい微笑み。
 風になびき乱れる、漆黒の長い髪。
 アレクセイは、うっすらと笑った。
「私に逆らった罰だ」
 感情のない微笑みに射抜かれ、どうしようもない恐怖に絡め取られて、忍は、凍りついた。
 だが、心を切り裂く痛みが、忍の心を突き動かした。忍はイリスの感覚が残る掌を強く握りしめ、呻き絞るようにして叫んだ。
「貴方だけは絶対に許さない……絶対に!」
 
 イリスの命を奪った剣を手にして、忍は、アレクセイに襲いかかった。
 甲高い笑い声が響き渡った。
「叶うわけがない。たかが”人形”が、真祖たるこの私に」
 豪雨の中、アレクセイの姿を見失って、忍は立ちつくした。
 髪がぐしゃぐしゃに濡れた。口と言わず、眼といわず、打ちつけてくる大粒のしずくに打たれつづける。
 レイピアを握る手が滑った。

 天蓋を叩き割るかのような、蒼白の稲光が頭上を駆けめぐる。
 凄まじい雷鳴が地面を震わせた。
「どこだ!」
 忍は絶叫した。
「出てこい、アレクセイ!」
「ここだ」
 耳元に吹き込まれる、こぼれるような含み笑い。
「忍、私はここだ」
 振り返ろうとした瞬間。
 手にしたレイピアを奪われた。そのまま銀の切っ先がひるがえった。
「!」
 漆黒に紛れたアレクセイが剣を振るった。蒼い血がしぶいた。忍は、見る間に切り刻まれ、がくりと膝をついた。
 足下へ流れてゆく、青白い血。
「私に従うと誓え、忍」
 アレクセイは氷のような微笑を浮かべ、いざなった。
「そうすれば、助けてやる。永遠の命をくれてやる。私と共に生きる喜びを、血の悦楽を、お前に与えてやる」

 敵うわけがない……
 剣を奪われ、戦う意思をつぶされ、その妖しい眼に縛られ、動けなくなって。
 このままアレクセイの”人形”になってしまえば。
 楽になれる。イリスのように苦しまずにすむ……イリスのように……

「…断る!」
 忍は顔をあげた。
「絶対に、貴方の言いなりになどなるものか!」
「そうか」
 アレクセイは落胆したような声で呟いた。
「残念だ、忍……残念だよ」
 目の前で、銀色の剣をアレクセイが振り上げた。赤く血走った目が、喜悦に歪んでいるのが見えた。

 最後の、瞬間。
 忍は、イリスの形見……銀の十字架を、アレクセイの上空高く放り投げた。

 空全体が、まばゆい爆発に砕け散ったかのようだった。
 荘厳なパイプオルガンの和音にも似た落雷が銀の十字架に走りつき、そのままアレクセイの振り上げる銀のレイピアを伝って、全身へ流れ下った。
 一瞬にして、アレクセイの全身が炎に包まれる。
 断末魔の咆哮が響き渡った。

「イリス!」
 忍もまた、叫んでいた。その落雷はまるで、イリスの弾いていたオルガンのようだった。その心に秘め隠していた悲鳴や後悔や悔恨の念すべてを、幾重にも折り込んで鍵盤に叩きつけたかのようだった。

「私は死なぬ…! 蘇る! 何度でも…何度でも……!」
 消し炭になってもなお、よろよろとよろめきながら、アレクセイが憎悪に満ちた呪詛を漏らし続けるのが聞こえた。
 その身体が、雨に打たれ、溶け崩れて、泥のように流れてゆく。
「何処に逃げても、何度生まれ変わっても…どんな姿になっていても……」
 アレクセイは忍を睨み続けながら、ざらざらとくずおれた。
「……お前達二人を許さない…決して許さない!」
 忍は、傷だらけの蒼い血まみれの身体をひきずりつつ、アレクセイに背を向けた。


 もう、アレクセイの気配はどこにもない。
「何処に逃げても、何度生まれ変わっても、どんな姿になっていても、か」
 豪雨に打たれ、呟く。
 アレクセイは、何度でもよみがえるとうそぶいた。いつかまた、再び、アレクセイと戦うことになるのかもしれない。
 それでも、構わなかった。
 絶望の中の、小さな希望……イリスにまた逢えるかもしれないという可能性さえあれば。

(わたしたち、何度も逢ってる。貴方を、探してた。貴方が生まれる前からずっと…また逢える日を夢見て…今まで)

「…必ず見つけ出すよ」
 雷鳴に向かって、忍は呟いた。
「今度は僕の番だ。君とまた巡り逢う日のために…イリス……永遠に君を捜し続ける。だから、待っていて」
 頬を伝うものは、雨か、涙か。
 忍はいつまでもその場に立ちつくして、ひらめく稲妻を見上げ続けていた。

【終】
<< BACK |  TOP  | NEXT  >>