自由貿易都市クーイー。
南シャノア王国を貫流するトワーズ河の河口に位置し、この地方一帯の物資輸送を手がける交通の要衝である。その歴史は二百年の昔に遡る。
もっとも古い著述はクーイー初期の様子を以下のように伝えている。
年に二度、ルイネード侯領のクーイーに各国の行商人がより集い、毛織物、南方の果実、野菜、魚、肉や毛皮、木材、炭、岩塩、琥珀、家畜、宝石貴石、絹、金銀細工、鉄、武器、東方の香辛料などを売る。常は入り江に面した漁村であるが、このときばかりは何万という市が立ち、さながら突如として出現した城のようである――。
一方、薄汚れた裏通りでは、剣と銀貨を秤にかけた命がけの商売が繰り広げられる。麻薬、盗品、魔術に使う呪わしい道具、さらわれてきた子どもや女までありとあらゆるものが競りにかけられた。
商業、交易の中心地として活気づく表の顔とともに闇に潜む裏の顔を持つ街、クーイー。
むろんここでは殺しの腕も重宝された。
◆
暗闇に沈んだ部屋は、少し苦い煙に満ちていた。
開け放した窓辺でカーテンが揺れ、月に見おろされる古い街並みをかいま見せる。月明かりはあくまでも静かで美しい。
ふいに、するどい苦痛の声がひびいた。てすりをつかむ手に身悶え混じりの力がこもる。
椅子が厭わしく軋む。
「声を立てるな」
安楽椅子に身を埋めていた男がおもむろに口にくわえたパイプを灰皿に打ちつけた。耳障りな音が飛ぶ。
男は目の前に踊る剥き出しの肩を掴んだ。
極彩の乱舞する無数の刺青が彫りつけられた背中。
にじむ血の色。赤い髪。
まるで身体を画布がわりにした殴り描きのようだった。技術も美意識のかけらもない刺青の図柄が青年の背中をかき裂いてゆく。血に濡れておぞましくゆがんだ図柄がざらつく月の光に照らし出された。
血に入り混じる月光が青年の肌を残酷に染め上げている。
また針が青年の身体に突き立った。
それは一片の同情もない悲惨な扱いだった。単なる奴隷か、あるいはそれ以下でしかない存在だということを思い知らせるためだけに、男は青年を狂気の刺青でもてあそんでいる。
「動くな」
耐えきれず青年は泥を踏みつぶしたようなうめきをあげた。男が手を返して顔料をつぎ足すたび、赤毛は身体をこわばらせ、汗をしたたらせて苦痛に耐える。
その様子を、妖艶な姿で窓際に立ち控える美女が見つめていた。
肩にかかる黒髪が柔らかな影を描いている。顔は闇に隠れ、見えない。ただ、薔薇のむせ返るような香りだけが濃密に漂っていた。
「ジェルドリン夫人を知ってるな」
安楽椅子の男は吐き捨てるように言う。
どうにかうなずく赤毛の様子に、窓際の女は声も立てず笑った。眼が合ったのだ。こんなかたちで犯されていながら、射るように激しい眼差しは光一つ失っていない。
「今週中に始末しろ」
返事はまともに返らない。肉を突き崩す音ばかりが響きわたる。
「聞こえたのか」
安楽椅子の男は、赤毛の背を血まみれにした、ぞっとする状況のまま言った。
「理由は」
呻きにまじって、どこか醒めた声が探りをいれてくる。安楽椅子の男はもう一方の手で赤い髪の毛をつかんだ。
「ヴェンデッタ、教えてやれ」
黒髪の女は唇をわずかに舐めた。頬笑みがかすめる。
「はい」
しなやかに近づいた女の手がそろりと伸びて、涙と汗にゆがんだ赤毛の頬を手挟んだ。
「千スーよ、ハダシュ」
ため息にも似たささやきが赤毛を覆い尽くす。
赤毛は身を震わせた。黒髪の女はうっすら笑ってくちびるを寄せた。舌がとろけ、もつれあう。ごくりと赤毛の喉が上下した。上気した声がもれる。
「あれもね」
その一言で、赤毛の様子ががらりと変わった。眼にあやしい情欲の色が走り抜ける。
吐息が熱っぽく乱れ出した。
「寄越せ。早く」
赤毛は脱力して前のめりにくずおれた。安楽椅子の男は支えようともしない。黒髪の女は投げ捨てられた赤毛の上腕をつかんだ。だが赤毛は振り払った。女は眼を細めた。
「立ちなさい」
殺し屋は、月影のかかる窓枠を支えによろよろと立ち上がった。しなやかに痩せた体つきが光に切り取られ、床に漆黒の影を落とす。足下に何かが糸を引いてこぼれ落ちた。
赤いしずくが、床に跳ね返る。
「理由を聞いてどうする」
安楽椅子の男は、過去を彷彿とさせる猛禽のまなざしを差し向けて言った。
「わしを裏切るつもりか」
殺し屋は答えない。安楽椅子の男はおざなりな笑みを浮かべ、手をかざした。女がさっと寄って男の手を拭く。
「ジェルドリン夫人が〈黒薔薇〉に資金を流しているという噂が流れてな。話し合いで、奴との協力関係は終わらせたほうが良いと決まった」
女はテーブルの上に積んであった革袋をひとつ殺し屋の足下へ放り投げた。重みのある金属音が床にこぼれ出す。
赤毛は凄惨なまなざしを黒髪の女へと突き立てた。
「クスリだ。先によこせ」
女は酷薄に微笑み返す。
「あとで私の部屋にいらっしゃい」
赤毛はむさぼるように袋をつかみ、そのままよろめいてドアの向こうへと消えてゆく。
安楽椅子の男はパイプの煙草に火をつけなおし、煙を大きく吐きだした。
煙が散った後、男はほんのわずかだけ唇をゆがめて笑った。宝石と花と葬送の涙に送られて、悪趣味な白豚は二度と戻らぬ旅に出る。それは愉快なことだった。
「どこから来たか知らんが、少しばかり見逃しているうちに目障りになってきた。〈黒薔薇〉など、わしがその気になれば一息で叩きつぶせる。そうだな、ヴェンデッタ」
女はそれに薄いほほえみと低い声で答えた。
「そのようですわね」
赤毛の男は部屋でひとり、ベッドにうもれていた。持ってきた服も床にちらばったままだ。血と顔料の臭いをさせながら、赤毛は病的に熱を帯びた目でドアを見つめ続けている。
ふいに開いたドアから、先ほどの女が入ってきた。赤毛が喉を鳴らす。
「……よこせ」
呻くように言う。
黒髪の女は赤毛の存在になど気も留めない様子で、そのまま歩み入ってきた。完全に赤毛を無視している。赤毛は立ち上がり、女の行く手に立ちはだかった。
「よこせ」
道を遮られ、女は不興げに立ち止まった。底知れぬ眼で赤毛を見下ろす。
「我慢もできないの」
ポケットの中に手を入れ、いたずらに探る。
赤毛は待ちきれず、身体を震わせた。
壁に据え付けられた燭台に、じりじりと音を立てて燃える蝋燭がたった一本、ほのぐらい光を放っていた。迷える羽虫が、己自身を焼き焦がしながらも離れられず、火の回りを舞い狂う。
拷問のような静寂が過ぎていく。女はふと気配をゆるめて赤毛の髪をくしゃりと撫でた。
「触んじゃねえ」
赤毛は頭を振ってかわした。
「さっさとよこせ。さもないと」
餓えたけだもののように赤毛は女へと挑みかかった。ポケットに手を掛け、無理やり中のものを引きずり出そうとする。
女は浅く笑った。
「迂闊ね。少しは相手を選びなさいな」
赤毛は動きをとめ、息を呑んだ。いつの間にか、喉に針金のような細いナイフの尖先が突きつけられている。女の声色に冷酷な力がこめられた。
「手を放しなさい」
赤毛は動かなかった。
のどの皮膚が、ぷつっ、と音を立てた。みるみる血がふくらんで玉を結び、転がり落ちる。赤毛は歯を食いしばった。
「欲しくないの」
その警告に赤毛は誇りを見失い、腐った眼をそらせてのろのろと従った。
「いい子ね。ほら」
女は赤毛に阿片のかけらを示した。
「よこせ」
赤毛は息を荒げて阿片をひったくり、部屋の隅へ駆け込んだ。かたかたと手を震わせながら机の引き出しをあけ、苦い煤で真っ黒になった真鍮の皿を取り出す。
薄茶色のそれを皿に転がり落とす乾いた音がひびいた。
醒めたまなざしが、赤毛の逃げ込んだ闇を見つめている。
赤毛は壁の燭台からろうそくをとり、ランプに火をうつした。その上に、阿片の樹脂を載せた皿をかざし、炙る。頬にさした赤い色は、さながら熱病に犯された瀕死の病人だった。
立ちのぼるけむりを、赤毛はかき集めるようにして吸い込んだ。もたれた椅子が大きな音を立てて倒れた。
堕落の気配が漂いはじめる。
女は麻薬におぼれていく赤毛の腕をつかんで、ベッドへと放り投げた。赤毛はだらしなくうつ伏せたまま、あやしい笑みをもらし、もう、ひくりとも動かない。
ふいに女は赤毛の体を仰向かせ、その身体に赤い爪を這わせた。赤毛は鈍い声をあげて身体をゆらす。だらりとゆるんだその表情は、笑っているようでもあり、どこか泣いているようでもあった。
「ハダシュ」
女は、ぞっとする冷たい目で赤毛を見下ろし、吐き捨てた。
「ラウールに飼われ、貶められ、果てはボロ切れのように捨てられるだけの命。まさかその程度の男だったとは言わせない。貴方に私と同じ闇の光を見いだせたと思ったのに。あの目はただの作り物か。私を睨み付けた毒蠍のまなざしは」
漆黒の瞳に、くらい火が燃え上がった。
「……貴方、本当にそれでいいの」
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ねっとりした煙の渦が、阿片窟の中央から地上へと上がるゆるい螺旋階段を昇っていく。
「お、ハダシュじゃねえか。珍しいな、一人かよ」
背中越しに名を呼ばれて、ハダシュは首をねじ曲げた。
煙草に混ぜた阿片の煙が、ぶどう酒のむせ返るような甘い匂いと濃密に混じり合う。どのテーブルも獣のような男たちでいっぱいだった。
薄汚い話をし、下卑た笑いを上げ、ビールのジョッキを傾けては泡だらけの髭を袖口で拭う。そんなテーブルの間を行き交いながら、誘うような笑みを投げて回る少女たちもまた、安っぽい香水のにおいをぷんぷんさせていた。
その間をぬって近づいてきた男は、なれなれしくハダシュの肩を叩き、隣のカウンター席へなだれ込むようにして座った。
一人ではない。黒ずくめの法衣を身につけ、顔を隠した男を連れている。法衣の男は、その装いがハダシュの眼に止まったと気づき、おそろしく青ざめた顔をこわばらせてフードをさらに下げ、うつむいた。
「悪かったな、一人で」
ハダシュは苦笑いした。
「それよかローエン、どうしたんだ坊主なんか連れて」
「お客さんだ」
ローエンはぬけぬけと言った。
「整理屋のとこに連れてくんだよ。どれ、一杯やってくかな」
ローエンは神官に酒をおごってやろうとしたが無碍に断られ、一人で安ビールをあおった。
「ち、相変わらずションベン臭え味」
それから延々と何かくだらない話をし続ける。
ハダシュはそれを辛抱強く聞いた。
こういう猥雑な雰囲気は嫌いではなかったし、それにローエンは、ハダシュがこの街に流れ込んで来たときからの仲間だった。
「……一発ぶんなぐってやらなきゃ分かんねえのさ、そんなガキどもはな」
ハダシュはカウンターの向こう側でうんざりした顔をしているマスターに眼で合図した。羽振りの悪そうな仕草でポケットから錆びかけの小銭をつかみ出し、一個ずつ手のひらでより分け数える。
「ローエン、悪いが時間だ。阿漕なことばっかしてねえで、たまには遊びに来いよ」
「はッ、そりゃあ俺の台詞だ」
思わず身構えてしまいそうなほど毒のある目がハダシュをとらえる。ローエンはしたたかに酔っていた。それもあまり良い酔い方ではなかった。
「気にいらねえんだよ。お前、俺の客やり捨てやがったな! おかげで俺は……どうせ俺は……」
「あらやだローエン、あんた嫉妬してるんでショ。当たり前よ、アタシなら、金払ってでもハダシュに抱かれたいわよ、ねーっ!」
濃い化粧をした出っ歯の娼婦が後から顔を出し、嘲弄まじりに言う。ローエンは歯をむき出してうなり、娼婦の頬を手甲で張り飛ばした。
よろめいた娼婦はローブをたくし上げ骨ばったすねを丸出しにして、いきなりはすっぱな啖呵を切り始めた。
「何よゲス野郎。おんなじ男でもハダシュのほうがずっといいんだから。だれが好きこのんでアンタみたいなのとしてやるもんですか。ハダシュ、金払うからまた抱いてよぅっ」
「なんだと、この……!」
激高したローエンが娼婦の首を絞めようとつかみかかる。隣にいた神官が騒ぎに怯え、逃げ出しかけた。
「おっと、いい加減にしろよ。お前の相手はこっちだろ」
ぐいと神官の手首をつかんで連れ戻す。襟元から、今にもちぎれそうな細いチェーンにつながれた黒いペンダントがこぼれおちた。
あわてて押さえようとした手がフードにひっかかり、逆に払い落としてしまう。短くきっちりと刈られた黒髪があばかれた。
ハダシュは思わずその顔を見下ろした。罪に怯えた暗いまなざしが瞬いた。
漆黒の眼。
神官はあわててフードを深く被り直した。顔をそむける。
「じゃあなローエン。あんまり飲まれんじゃねえぞ」
ハダシュは鼻白んで言うとカウンターを離れた。本当は夜がふけるまでここで時間を潰そうと思っていたのだが仕方がない。
どこか別の場所でひっそり時がくるのを待つ。事はそれからだった。
「おい、待てよ逃げるのか」
しかし今日のローエンはやたらと絡んできた。席を立ったハダシュを執拗に追いかける。
「いちいちうるせえんだよ。てめえこそ最近あれこれ難癖つけて俺を避けやがって」
ハダシュは掴まれた手を苛立たしげに振り払った。
「んなこと言ってねえだろ。もう絡むな。今から仕事なんだよ」
「けっ、おおかたあのマダムにでも呼ばれてるんだろう。お前、あのババアにずいぶん気に入られてたもんな」
ローエンは、ハダシュに熱を帯びた眼差しを突き立てた。
「デブの白豚に尻尾振って楽しいか、このヒモ野郎!」
いつもの陽気なローエンとはまるで別人だった。背中に押し付けられた視線が焼けた鉛のように気持ちを焼きなぶる。
いやな気配に耐えきれず、ハダシュは逃げるように立ち去った。
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柱の中途で頭を踏み固められている奇怪な怪物の彫刻。
一瞬の艶姿を扇情的に切り取ったニンフ像。
窓枠には宝石と装飾に狂気を絡みつかせたくろがねの薔薇。
悪趣味きわまりないゴシックで飾りたてた部屋に、ぽってりと太った中年の女が入ってきた。
手に持った太いろうそくをテーブルの燭台に移し、いったん鏡の前に座る。
中年女は欠伸をしながら、ブラシで貧弱な髪を梳き、カーラーを巻いた。鏡に顔を近づけ、分厚いくちびるにたっぷりと紅をひく。
紙をくわえて巨大な口紅の跡をつけると、それをまじまじと見て壊れた微笑みを浮かべた。
窓の外は月夜。
青ざめた風がさらさらと舞い込んで、レースのカーテンをまるく膨らませた。
ろうそくの火がまたたいた。消えそうなほど大きくなびいている。
女は窓に目をやり、どうしたものかと考えあぐねる様子をみせた。カーテンはあいかわらず不穏なほどに揺れ、映し出された灰色の木陰をゆらゆらとまといつかせている。
ふっとろうそくの明かりが吹き消された。
女は体をこわばらせ、闇を振り返る。
「だれかいるの」
風の波打つ形だけが、月影となって床に映る。耳を澄ましても、葉ずれの他には何も聞こえない。巨大に戯画化された影だけが、不気味に伸び縮みして見えた。
女は舌打ちし、呼び鈴につながる金と白と赤のふさがついた組み紐に手を伸ばした。
「ジゼラ、火をお願い」
すぐに隣の控え部屋から赤いろうそくを携えた小間使いが来る。大理石の彫像にも似た美しい顔容だったが、そのおもてに感傷はない。
女中は消えた燭台に火を移して風よけをたてた。
「今夜もマリオンが来るのよ。化粧するから手伝ってくれない」
媚びの混じった裏声は、他人が聞けば鳥肌の立つような気味悪さだったが、女中は顔色一つ変えなかった。
「分かりました、奥様」
女中はドレスを取りにクローゼットの方へ歩き出した。
「あっちのほうはどう」
聞こえていないのか、黒いエナメルのロングドレスと、赤い羽根のショールを手に戻って来る。
「こちらでいかがでしょう」
「地味すぎるわ」
「ジャグーのダイヤにネックレスをあわせられては」
「ああ、あれならきっとマリオンも気に入ってくれるわね。それで」
「ほぼ順調です、ある点をのぞいては」
女中は慇懃な態度を崩さぬまま用心深く答えた。
「冗談でしょ。この間も同じ事を言っていたわよ。まだ足りないの」
女は女中に助けられてガウンを脱ぎ捨てる。ぶよぶよと何重にも垂れ下がった白い脂肪があらわになった。
「役人どもへの賄賂がかさみまして」
「そう」
女は納得して頷く。酷薄な笑みが口の端を吊り上げた。
「そろそろレグラムにも引退してもらわなくちゃね」
そのとき、扉を軽くノックする音が聞こえた。
「マリオンかしら。聞いていらっしゃい」
女中は、ぴっちりとしたドレスに主人の脂肪をむりやり押し込め、ふわふわと軽いショールを手渡すと、身を翻し、扉を細く開けた。外にいた召使いが二言三言、何かをつぶやく。女中は肯き振り返った。
「マリオンが参りました」
「ああ」
女はうわずった嬌声をあげて頬を手で押さえ、今にも駆け出しそうに足踏みした。女中は宝石箱から金色に輝く大粒ダイヤのネックレスを取り出して、牛のような首にまわし留めた。
「では私はこれで」
頭を下げ、ささやくように言って、控えの部屋へ続く赤いカーペットに沿って後ずさる。ノックの音がした。怪鳥の頭を模した金のドアノブが回った。扉が開く。
「マダム・ジェルドリン、こんばんは」
「いらっしゃい、マリオン」
精一杯の媚態もあらわに、ジェルドリン夫人は現れた赤毛の青年を迎え入れた。
と、ジェルドリン夫人の目の前に、ぱっと真紅の薔薇が花開いた。花びらの先、青々とした葉の脈に、澄みきった甘露があざやかに珠をむすぶ。水上げしたばかりの芳醇な香りが広がった。
「まあ、綺麗。素敵よ」
ジェルドリン夫人は手を打ち合わせた。
「受け取ってくださいますか、マダム」
眼をほそめて赤毛の青年は言った。
「ありがとう。お入んなさいな」
ジェルドリン夫人は花束を受け取りながら、彼の口づけを受けた。
「黒いドレスに赤い薔薇。目も眩む輝きのダイヤ。今夜の装いはあなたにこそ本当によくお似合いです、マダム」
「お世辞はよして。なんだったらこのダイヤ、あなたに差し上げてもよくてよ」
あえぎながらジェルドリン夫人は熊のような腰をくねらせた。じゃらじゃらと身につけたダイヤが鳴る。
「すぐに生けさせるわ。ジゼラ、この薔薇を生けてちょうだい」
赤毛は女中が入ってきても目一つそらさず、ねばっこいジェルドリン夫人のキスを受け続けた。それは飼い主を満足させる態度だった。
ジェルドリン夫人はさっそく赤毛の胸をあばいて、ピアスのはいった乳首に触れた。
「今夜は泊まっていくのでしょ」
「あ……いえ、残念ながら」
わずかに上気したふうをよそおって青年が言う。ジェルドリン夫人は不審そうな眼差しを向けた。
「どうして」
「パーティがあるのです」
「まあ、およしなさい。お金が入り用なら私に言えばよいのに」
「違いますよ」
赤毛は軽くいなす。
「……クスリ?」
「それもありますけど」
「あらやだ、ほどほどにね」
ジェルドリン夫人はいやらしく笑った。麻薬を売りさばいている当の本人がいう言葉ではない。
「じゃあ何」
「マダムに申しあげられるようなことではありませんよ」
ジェルドリン夫人は重ねて問いただした。
「いいの。言ってみて」
「ラウールさんに呼ばれてるんです」
「あなた知ってるの。あのラウールを」
ジェルドリン夫人の眼が急に鋭くなった。赤毛は無邪気にうなずいた。
「ええ。いつもは僕、ラウールさんのお店にいるんです。お顔も存じ上げてますし。でも、もしばれたら恐いんで誰にも言わないで下さいね」
「そう」
ジェルドリン夫人は一瞬考え込む素振りを見せた。だがすぐ官能的に笑みくずれてみせ、青年をベッドへといざなった。
「あとで面白いお話をしましょ。そう、ラウールを知ってるの……今度、私の店にいらっしゃい。最高級の生阿片が入ったのよ。バクラント産の。あなた、好きでしょ」
「マダム、じゃあそのうちに……ぁっ」
ジェルドリン夫人がもたれかかっただけで、赤毛の身体は、黒と金の豪奢な刺繍が下がる天蓋つきのベッドにかるがると押し倒されていた。もうベルトをほどかれている。赤毛は鼻に掛かった媚声をたてた。
だが、そのとき。
「そのうちに、ではなくて、今どうするかを尋ねているのよ”マリオン”君」
冷たく乾いた声。赤毛は鋭く体を起こした。ジェルドリン夫人が血相を変えて頭を上げる。いつの間に忍び寄ったのか、背後に先ほどの女中がいた。
赤毛はジェルドリン夫人を脇へ押しやり、女と真正面から向き合った。ジェルドリン夫人は眼を押しひらき、赤毛のふてぶてしく変わった表情と、女中の冷酷な美しい顔とを交互に見くらべた。
「何、どうなってるの、ジゼラ」
忍び寄ってきた黒髪の女は、そのままの気配で含み笑った。
「奥様、その”マリオン”……ラウールの犬ですよ」
「まさか」
ジェルドリン夫人はヒステリックな悲鳴を上げてよろめいた。
「裏切る気か、ヴェンデッタ」
ぞくりとしながらも、ハダシュは”マリオン”を装っていた表情やしぐさの仮面をはぎとった。今さらしらを切っても意味はない。
「ラウールだけに仕えると言った覚えはないわ」
黒髪のヴェンデッタは肩をすくめる。
「五千スーで手を打ってみない。悪くない話だと思うけど、どうかしら、”ハダシュ”君」
「なるほど、最初からそのつもりだったわけか」
ハダシュは顔の左半分だけに打算的な笑みを浮かべてみせた。
表に出た表情こそ冷めているが、内心はどうやってこの場を逃れるか、その方法を猛然と考えている。
「ここでお前を殺せば千スーの儲け。ラウールを殺せば五千スー。そのかわり死ぬまで追い回されて終わり。簡単だ。こんな取引はできないな」
「一万スーなら」
ヴェンデッタは細長い針のようなナイフを取り出した。掌底に金の円環を縫いつけた黒革の指無し手袋に切っ先を押しあて、ゆっくりとしなわせる。ナイフをあやつるしなやかな指使いにまぎれ、右のくすり指にきらりと黒い石の指輪が光った。
「私と手を組みましょ」
ハダシュは思いつめた眼でヴェンデッタを見返し、無意識に喉の傷をまさぐった。ぞくりとする痛みが走った。
「悪くはないな」
全身から生ぬるい汗が噴き出す。
「マリオン、ぜ、ぜひそうなさい。ジゼラが言うならあなたを信じるわ。ラウールの五倍払う。あなたを殺させたくないの」
ハダシュは焦ってしがみついてきたジェルドリン夫人に押され、はっと我に返った。
息がつまる。
「マダム、それはできない」
ハダシュは顔をゆがめ、ジェルドリン夫人を突き放す。こわばった声にジェルドリン夫人は絶句した。
「何ですって」
赤いビロードに彩られた壁ぞいに、互いになまめかしく絡み合った白亜のニンフ像がいくつも並んでこちらを見つめていた。壁一面に張られた姿見が、恐ろしく緊迫した部屋の空気と共に三人の位置をそのまま映し出す。
灰色の窓、大きくうねるレースのカーテンと悪魔の暗い影、そして暗くてよく見えない白豚のような顔――おそらくはジェルドリン夫人の――すぐ横に、白くきらめく太いナイフの刃が映っていた。
ナイフの柄には、精緻に浮き彫られた赤い蠍の彫刻。
今まで眼にしたこともないハダシュの酷薄な表情に、ジェルドリン夫人は悲鳴を上げ損ね、息をすすり込んだ。その音は首を絞められる寸前の豚にも似ていた。
「嘘……!」
むせかえり、何とか殺意を振りほどこうともがきかけた、その甲斐もなく、獲物を狙う切っ先が闇にするどい弧を描き走った。
鏡に、ざあっと血の飛沫がふりかかった。小さくない呻きがほとばしる。
ジェルドリン夫人は純白のニンフたちを深紅の壁布と同じ色に染めながらなぎ倒し、どうとばかりにくず折れた。
鏡の表面を、幾筋もの血がとろとろと伝い落ちていく。
吹き込んだ風にカーテンが舞い上がり、突然切れた雲の合間から月の光が麗々と射し込めて、殺し屋の半身を鏡に浮かび上がらせた。
「……カネじゃない」
ハダシュはうめき、罪と血に汚れた手を見おろした。震えている。何もかもが深紅に染まっていく、その、耐え難い生ぬるさ。
ふいにヴェンデッタが口を差し挟む。
「話を続けましょうか」
ハダシュはヴェンデッタを凄絶に睨み返した。
「ふざけるな」
「そうかしら」
ヴェンデッタは指を鳴らした。
心臓が、どん、と熱く跳ねた。本能が敵の潜む居場所を告げる。
暗闇に潜んでいた殺意が一気に放たれた。
ハダシュはとっさに転がりざま身をひねり、襲いかかってきた敵の手首をするどく蹴った。刀子がふっ飛び、鏡にあたって甲高く華奢な音を響かせる。
飛び出してきた黒衣の男がよろめき、つんのめった。
顔は覆面で隠れ、見えない。
ハダシュは手で床を強く突き、ばねのように横飛びに飛んで跳ね起きた。その手には既にジェルドリン夫人の血を吸ったナイフが逆手に握られている。
荒々しく息をついて二人を見比べた。
「できるのかしら、貴方に」
ヴェンデッタはしずかに笑った。
恐ろしい微笑みに、なぜか突然、恐怖がこみ上げる。
「うるせえッ!」
爆発した殺意に黒衣の男がひるんだ。
ハダシュは距離をおしはかり、半ば無謀なまでの間隙をついて男の胸元に飛び込んだ。
何のためらいもない、喉笛への斬突。
耳元に風のような悲鳴が鳴った。割れた傷口から血が噴き出し、豪華な絨毯にボタボタこぼれ落ちる。
ちぎれんばかりに見開かれた、相手の眼。
青い、その目に――
最後の瞬間、ハダシュは気も狂わんばかりの確信に捕らわれて、手を止めた。血走った瞳が、ハダシュの良く知っている別の男と重なった。
崩れ落ちてゆこうとする男の胸元をつかみ、乱暴に頭巾をはぎ取る。
膨大な失血で青ざめた男の顔があらわになった。
その顔を見たハダシュは、息を呑み、つかんだ手の力も失って、よろよろと後ずさった。
血が、ひろがっていく。
ナイフが手からこぼれ落ち、鈍い音を響かせて転がった。
「ローエン!」
名前が轟音となって脳裏に響いた。
ローエンは棒のように血の海へ倒れ込んだ。深紅の飛沫が飛び散った。
ハダシュのもらす喘ぎばかりが、荒々しく息づく。
信じがたい思いに打ちのめされながら、ハダシュはヴェンデッタをあおぎ見た。凍えた瞳が見つめかえしてくる。
低くかすれた笑い声が聞こえた。
「ハダシュ、意地を張るのはお止しなさいな」
ハダシュはぞっとすると同時に、違う意味でも身震いした。こんな状況に居合わせていてさえ、ヴェンデッタの声は本能に触れた。
「分かっているはずよ。私なら、ラウールよりずっと、貴方を」
妖しい視線に膝が震えた。動けない。
痛みと血に呼び起こされた昨夜の記憶がまざまざと蘇ってくる。ラウールの道楽にもてあそばれ、ヴェンデッタの麻薬におぼれて、それから。
下半身が鈍くうずいた。
何度も。何度も。
この女を身体が覚えている。
悲鳴を。苦痛を。そして。
ハダシュは怖れ、あとずさった。
「もうすぐ”竜の書”も手に入る。そうすればこの手ですべてを破壊できるわ」
ヴェンデッタは首にかけたペンダントをかるくくわえ、中の何かをあおった。
そっと伸ばされた手が、ハダシュのうなじに回ってゆく。
濃厚な薔薇の香り。野葡萄色の唇があやしく、艶めかしく光った。
身体が、こわばった。
忍び寄ってくる。逆らえない。
しびれるような感触が唇にあたった。口の端をたまらなく甘美な蜜の味が伝った。とろりと伝うそれを、思わず探し、受けとめる。
「私に従いなさい。そうすればもっと……」
両手で頬をゆるゆると撫で回され、首へ、肩へ、だらりと下がった腕へと掌がすべり落ちてゆく。おもわず声が洩れた。呆然と力が抜ける。
「ヴェンデッタ……!」
ハダシュは殴りかかろうとして腰砕けになり、ヴェンデッタの肩につかまった。
襟元のボタンが音を立ててちぎれ、ぱらぱら音をたてて床にちらばった。豊かな胸元が大きくはだけられる。きっちりと詰めていたはずの襟から、肩口の赤黒い古傷があらわになった。
ハダシュは目を奪われ、息を呑んだ。
傷だけではない。それを隠しごまかすかのように、肩から胸にかけて、白い肌一面に漆黒の薔薇の刺青が咲き誇っている。
禍々しく、毒々しく――触れるものすべて、あるいはヴェンデッタ自身をも傷つけずにはおれぬかのような美しさで。
ヴェンデッタはあやしく微笑んだ。わざと刺青を見せつけるかのように、ハダシュを胸元へといざない寄せる。絹のようになめらかでとろりとやわらかく、それでいてどこかビスクのような素肌が、ひんやりと頬に触れた。
「貴方は間違ってる。今の貴方はただの奴隷、あの男に飼われた犬――こんなものに魂を売り渡して」
蛇のようにちろちろと細い舌を吐く声が、病的に熱を帯びた意識の裏にまで伝い入ってきた。
「私のもとへ来て」
けだるく、甘ったるく。濡れて光る唇がささやいた。
「生きる理由をあげる。この世に二つとない、歓喜を」
歓喜。
理性がわずかな拒絶をさけんだ。本当はただ逃げているだけ。ヴェンデッタとの情事やラウールの権勢に依存しているだけだと。
だがそれさえも、青白い肌に罪深く咲き乱れた薔薇の刻印を前にむなしく溶け落ちてゆく。
夢見心地に身をゆだねかけ、吹きかけられる吐息の甘さに一瞬放心した、そのとき。
急に世界に音が戻ってきた。荒々しい足音が廊下をよぎる。ドアが激しく叩かれ、ジェルドリン夫人の名を呼ばわる叫び声が響きわたった。
ハダシュは我に返ってヴェンデッタを突き飛ばした。強いめまいに襲われる。
とっさに身を翻し、血糊がつくのにもかまわずカーテンを引き払う。薔薇の香りが夜空に放たれた。月が恐ろしいほど青白い。
「逃げても無駄よ、ハダシュ。これはゲームなの。私と貴方の」
声に振り向く。ヴェンデッタは冷たいほほえみを浮かべてハダシュを見つめていた。
「覚えておきなさい。我が名は〈黒薔薇〉」
ハダシュは思わず後ずさった。
「――狙った獲物は、逃さない」
凍える微笑み。匂い立つ薔薇の唇。激しい胸騒ぎ。危険すぎるその気配。
「うるせえッ!」
そのすべてから逃れたい一心で、ハダシュは月の輝く空へと身を躍らせた。
迷路のような植え込みを蹴散らし走り抜け、塀をよじ登って、用意しておいた馬に飛び乗る。馬は血の臭いに興奮して竿立ち、いなないて、狂ったように走り出した。喧噪が一気に遠ざかっていく。喉がちぎれそうなほど乾いた。
ハダシュは声ならぬ声で絶叫していた。
素性の定かではない殺し屋。父も母も記憶になく、闇の世界に身を投じる以外、生き延びる術を学べなかった。今いる世界がたとえ血みどろの毎日でも、その日々から逃れて行く先さえない。
生きるため。ほんの一瞬、すべてを忘れるため。ただそれだけの理由だった。そのためだけに、一度味わってしまえば二度と逃れ得ない魔性の快楽に自ら堕ちてしまった。
考えたくなかった。不吉な生業のことも、腐ってしまった自分自身のことも。だがそう名乗り、そのように生きていかなければ。
ハダシュはまた悲鳴を上げる。
ローエンは知っていた。知っていて、知らぬふりをして、ずっと騙して。
餓鬼のころからずっと助け合って生きてきた。相手のことならお互い何もかも分かっていた。ローエンとの友情だけが、ハダシュに残された人間らしい根元的な共感、たったひとつのよりどころとなっていた――
そのはずだったのに。
壊してしまった。自らの手でローエンを、友を、自分自身のこころを、粉微塵に打ち壊してしまった。
ハダシュは疾駆する馬の背で絶望のほぞを噛んだ。身に滲みついた死の臭いを風が吹き飛ばしていった。
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窓も、洒落たあかりもない。じりじりと油臭い煙をくゆらせた真っ赤な蝋燭一本だけが灯っている。
壁の棚には木彫りを施した櫃がいくつかと邪悪な刃物、鞭、道具が転がり、脇のテーブルには飲みかけの酒瓶と中身のこぼれたグラスがあった。
部屋の中央には薄汚い布を積み上げたベッド。
ふいに、突き飛ばされてきた男がベッドに倒れ込んだ。その背中に黒い法衣が投げやられる。鬱金のサッシュが無力に床へと滑り落ちた。
それは数時間前、阿片窟でハダシュとすれ違っていた男だった。
「とんでもない背教者ですな。マイアトールの神官ともあろうお方が」
両手首を背中によじり取られていては、ベッドにうつ伏せ、弱々しく身じろぎするしかない。まとった荒麻の下衣は、神官の受けた暴力の痕跡をまざまざと残して破れ、血をにじませていた。
「驚きました。まさか、貴方ほどのお方が私のもとにおいでになろうとは」
太い声が残酷にせせら笑う。銀の指輪をはめた手が、無理やりねじ向けた神官の顎を形が変わるほど乱暴に鷲掴んだ。
神官は男と真正面から向き合い、その顔形を認めて驚きの声を上げた。
痩せた背中に肩胛骨のかたちが陰惨な影を浮かび上がらせていく。顔をつかまれ、動けなくなって、神官は悲痛に呻いた。
「謀ったな」
「口がすぎますぞ神官どの」
恐ろしい声とともにぴしゃりと鳴る平手打ちを頬に見舞われ、神官は絶句した。銀の指輪をはめた男はことさらに侮蔑の声を投げつける。
「貴方がローエンにご自身を売り、そして私が貴方を買ったのです。今さら逃げることは許しません」
「このような真似をして私が屈するとでもお思いか」
神官はかたくなに言い張った。男は目を酷薄にほそめ、肩を揺らして含み笑った。
「そんなこと言えたお立場ではないでしょう。もう遅いのです。あの金をどうなさるおつもりですか。貴方が手を着けた、あの金。どうやって穴埋めしようというのです。ご自分がなさったことを胸に手をお当てになって思い出されませ」
「それは」
神官の声がわずかにうわずる。首にかけたペンタグラムがベッドに転がり落ちた。
「ご心配なさいますな」
男は懐に手を入れ、勿体を付けた仕草で銀の鍵束を取り出した。じゃらりと鎖が鳴る。冷たい笑いが眼の裏奥をかすめた。
「そこにある櫃の鍵です。この鍵を差し上げましょう。足りなければもっと」
ひたひたと頬に押し当てる。神官は蒼白な顔をなおいっそう背けて、弱々しく強がった。
「断る。あなたの施しだけは受けぬ」
「ほう」
男は櫃を開け、中の装飾品をざらりとすくいあげると、わざと指の隙間からこぼれ落ちるがままにしてそれを見せつけた。貴石の粒が跳ねて転がり、床にみだれ散る。透き通った音が雨だれのように続いた。
「気位だけは高くあらせられる。さすがは元――といったところですか。はてさて、総督閣下には何をどのようにお伝えしたものか」
男はわざとらしい思案のため息をついて見せた。神官はそれを聞いてぞくりと身をすくませた。目が恐怖と惑乱に見開かれる。わななく視線が男に向けられた。
「何のことだ」
男は残忍な確証を得たのか、にやりと一歩進み出た。
「いけませんな、聖職者ともあろうお方が後ろ暗い過去をお持ちとは」
「後ろ暗いことなど何もない。勘ぐるのは止してもらおう」
「いいのですよ。人間とはそういうもの。何もかも存じ上げておりますよ、神官どの。例えば」
男は声をひくめ、手を扇のかたちに添えてひそひそと耳打ちした。
それを聞いた神官の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「でもそれを責めたりはいたしません。あなたはこの街に必要なお方。あなたがいなければ聖堂に集まる貧しいものたちはどうなります。あなたを慕ってやってくる子供たちは。そうでしょう。そうお思いになりませんか。なればこそ」
心の裏側に忍び込むような声だった。
「眼を瞑るのです」
神官はぎごちなく顔をゆがめたが、その声はすでに抵抗を無くし、力なくよどんでいた。
「何がいいたい」
男は棚にあったナイフを取り、やや不器用な手つきで神官の手の縛めを解き放った。神官はねじられた腕が戻る痛みにうめき、ベッドにつんのめった。
「眼をつむるのです。たとえ何が起ころうとも。そうすれば、今後ともずっと慈善事業を続けていられましょう。今までと同様に、何ごともなかったかのように」
吸い込まれるような酷薄さが男の声に混じった。
「カスマドーレどの」
神官はふいに身体を大きくふるわせた。
「それはできない」
「神官殿。申し上げたはずです。もう遅い、と」
口調が嘲弄の熱を帯びた。
「あきらめなさいませ。貴方はもう、罪を知ってしまわれた」
神官は男の宣告に凍りついた。絶望にうちひしがれ、弱々しく首を振る。
男はその様子に慇懃な薄笑いをつくってみせた。
「色好い返事をお待ちしておりますよ、神官殿。それでは」
いつ立ち去ったものか、気が付けば薄暗い部屋に神官はひとり取り残されていた。
ぎごちなく掌をみつめ、うめいて。
ふいに顔を覆う。
「神よ」
罪深い手の中で自身を追いつめ、他にすがるべき言葉も無くうつむく。
「……私は、ああ」
神官は身体をよじらせ、ベッドを拳で叩いて声にならない叫びをあげた。くしゃくしゃになった黒い法衣をつかみ、顔をうずめ、肩を震わせる。
他にぶつけようもない自分への怒り、絶望、むなしさ、悔しさ――それら負の感情が、やがてしたたり落ちる涙となり、黒ずんだ憎しみとなって、僧衣の胸にひろがっていった。
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隠れ家に逃げ戻ったハダシュは茫然とベッドに倒れ込んだ。汗臭い汚れた毛布に顔をうずめ、ベッドを殴りつける。ローエンの血走った眼がぐるぐると脳裏をめぐり、執拗に消えなかった。
何故。いったいなぜだ。なぜ、こんなことに。
涙が唐突にこみ上げては荒んだ殺し屋の眼から流れた。悔しいのかもしれなかった。悲しいのかもしれなかった。とにかく、ハダシュは自分を責め、自分の生業を責め、ローエンの名を呼んで嗚咽し続けた。
――我が名は、〈黒薔薇〉。
冷たい響きがよみがえる。
ハダシュは枯れた涙を最後にひとつすすり込んで、感情の波をぶつりと断ち切った。濡れた頬を肩口でぐいとぬぐう。
泣いている場合ではない。
生き延びたかったら言う通りにしろ。
理由など聞くな。
ハダシュはうつろな目をあげて周囲を見まわした。長年浴びせられ続けてきた罵声が、脊髄に刷り込まれた条件反射となって、感情と思考をともに停止させてゆく。
考えなければいい。意識がのろのろと滞る。感情をそぎ、自我を殺し、目を閉じてゆっくりと浅い呼吸を繰り返す。
ようやく体のふるえが収まりかけたと思った――そのとき。
廊下の腐り板を踏み抜く甲高い音がした。張り巡らせた鳴子の仕掛けが狂ったようにぶつかり合う。足音が乱れ、どっと近づいた。
襲撃……!
鳩尾に熱い衝撃が走った。
窓を破って板張りのベランダへ飛び出す。眼下には無秩序に建て増しされた赤煉瓦の屋根ばかり。路地の向かいにある隣のベランダまでは一またぎの距離だ。
ハダシュは手すりを蹴って飛んだ。だが着地した露台の床は半分腐りかけて脆くなっていた。体重と衝撃を支えきれない。
床が割れた。体が半分突き抜ける。必死で足がかりを探す。だが宙に浮いたも同然の状態だった。
露台の床に手を突っ張って体を引き抜こうとしたとき、さらに床が砕けた。木っ端のくずがばらばらに飛び散る。
「くそっ!」
ずり落ちそうになるのをどうにかしがみついて止め、頭上の手すりをつかみ、一気に体を引きずりあげる。裂けた木がふくらはぎに引っかかった。
皮膚が柘榴のように裂けた。
帯状の血が噴き返る。
振り返ったときにはもう、黒ずくめの刺客が身を乗り出して迫っていた。鈍色の殺意がらんらんと光っている。
とっさに折れた木っ端を刀子に見立てて投げ込む。尖った先端が刺客の左目に突き立った。
刺客は顔をまだらに染め、獣めいた悲鳴をあげてのけぞった。
その隙にハダシュは部屋の中へと転がり込む。
「だっ、だれ、アンタ!」
鞭を持った商売女が目を吊り上げてわめいた。足下に汗まみれの中年男がうずくまっている。緊縛された男の尻には火のついた悪魔の形の蝋燭。じりじり燃えている。
「逃がすな」
叫び声が聞こえた。ハダシュは苦悶の脂汗をふりはらい、部屋を駆け抜けた。反対側の窓を引き開け、一気にバルコニーから身を投げる。
着地の瞬間、傷が引きちぎれそうに痛んだ。つんのめって倒れそうになる。
そこへ酔客がよろめきつつぶつかってきた。何やらロレツの回らない悪態をついてハダシュの行く手を阻み、突き飛ばす。
身体が独楽のように回った。
恐怖が喉元までこみ上げる。
ハダシュは奥歯をきしらせ、どす黒い路地を転がるように走り出した。今に追いつかれ取り押さえられやしないかと、背筋が悲鳴を上げて軋りつづけていた。
それからどこをどう逃げ回っただろう。
アルマナス通りからマリド広場へ、そして過去の遺産である薄汚れた城壁の抜け道を突っ切りヒュッチ区の裏路地へ入り込んで、それから。
だんだん動きが緩慢になり、息が切れてくる。
刺客の気配も感じられないのに、何度も何度も振り返って、頭が混乱して、なぜ逃げなければならないのかも分からなくなり――
今ではもう、自分がどこにいるのか見当もつかない。ハダシュは喉をぜいぜい鳴らしながら、それでも獣のように足を引きずり、歩き続けていた。とにかく、ここではないどこか見つからないところを探して……。
とうとう動けなくなって、路地のごみために座り込む。
血が帯のように流れて、足下に黒い血だまりを作った。
すえた臭いが鼻をつく。地面がぬるぬると滑った。
とりあえずシャツを破いて止血帯を作り、落ちていた食いさしの骨で帯を強くひねりあげ傷口を絞る。全身にしびれ渡る痛みが走った。
――このまま、こうやって身を隠していれば見つからないだろう。朝になれば、きっと奴等もあきらめる。あきらめてくれたら――
ぐらぐらする頭が物音にびくりと反応する。本能が最後の警鐘を鳴らした。
背筋に走る、痛いぐらい定かな気配。路地の入り口に黒い影がさした。
「いたわ。そこよ」
あの女の声。
心惑わせる瞳が鮮烈に記憶をよぎった。意識を射抜くヴェンデッタの姿が、黒ずくめの刺客の背後にかき消えた。
もがき立ち上がり、泥と残飯まみれになりながら路地をまろび出る。
月が明るい。
一瞬、これで助かるかもしれない、という幻想が脳裏をめぐる。
だがハダシュが転がり出てくる様子に怯えたのか、広場にたむろっていた何人かの街娼、酔っぱらいたちは、おどおどして姿を隠した。そのまま、誰の助けも求めることができず、むなしく膝をつき、倒れ込む。
動けなかった。
自分の吐く荒い呼吸音だけがいつまでも続く。肌寒い恐怖が肺を締め上げた。
そのとき、石畳を蹴る軽い足音が聞こえた。
ハダシュは最後の絶望的なあがきをもって、跳ね起きた。
武器もなく、手傷を負い、疲れはててどうすることもできなかったが、せめてもの一撃は食らわしてやるつもりだった。
「大丈夫、うわっ、ひどい怪我じゃないか」
緊張感のまるでない声に、振り上げた拳が力無く沈み込む。
ハダシュは、全身の力がどっと抜けるのを感じた。
夜風に吹き消されかけの灯火を手にかばい持って現れたのは、黄土色の地布に濃いめの水色の折り返しをつけた膝までの上掛けをきっちりと腰で結びあわせ、その下に黒のスパッツをはき、明るい朱茶色の長靴を重ね履きした、いかにも悪気なさそうな面差しの少年だった。
少年にしては思いがけず優しげな声色だとは思うものの、今はそれどころではない。相手は燈火に浮かび上がったハダシュの姿に眼を押し開いた。
「畜生ッ」
我に返ったハダシュは歯ぎしりしてうめいた。こんなひょろながい小僧一匹に背後を取られ、なおかつ太刀打ちできないとは。
歯がみする思いで口汚くののしる。
「そばに寄るんじゃねえ、この立ちんぼ。てめえみてえな淫売にかくまわれるほど落ちぶれちゃいねえや。消え失せろ」
しかし、近づく絶望の足音がハダシュの悪口雑言を呑み込ませた。
腹の奥が氷のように冷たくなる。少年は周囲の変調にまったく気づかないまま、いきなり袖をまくり上げて唇をへの字に結び、ハダシュの頭上でたんかを切り始めた。
「おい、何だって、僕のどこがそんなふうに見えるっていうんだ。どこから見たって上品な……」
黒衣の女が路地から歩み出てくる。
石畳に落ちる月影。ざらつく砂にも似た、ひそやかな殺意。
暗闇に塗り込められた静寂の中、うつくしいおもてにひそむ冷笑だけが、壮麗な月に照らされうかびあがっている。背後に控える刺客の気配がぎりぎりと伝わった。一人や二人ではない。
「逃げろ、クソガキ」
ハダシュは精いっぱいの声で呻いた。
「〈黒薔薇〉だ」
少年は顔を上げ、振り返って、近づいてくる刺客を見た。驚きの息を大きく吸い込む。
ヴェンデッタは肩をそびやかせ、うっすらとひそみ笑った。
「逃げ足だけは見上げたものね。さすがはラウールの飼い犬。でも――逃げ切れるのかしら」
声が闇に沈んでいく。ヴェンデッタはすっと身を引いた。
代わりに、刺客どもが足をにじらせながらせめぎ寄ってきた。
「どけッ」
ハダシュは、迫り来る刺客どもの数を眼の隅で数えながら、少年の袖をつかんで後ろにたぐり寄せた。その勢いで地を蹴り、前に飛び出す。
右、左とくり出されるナイフを避け、身体をぐいとひねって手首を捕らえた。逆肘に膝を叩き込む。
へし折れる骨の感触。
絶叫が耳を突き抜けた。
だが踏み込みが深すぎたせいか、足の傷が割れた。支えきれず、がくりとつんのめって膝を落とす。途端、思いもかけない方向から拳骨が叩き込まれた。
衝撃で意識が吹っ飛んだ。広場中央に立つ妖艶なヌルヴァーナ像の台座に頭から激突、頭から崩れ落ちる。
「死ねや、ガキ」
真正面の男が、狂気の嗤いを放って棍棒を振り上げた。
必死に闘争心を奮い立たせる。月がまばゆいはずの頭上に黒々と、死をつかさどる美しき死神ヌルヴァーナの像が、その禍々しい青銅の翼を大きく打ち広げて覆い被さってくるのが見えた。意識が凍え入る。
反射的に息をすすり、足を蹴り出した。足をすくわれて敵はつんのめる。
振り落とされた棍棒はあやういところでハダシュをかすめ、台座の根本に当たって跳ね返った。衝撃で男の手から飛び、点々と転がる。
やらなければ殺される。
ハダシュは恐怖にかられた悲鳴を上げ、石畳に点々とする棍棒を奪い取りざまに敵の頸椎めがけ叩きつけた。ぐしゃりと頭の形が潰れる。何か恐ろしく熱いものがべたべたと周囲に飛び散った。
ハダシュはよろめいた。先端の砕けた棍棒をとりおとす。
手が、べっとりと黒く濡れている。体がぶるぶると震え、どうしようもなく凍えていた。
激しい呼吸音だけが夜に吸い込まれていく。
生き残った刺客がふたたびハダシュを取り囲む。おもしろそうに笑う声が聞こえた。
「あら」
ヴェンデッタの怖いほど穏やかな眼差しが、ふと、ハダシュの背後へと向けられた。
つられて振り向いたハダシュは思わず目を疑った。さっきの少年がまだいるではないか。
「死にたいのか」
どなりつける。だが少年は硬直したまま動かない。台座にしがみつき、目の前で繰り広げられる凄惨殺し合いを凝視しつづけている。青くなったくちびるが、恐怖のせいか、わなわなと震えていた。
「さて、どうしたものかしら」
黒衣のヴェンデッタは困ったように笑って小首を傾げ、肩越しに伺う視線をやった。黒い手袋をはめた手がひるがえる。
闇に潜んでいた別の気配が、いらだたしげに命じた。
「構わない。殺れ」
残酷な命令に、記憶の底にあったローエンの青い目と、そこにいる少年の青い目とが重なって胸に突き刺さった。
自分でも、なぜそういう気持ちになったのかよく分からなかった。
「何やってるんだ、早く逃げろ」
追い立てられるかのように駆け戻って少年を突き飛ばす。
「きゃっ!」
少年はハダシュの行動に意表を突かれ、甲高い悲鳴を上げて胸を押さえ、倒れ込んだ。
手にしていたカンテラが石畳に飛び、甲高いブリキの音をたてて跳ね転がる。
まき散らされた油が一瞬にして燃え広がった。熱気に闇が引き縮んでゆく。
「な、何が……」
意外な悲鳴にハダシュは気を取られ、呆然とした。
その瞬間、恐ろしく重たいものが後頭部に振り落とされた。ハダシュの体が再度、石畳に跳ね返る。
口の中が苦い血の味であふれた。痛みすら鈍くにしか感じられない。
ハダシュはもがこうとして、びくっと痙攣した。
頬にあたる石畳のざらついた感触に、鉄錆の生ぬるさがまじっていく。
動けない。
「殺すんじゃない」
ため息のような声が切れ切れに伝わる。ハダシュは倒れたまま、うつろに死を思った。足でこづかれ、乱暴に仰向かされる。無意識の呻きがもれた。
のぞき込んできた白い顔が、すぐ横で燃えさかる火の陰影をうけて、残酷なほど笑っているのが見えた。
「ハダシュ、聞こえてる。目を開けなさい。この程度でくたばる男じゃないはずよ、貴方は」
冷たい感触がひたひたと頬をはたく。赤く光るナイフが鋭い光の棘を振り散らした。
「ほら、目を覚まして」
突き刺す痛みが走った。冷たく乾いたナイフの切っ先が、頬にうっすらと浅く血の線を切り裂いてゆく。にじみ出た血の珠が涙のように頬を転がりおちた。
「……どうして、俺を」
身体がふるえる。絶望的だ。
「もっと楽しませてよ」
力なくひらいたままのくちびるを指先でもてあそばれる。
ぐらりと意識が遠ざかった。ヴェンデッタの声ばかりがまざまざと近づいてくる。
「もっと激しく。刻みつけてあげる、心にも、身体にも」
あやしく、優しく、恐ろしい吐息が耳に忍び込んだ。ほつれた髪が柔らかくなだれかかる。
「癒えることのない傷を」
ひりひりと灼けつく頬の傷に、くちびるを押しあてられる。
「…ぁ……あ」
ヌルヴァーナ像の落とす死の影に押し包まれ、ハダシュは喘いだ。かすんだ目を押し開き、必死で月の光彩を探そうとする。
しかしどこにもない。真っ暗闇だった。
「どうしたの。見せなさい、あの目を。血の色の輝きを」
毒々しい声に揺すぶられ、咳き込む。
「眼を開けなさい。そして私を見るのよ。さもないとゲームはここで終わり。貴方は死に、私は――」
恫喝にも似た低いささやきが、ハダシュを圧していく。
だが、何も見えない。身体も動かない。
よわよわしく呻く。
だめだ、何も、聞こえな――
「何事か。神妙にいたせ」
突如、あらあらしい誰何の叫びが響き渡った。
闇に流れる松明をかかげ、警邏の騎兵が駆けすがってくる。ヴェンデッタは低く舌打ちして気を失ったハダシュから飛び離れた。
「そこな者共、騒擾の罪につき神妙に縛につくことを命ず!」
騎兵は松明を投げ捨て抜刀するなり、馬ごと突っ込んできた。すさまじい馬塵に刺客一団はそれぞれがとんぼを切ってすばやく散開し、闇へと逃れる。ヴェンデッタも騎兵を睨み据えながら一瞬じりっとあとずさり、身を翻した。
騎兵はあえて追いすがろうとはせず、荒ぶる馬をなだめながら、手綱を引き、傷ついたハダシュの横で馬首を返した。馬蹄の軽快な音が鳴る。
台座の後ろに倒れていた少年がこめかみを押さえながら頭を振り、朦朧と起きあがった。
巨躯の騎兵は地響きを立てて地面へと降り立った。ヌルヴァーナ像の台座よりも頭が飛び抜けてみえる。騎兵は怒りと焦燥をにじませた険しい顔で少年に駆け寄るなり手を差し伸べ、引き起こした。
「いい加減になさってください、閣下。やんごとなき侯姫の身でありながら、なぜこのような危険な真似をされるのです」
「僕のことはいい」
少年、いや、騎兵の言葉を借りれば男装の少女ということになるのか――は、よろめきながらハダシュの側に膝をついた。
「彼が庇ってくれた。でもひどい怪我なんだ」
「この街は平穏な我らの都、ハージュではないと何度申し上げればお判り頂けるのか」
騎兵はがみがみと叱りつつ、それでも手袋を脱ぎ、息を確かめるためにハダシュの鼻先へ掌をかざした。
「気を失っておるだけのようです」
「ああ」
少女は気がゆるんだのか力なく笑った。
「ごめん。金輪際しない。よく分かった。まさか、こんなことが本当にあるなんて」
「まったくなんという有様か。このような淫魔の像を平気で」
騎兵は、濡れる月光のもと、翼を邪悪に広げ、豊満な乳房を剥き出しに哀れな獲物へと食らいつくヌルヴァーナ像を見上げ、急いで目をそらした。
その台座下で息絶えている刺客のことを思いだし、かがみこんで手早く調べる。だが着衣や所持品に手がかりは何もない。
騎兵はむっつりとして、血の臭いから顔をそむけた。
「自警団に連絡せねばなりません。それと、この男は……」
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