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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 狼と神官と銀のカギ 2 巡察使
 クーイーを評するに、『欲望の街』、『二つの顔』という言葉がある。
 危険きわまりない船旅で鬱憤をため込んだ船員たちが、歓楽街で常軌を逸したらんちき騒ぎを起こしてまわる一方、瀟洒かつ機能的な各領の商館が整然と立ち並ぶ港界隈は、治安のひとつも乱れる様子がない。
 ――むろん、その裏には至極まっとうな理由がある。誰も指摘しないだけのことだ。

 さて、それらの中で有力とされるギルドは、銀を商うギルドである。
 銀ギルドの商人は、クーイーに集中した大陸産物資を、海を隔てた隣国バクラントに産する銀と交易する。今ではその銀が王国の貨幣経済を支えていると言っても過言ではない。
 それゆえクーイーはルイネード侯領にありながら国王より直々に任命される総督および議会を中心とした自治体制を布くことにより、シャノア王国の直轄的支配下におかれているのである。
 現在、クーイー総督の任にあるのはレグラムという官僚だった。

 そのレグラムのもとに、今、二組の客が訪れている。
 一方は招かれざる客だった。

 開けはなった窓からは、太陽の光を反射して金鱗のようにかがやく紺碧の海が見下ろせる。さらに遠くへ目をやると、さまざまな地方独特の模様に染め分けられた帆をたたみ停泊する優美なガレオン帆船や、近海沿岸をたどってやってくる底の広い貨物船などが数十隻、沖に碇を降ろして入港を待っているようすが見てとれた。

「で、本日はどういった御用向きで」
 突然の訪問に、レグラムはせわしない仕草で汗を拭き、すでに空となった鬱金のゴブレットを再度口に運んだ。

 王国巡察使。
 自治区の内情を調査する任務を帯び、時には強権を持って不正を弾劾する国王直属の調査官とその部下。ある種の人間にとっては疎ましい部類に入る職名だ。

「〈黒薔薇〉が表立って活動していると分かっていて、なぜ何の対処もなされていないのか、それをお聞きしたいのです」
 シャノア王国巡察使ラトゥース・ド・クレヴォーは、青くきらめく瞳でレグラムを見つめた。おっとりと品の良い顔立ちであるにも関わらず、その雰囲気はどこか凛として、秘めた鋭さを感じさせる。
 レグラムは目をそらし、卓上の呼び鈴を振った。
 現れたメイドに冷たいはちみつ果水をなぜもっと早く持って来ないのかと八つ当たりし、うろたえる背中にとげとげしく追い打ちをかけて追い払い、さらにまた汗を拭く。

 一方、レグラムの隣には、本来の客である男が座っていた。
 胸元に金ラメを散らした薄絹の襟巻きをいれ、たっぷりした緑のガウンを着て、傲岸な姿勢で手を腹に乗せ、長椅子にもたれている――銀ギルド長カスマドーレだ。
 太い指に、おどろくほど大きな銀の指輪がはめられている。
 
「〈黒薔薇〉と言われましてもね。実際は何の後ろ盾もないような連中が、何かそれらしき組織の名をかたりさえすれば脛に傷持つ者どうし恫喝できるということがまかり通ってまして。そういった連中の要求額と言えば、遊ぶ金ほしさのゆすりたかりのようなもので、すぐ見分けがつくと言えばつくわけで、さような訳ですから治安が悪いと言ってもさほど最悪というわけではなく、別段改めて書類に起こすとかご報告申し上げるなどしてお手を患わせるまでもなかろうというのが、われら議会と自警団共通の認識であり議決なのです」

 銀ギルドの長は、レグラムの狼狽ぶりとかけ離れた逃げ口上をのらりくらりと述べ立てた。なるほど、顔は笑っているが眼の奥底はまるで違う。ラトゥースはいかにもな表情で何度もうなずいてみせた。
「なるほど分かりました。そういうことならば特に調べる必要もなさそうですね」
 レグラムの顔が思わず安堵にゆるむ。ラトゥースはすかさず続けた。
「ではもう一件。クーイーから奴隷が輸出され、代わりに何処かより密輸入された麻薬が蔓延しつつある、と聞いております。とくにここクーイーを中心として」
 ラトゥースは短く言葉を切って、相手がどう反応してくるかを観察した。レグラムは苦虫をかみつぶしたような顔で押し黙ってしまった。
「見るに耐えぬ有様との噂。というのも、本来ならば水際で摘発すべき側にある役人の大多数が、奴隷商人、麻薬商人から賄賂を得て黙認しているとかいないとか」
「断じてそのようなことはない。失敬な」
 突然レグラムは激昂して立ち上がった。ラトゥースを威圧するかのようにテーブルを叩き、怒鳴りつける。
 はずみで空のゴブレットが倒れた。底に残る薄黄色の果水がこぼれ、コースターに染みてゆく。ラトゥースはこぶしを振り上げるレグラムを含みのある目線で見上げた。
 涼しげに笑ってみせる。それでいて何も言わない。

「総督、落ち着きなさい」
 ラトゥースの口元が皮肉に微笑んだのを見たのか、銀ギルド長は憮然とした口調でレグラムをいさめた。レグラムはぶつぶつと文句を言って腰を下ろした。
「まったく、失礼な」
 実際のところラトゥースにとっては、その程度の暴言など日常茶飯事にすぎなかった。若すぎる年齢と優しげな外見は、特にこういった任務を遂行するにあたって足元を見られやすい。だがそれゆえ相手が油断し、つい本性を覗かせてしまうことも多くなる――この官僚のように。

「基本的に、クーイーにはくずのような人間が多すぎるということです」
 カスマドーレは組んだ指から人差し指だけをほどき、かすかにいらいらと突き合わせた。幅広の指輪が陰鬱な銀の色に光っている。

「働きもせず、酒を飲み騒ぎ治安を乱しては暗闇にはばかる連中がおります。我々の眼が行き届かぬ裏路地、城壁の中、排水溝はドブ鼠の巣となる一方。足がつかぬのを良いことに、そういう輩をわざわざ好んで悪事に飼い使う者もおるとまで聞き及びます。それががもし寄り集まり騒ぎ出せば何をしでかすか分からないというのに、どういう了見か、『困っている人を見捨てないでほしい、クズどもに仕事をまわせば治安が良くなる、議会も救民に協力せよ』だなどとつまらぬ不平ばかりを言ってくる愚か者もまたいるのです。ご存じのように当市には『救民法』が存在します。健康でありながら仕事をせぬ者に公共の仕事を与える法律です。これ以上の恩恵はないでしょう。もし〈黒薔薇〉とかいう組織が存在し、クーイーで奴隷狩りを行っているとしても、考えようによっては『救民法』でさえ救えない犯罪者を一掃するに等しく、我々善良なる市民としてはつまり」

「つまり奴隷売買は公然とした事実であり、しかも誰一人としてそれをとがめようとしない――あるいはできない――とお認めになるのですね」

 ラトゥースはカスマドーレの言葉尻を捕らえた。そのくせレグラムだけを見つめて言う。
 レグラムは鼻髭をいじりながらぼそぼそ尻すぼみに答えた。
「とにかく被害の訴えがありませんので、我々としてはどうにも」

「分かりました。了解です」
 ラトゥースは天真爛漫な微笑みをうかべ、横に置いた青い天鵞絨の帽子を取り上げて立ち上がった。
 礼をする際に手が当たったか、腰に佩いた剣の飾り紐がちりりと揺れる。艶消しの鞘は古ぼけてみえたが、まぎれもなく手の込んだ鞘工のこしらえだった。

「では失礼。貴重な執務時間を割いていただき有り難うございました。シェイル、行こう」
 ラトゥースは後ろに控えた巨漢の騎士をうながし、立ち去った。
 表に待たせていた二頭立て馬車に乗り込む。
「お待たせ。出して」
「へいよう」
 ねずみ色の外套を着込んだ御者が馬に鞭を入れる。馬車はごとごとと走り出した。

 長年にわたり増改築を重ねたせいだろうか、いつの時代の何様式かも分からなくなったかつての海城、クーイー総督府を後にする。
 城から市街地へ抜ける馬車道は狭く、入り組んで、たいそう進みづらかった。古い石造りの城壁と海水を引き込んだ壕とが、さながら迷路のように行く手を阻む。運河を挟んですぐ目の前に跳ね橋が見えているのに、いつまでたってもたどり着けない。
 橋を一本渡り間違うと、もうどこをどう走っているのか、さっぱり分からなくなるのだった。

 通算五度めの迷子になったあと、御者はよれよれしたコートをはためかせ、すまなそうに首をねじって振り向いた。
「すんませんお嬢さん、また間違うてしまいました」
「すまないね、ベイツ。今度来るときは地図を用意しておくよ」
 さすがに申し訳なく思って、ラトゥースは御者に慰めの声を掛けた。
「ベイツ、その呼び方は止せ」
 シェイルが苦々しく戒める。ラトゥースは笑ってシェイルをなだめた。

「気にしすぎだよシェイルは。どうせ同じ事だ」
 自嘲気味な言い回しでラトゥースは肩をすくめる。

「それにしても、あのギルド長、何て言ったっけ、カスマドーレか。信じられないな。こともあろうにこの僕に面と向かって、あることないことよくもまあぬけぬけと」
「さようでございますな」
 シェイルはたくましい腕を組み、憮然とした顔で同調した。
「治安が悪いのは、市政を預かるものに良くしようという気がないからだろ」
 ラトゥースは朱茶色の明るい長靴で、向かい側の腰掛け下部を蹴飛ばした。気のない音がした。

「いくら表向きの肩書きが銀ギルド長だからって、あの調子じゃ裏で何やっててもおかしくない。というか、もしシロなら、僕には人を見る眼がないってことだ。濡れ衣を着せ歩く前に職を辞させていただいて、適当に婿探しでもやってたほうがましだよ。『マアなんて素敵な王子様でしょう!』とか何とか言ってさ」
「おたわむれを」
 シェイルは相変わらずの仏頂面で受け流す。
「調べますか」
「そうだね、少なくとも銀ギルド長御自らレグラムを訪ねる理由ぐらいは」

 その口調はむしろうきうきと楽しそうだった。青い眼が勢い込んで輝いている。
「いくら相手が総督とはいえ、たかが賄賂の受け渡しにギルド長みずから出向くわけがないよ。何か他の用事があったんだろ。もっと重大な何かが」

 車窓の景色が軽快に流れ出す。
 馬車はどうにか跳ね橋を抜け、クーイーの港に近い倉庫街を走っていた。山と積まれた麻袋を積んだ荷車を引くロバや、自分の身長よりも高い荷物を平気で担いで歩く荷役夫などが次々に行き過ぎ、または馬車道を平気でのろのろ横切ってゆく。

 ラトゥースは何気なく続けた。
「どうせ〈黒薔薇〉の連中が動いてるの分かってて、見て見ぬ振りしてるに違いないよ」
「袖の下をつかまされているのでしょう」
「まったく。こっちはそれどころじゃないってのに」
 ラトゥースは大げさにため息をつくと、ぼんやりと首を傾けて、遠い東の空を見つめた。

「〈黒薔薇〉が陛下のお命を狙うよう画策していることは間違いない。それだけはどうしても阻止しなければ」

 半分開けた窓から差し込む陽が、馬車が揺れるたび、定期的に行き過ぎる影となって、ラトゥースの表情を明から暗へ移ろわせてゆく。
「そのためだったら、どんな手を使うことも厭わない。たとえこの身を投げ出すことになろうとも、ね」
「閣下、それは」
 太い眉をつりあげて反論しかけたシェイルに気付いて、ラトゥースはふっと表情を和らげた。
「ごめん、シェイル。君にはいつも心配を掛けて申し訳ないと思ってる。でも、本当のところ、〈黒薔薇〉以外は問題ですらないんだ」

 つばの広い天鵞絨の帽子をとり、くしゃくしゃと端を丸めながら、飾りの白い羽根とビーズを指先でいじる。ほんのり淡い光をはなつ金色の巻き髪が、襟足から柔らかくこぼれてはねた。
「昨日の赤毛も、もしかしたら奴らの仲間かもしれない。だとしたら逆に……」
 どこか上の空でつぶやくラトゥースの眼が、ふと街のある一角で止まった。

 倉庫街の入り組んだ路地の合間から、見慣れた形のしるしを戴いた尖塔が一瞬のぞく。ラトゥースは眼を輝かせるなり、がたがたする窓をいっぱいに引き開け、上半身を乗り出した。
 まばゆい南国の風が、髪をさあっと吹き散らかす。

「あっち、ほらベイツ、見て」
 ほがらかにラトゥースは叫んだ。帽子をつかんだ右手を大きく振りまわす。
 後方へと流れていく視線が、幾台かの馬車越しに併走する地味めな服装の騎兵を捕らえた。

 御者台のベイツが仰天した顔で振り返った。
「うわっお嬢さん何っ、危ないって」
「ベイツ、戻って。塔が見えた。マイアトール神の聖堂だ」
 叫んだとたん、石畳の隙間に落ち込んだのか馬車は壮絶に跳ね上がる。ラトゥースは潰れたカエルもどきの声をあげて天井に頭をぶつけ、あわててつり革にしがみついた。
「やっぱりね。思った通りだ」
「は?」
「いやいやこっちのこと。それよりまわれ右。マイアトール聖堂に行って」
 言いながら頭を引っ込める。ラトゥースは上気した微笑みを浮かべ、シェイルを見つめた。
「思いきり後をつけられてる」
「レグラムでしょうな」
 シェイルは面白くもなさそうに答えた。そう言いつつ、手はとうに剣の柄頭に置かれてある。鋼片をつづった黒い籠手がかすかにはやった音を立てた。
「無理はなさらない方が」
「うん。でも表の地位をふいにする危険を冒してまで、僕を排除する勇気はないんじゃないかな。胡散臭い部分を嗅ぎ回るのではないかと危惧している。だから後をつけ回す。それだけのことだと思うけど」
 シェイルはやや遠い眼をした。好ましくもない記憶を呼び起こされたような顔だった。
「確かに奴は昔からこざかしい卑怯者でしたが」
「知ってるの」
 ラトゥースが尋ね返すと、シェイルの男らしい顔に露骨な皺が刻まれた。
「あの男、かつてはクレヴォー家の禄を食む身でした。端役でしたが」
「何だって」
 ラトゥースは声をかたくした。
「じゃ、僕を知っててもおかしくないはずだよ」
「十年も前の話ですからな。過ぎた出来事だと思わせるには十分すぎる年月です」
 シェイルは言外の意をにおわせながら諦めた口調で答える。ラトゥースは鼻を鳴らした。
「なるほどね。そういうものかな」

 やがて馬車はマイアトール聖堂門前で止まった。ベイツが外から木窓を叩く。
「着きましたで。どないしますの」
「降りるよ」
 ラトゥースはにやりと笑ってシェイルとうなずきかわし、腰の剣を確かめてから飛び降りた。油断なく周りを見回すが、後を付けてくるものの気配はない。

「いないね。気付かれたかな」
「そのようですな」

 シェイルは馬車の天蓋に手を掛け、大きすぎる身体をかがめながら悠然と降りた。ぶらさがる重みで馬車があやういほど傾く。片輪があきらかに浮いた。
「わ!」
 御者席の足下から薄汚い革袋が滑り落ちかける。砂埃によごれた黒い靴がとっさに革袋を踏みつけた。
「わし、ここで待っとくんで」
 ベイツはしわくちゃになった革袋を拾い上げた。中から水のゆれる心地よい音が聞こえてくる。シェイルは、ベイツが大事そうに抱える袋の、ほどけかけた結び目からのぞく古ぼけた緑の瓶とコルク栓に眼をとめた。
「飲み過ぎるなよ」
「へーい」
「じゃ、留守番よろしく」
「へいへい」
 わざとらしくウインクするベイツに手を振って、ラトゥースはマイアトール神大聖堂の境内へと続く門前通りに足を踏み入れた。

 一直線に敷き詰められた石畳が、青緑の光をきらきら反射している。
 左右の街路樹がおとす木漏れ日もまた、春の日の湖水のように柔らかく揺れていた。
 突き当たりは鬱金の瓦で葺かれた門になっている。
 向かって右に、憤怒の火を剣にまといつかせた黒大理石の聖騎士アリストラム像、左には竜笏を手にした白大理石の隠者サヴァ像。
 せり上がって立つ二聖像の視線は、父なる太陽神の境内へ立ち入ろうとする者の魂を見抜かんばかりの神々しさだ。

「アリストラムとサヴァか」
 ラトゥースが手をかざし、敬慕のまなざしで伝説をかたどった石像を見比べる。竜を友とし、その危機を救ったと伝えられる英雄たちである。
「いつも思うけどさ、この二人、陛下と宰相閣下に似てるよね」
「さようですな」
「宰相閣下の書斎見せてもらったことあるけどね、あれこそまさに魔法使いの部屋だよ。あのひとの……」
 ラトゥースはつい口を滑らせたことに気付き、ひそかに頬をあからめた。
「さてと、行くかな」

「閣下、あちらを」
 シェイルが押し殺した声を上げた。ラトゥースは声にうながされ、木立の向こうに点在する堂の彼方へ眼をやった。
 その顔が、みるみる険しくこわばる。見てはならぬものを見てしまったかのような面もちだ。
「何だ、あれは」

 さして広くもない聖堂前の広場を、薄汚れたぼろを身にまとったものたちの群れがうめつくしている。シェイルは陰鬱に見渡しながら言った。
「この街は人知れず深く病んでおるようです」

 シェイルの苦々しい物言いにラトゥースは眉をひそめた。この街の二面性は誰もが知るところだ。豊かさの一方で人々の暮らしは荒んでいる。
 ラトゥースは足早に広場を横切り、彼らに近づいていった。

 ところがいざ傍に寄ってみると、その集団は、意外なほど整然としていて、気がおけない笑い声さえ聞かれるほどだった。
 皆、生活に疲れ果てた様子ながら、それぞれが欠けた椀や錆びた深皿を手に、顔を明るくさせている。
 視線を行列の先頭に転じると、人々が楽しそうにしていられる理由が分かった。

 経堂の前に広げられたテーブルに、蔦編みかごに山と積まれた固焼きのビスケット、土鍋いっぱいにとろけるチーズ、とりどりの色にゆでられた野菜、それと甘い湯気の立つ真っ黒な鉄の大鍋が並んでいる。辺りはふくよかに漂うサフランの香りでいっぱいだ。

 ゆったりした墨衣に鬱金のサッシュをしめた、マイアトール神官独特の装いをした者が数名、一人一人にビスケットを手渡し、次々差し出される椀にスープを注いでまわっている。

「うわぁ……美味しそう……」
 ラトゥースは目を丸くし、ごくりとつばを飲み込んだ。
「ちょっと並んでみようかな」
「閣下、お見苦しいですぞ」
 シェイルが苦々しく咳払いする。
「どうやら、救窮の日のようです」

 近づく野太い声に気付いたのか、神官の一人がふと顔を上げてラトゥースとシェイルを見た。
 黒いまなざしが不穏に見開かれる。
 だが、列の先頭にいたものが声をかけると、その変化はたちどころに消えて失せた。神官はぎごちなく笑い返し、何でもないと言うかのようにかぶりを振ってみせる。

 神官の態度から、皆がラトゥースと、そして見慣れない軍服を身につけたシェイルの巨体に気付いたようだった。列にざわめきが広がり始める。さして後ろめたくもなかろうに、それぞれ隣り合った者どうしが何ごとかをひそひそと耳打ちしあっている。
 ついに、黒い目の神官は意を決した目をラトゥースへとむけた。木杓子を鍋に置き、手を濡れ布巾でぬぐう。

 神官は表情を堅くしたまま、ラトゥースの前へやってきた。
「何か問題がございますでしょうか。本日の行事については議会にも自警団にも届け出済みですが」
 マイアトールの神官は、左のこぶしを右手で包み込み鼻先まで持ち上げて、膝を軽く折った。
 胸元に黒い石をあしらったペンタグラムが揺れている。
 ラトゥースは右拳を胸に軽くあてる騎士の礼を返した。

「失礼。お騒がせするつもりはありませんでした。私はシャノア王国巡察使、ラトゥース・ド・クレヴォーと申します」
 その名を耳にしたとたん、神官の表情に薄暗い影が射した。
 だがすぐに神官は取りつくろいの微笑みをうかべてしまい、一瞬の動揺も同じく秘め隠された。
「それはそれは、ようこそおいで下さいました」
 どこか執拗な視線が追いかけてくる。ラトゥースは不覚にも受け止めかね、たじろいだ。

「今日のこれは、いったいどういう行事なのでしょう。決まった、あるいは滅多にない日に訪れる僥倖を得たのでしょうか、私は」
 その視線から逃れようと、あえて堅苦しく形式ばった物言いでたずねる。

 列を離れたところでは、既に食事を終えた子供たちが棒きれや板を持って駆け回っていた。乱暴に殴り合ったり突き転ばしあったりしているようにも見えるが、それは大人の目線でしかない。子供たちには、この街の人間から失われて久しい笑顔が残っていた。
 ころころと笑い声が響き渡る。ラトゥースは思わずつられて微笑んだ。
「元気な子供たちですね」

 神官はふと笑って、おだやかなため息をついた。陽のまぶしさに眼を細めながら、手をひさしにして子供たちの歓声をみつめる。
「ご視察おそれいります。不定期ではありますがたびたび行われております慈善の行にございます」
 神官の刺々しい気配が少し薄れてきたように思って、ラトゥースはほっとした。
「素晴らしいことです。マイアトールの慈愛に触れ、人々の信仰もまたいや増すでしょう」
「神の思し召しなれば」
 神官はかすかに目をそらした。

 その態度、気に掛からないと言えば嘘になる。だが、畏れ多くも太陽神マイアトールの神職にあるものに対し、罪人に対処するがごとく問いつめるのはさすがにはばかられた。
「でも、なぜ」
 違う意味を込めるために、不穏な間を置く。
「なぜ、こんなに豊かな街でありながら、多くの者が施しを受けるような暮らしをしなければならないのでしょう」

「クーイーは確かに豊かな街です。世界一の港、世界一の市場。ハージュの都よりずっと」
 神官は断ち切られたように口をつぐんだ。港の方角をちらりと振り仰ぐ。
 そこにはクーイー総督府のひときわ高く空を射る尖塔が、建て込んだ家々を圧してかがやいていた。
「でもそれは、一部の限られた階級だけのものです」

「議会は」
 ラトゥースはあえて慎重に口を差し挟む。
 記憶の隅に残った銀ギルド長の口上が、なぜか今眼前に立つ神官の言葉と奇妙に符合して聞こえた。カスマドーレの言った『不平ばかりを言ってくる愚か者』とは、この神官のような人物をあらわす言葉に違いない。
「レグラム総督は”東”の方ですし、議会とて同じようなものです」
 神官は語気を強くした。

 東の人間、というのは、かつて沿海州の人間が立ち居振る舞いの洗練されていない内陸の民を指して言った蔑称だった。だが今はむしろ、中央政権から派遣されてくる傲慢な官僚を揶揄するのに使われることのほうが多い。

「彼らは自分たちの利益以外のことには興味がない。こういった人達のために仕事を探したり、住む場所を与えたり、病気の治療の機会を与えたりという最低限の福祉事業に金を使うことさえ無駄だと」
 ラトゥースはさりげなく神官を制した。

「国を富ませるのは商人の欲求ですが、同じその欲望が国を弱めることも彼らは知っています。だからこそ彼らはいつもすぐれた水先案内を必要としています。おそらく今もそれに変わりはないでしょう」
 神官は表情に不安をにじませてラトゥースを見つめ返した。黒い瞳の中に、身をこわばらせるほどの焦燥が見え隠れする。
 ラトゥースは気付かぬ振りをして微笑んだ。
「神の御心に沿った善き行いは、自ら発心され行われるからこそうつくしく尊ばれるものだとはお思いになりませんか」

「ギュスタさま」
 気配を感じ取りでもしたのか、辺りを走り回っていた子供たちが立ち止まり、すこしずつ寄り集まってきた。顔を煤で汚した少年が、思いつめた顔で神官の袖を引っ張る。
「どうかしたか。顔色、悪いぞ」
 神官はぼんやりと子供を見下ろし、我に返った様子でふと目を瞬かせた。
「ああ、リカルド。元気でしたか。みんなも」

 年の頃は十前後、といったところか。リカルドと呼ばれた少年が履くズボンは膝までしかなく、色の褪せた継ぎが当てられていて、それもまたほつれて左右互い違いになってしまっている。靴も同様にすりきれ、割れた爪先からは指がのぞき見える始末で、もはや靴とは名ばかりの足袋にすぎない。他の子供たちも似たようなもので、男も女もその点に関してだけはさしたる違いを持っていなかった。
「メイレルの具合はどうですか」
 犬のような臭気を放つ栗色の髪を、だが神官は優しい手でくしゃくしゃと撫でた。
 少年は唇を曲げ、ためらいがちにかぶりを振る。
「あんまり」
「そうですか。じゃあ、後で私の部屋へおいで。薬を調合してあげよう。他には何もなかったね。危ないことはなかったかい」
「ギュスタさま、おれ」
 リカルドは団子鼻の下を指の背でこすった。神官は腰をかがめ、ゆったりと膝をついて少年の目の高さにまで降りる。
「もう、食事はすませたかい」
「まだ」
 無愛想な返事。だがそれはおそらく非人間的な扱いを日々受けているせいであろうと思われた。決まった仕事を持たず、むろん庇護してくれる親も後見人もない子供が、半ば群をなした野良犬のように生きて行くのは致し方ないことだったのだ。

「あのさ、おれ、あの」
 リカルドは息苦しげに言葉を継ぐ。
「神官様の言われた通り、今週、ずっと働いた。湯屋のさ、火焚き。メイレルが……いた店。かっぱらい、しなかった」

「ああ、リカルド。それはとても良いことです。マイアトールのお導きだ。おなかもすいているでしょう。早く食事をしていらっしゃい」
 神官は少年を抱き寄せ、頬を寄せて、こころから希望の嘆息をもらした。リカルドは一瞬、照れくさそうに身じろぎした。赤いくちびるがわずかにゆるみ、子供らしい表情をのぞかせる。
 しかし少年の眼はすぐに陰気な色に染められ、くらくなった。
「でも、ヴェラーノが捕まった」
 何か恐ろしい光景を思い出しでもしたのだろう。リカルドの顔は大きくゆがんだ。声がふるえる。
「殴られて。蹴られて。そしたら血が。凄い血が」
「リカルド」
 神官は強い力で少年を抱きしめた。
「私の部屋で待っていてください。みんなにも来るように言って。院長様にお許しをいただきました。これから夜はずっと私の部屋にいていいのです。どこにも行ってはいけません」
 リカルドは力なくうなずいて、去っていった。よろよろと肩を落として歩いていくその後ろ姿を、神官は殺伐とした眼で見送った。そのまま眼を堅くつむり、うつむく。
「彼らは何を怖れているのですか」
 ラトゥースの声に、神官はようやく顔を上げた。
「すべてをです」
 神官の声はやましさと後悔にあふれていた。
「クーイーは、彼らのような子が生きて行くにはあまりに惨すぎます。盗みをせねば生きて行けない。それゆえ良識ある大人に疎まれ、悪辣な大人には弄ばれる。なのに、私は」
 ラトゥースは苦々しい面もちで港を振り返った。
「かどわかされ奴隷として売られてゆく子たちがいるとも聞いています」
 神官は唇を噛んで顔をそむけた。
「……リカルドが待っています。行かなければ」

 そのとき行列の最前列、テーブルの前から数人の言い争う声が聞こえた。たちまち人だかりができる。
 揉みあった拍子に、誰かがテーブルに倒れ込んだ。大鍋の中身が今にもあふれ返りそうなほどに揺れる。あちこちから情けない悲鳴があがった。
 ラトゥースが何事かと目を向けた時にはもう、近くにいた神官が割って入っており、袋叩きに遭いかけていた一人を助け出していた。
 その男はどうやら酔っているらしく、不届きにも神官の手を振りほどき、深皿を鍋に投げつけた。椀は鍋の中に落ち、中のスープを跳ね散らして、テーブル全体をびしょぬれにした。
 列の中途から不穏なうなり声があがる。
 神官たちがいそいで人々をなだめる。ぎすぎすした場の雰囲気が収まるころ、当の男はいつの間にか姿を消していた。
「では最後に一つだけお聞かせください。こういった慈善活動はどうやって行われているのでしょうか。議会からの支援は望めますまい」
「そう。いえ、そうではありません」
 神官は言いよどんだ。ぎごちない声だった。
「この施しは、とある篤志家による寄付でまかなわれております。ですが、そのお方は故あって名を出すことも、あるいは聖堂に対し喜捨が行われていることさえ口に出すことを喜ばれません」

「なるほど」
 ラトゥースは用心深く肯いた。
 議会、すなわちカスマドーレのような富める者の義務さえろくに果たさぬ者が代表として召集される場では、突出した人気もまた嫉みの種となる。慎みだけが唯一の自衛手段となるのだろう。
「分かりました。今はお役目中の身ゆえ、何のお力添えもできませんが、生国へ戻った折りには必ず、クーイーの窮状をお伝えし対策を頂けるよう上申いたしましょう」
「それはまことですか」
 神官は心からの驚きと微笑を浮かべ、ラトゥースの手を強く握りしめた。が、握った掌がやんごとなきものであると思い出したのか、はっと我に返って手を離し、あとずさり膝をつく。

「失礼をいたしました。エルシリア侯姫の御手をつい」
「あの、いえ」
 おそれ畏まったラトゥースは、あわてて神官に手を添え、立ち上がらせにかかった。
「どうか顔をお上げください。神に仕える方が、わたくし如き世俗の者になど」
 その様子を察したか、別の神官が慇懃に近づいてきた。ゆったりと頭を下げる。
「閣下、ようこそおいでくださいました。当院の長ダルジィが、もしよろしければ閣下を茶湯に招かせて戴きたいと申しておりますが」
「おお、それは忝ない、ありがたいお申し出ですが」
 心の底から残念だという気持ちを表しながら、ラトゥースはわずかに振り返り、遠くの空を見上げてみせた。
「怪我をした仲間を宿に残しておりますので、そろそろ戻らねばなりません」
「それは残念」
「申し訳ありません。またいずれ改めてご挨拶に伺います」

 残念そうな顔、気後れした顔、それぞれに見送られ、ラトゥースとシェイルは馬車に戻った。
 取り急ぎせねばならないことがたくさんありすぎる。今すぐ手を着けられる用件は目下のところ一つ――しかしそこから派生する問題と、行く手に立ちはだかるであろう無数の障害を思ってラトゥースは憂鬱になった。

 ところがのんきなことに御者のベイツは腕に葡萄酒の空き瓶を抱きかかえ、ごうごうといびきをかいていた。シェイルがその膝をこづいて起こす。
「起きろ」
「ああ、お帰りんさい」
 大あくびをこらえ、ベイツは身を起こした。よだれを袖で拭き、酔っぱらった充血の眼でラトゥースを見返す。
「宿まで頼むよ。でも大丈夫かい、そんなに酔ってて」

 ラトゥースは馬車に乗り込み、帽子を席に置いた。
 背もたれに身体をあずけ、うんざりと難しい表情をつくる。だがその眼は生き生きと輝いて、頑丈な鉄柵越しに目も眩む宝物を発見し舌なめずりする愉快な盗賊のようだった。
「そろそろ目が覚めててもおかしくない時刻だね。どう攻めたものかな、あの赤毛」

「は、ギュスタがどうかしましたか」
 ぼんやりと聖堂を振り返っていたシェイルが、戸惑った様子で訊き返す。
 ラトゥースは打って変わった険しい目でシェイルを見返した。
「何がいいたい」
 鋭い声が差し挟まれる。
 ラトゥースの口調にシェイルは失言を察し、口ごもる。神官の態度の是非など問うべきではない、たとえそれがどれほど不自然に思えようとも。そう言っている眼だった。

「さっきも言ったはずだよ」
「申し訳ありません、閣下」
 シェイルは言葉少なに頭を垂れた。


--------------------------------------------------------------------------------

 全身が燃えるように痛んだ。寝返りも打てない。
 悪夢が襲っては引いていった。
 黒服の殺し屋たちが、どこまでもしつこく追いかけてくる夢。不意をつかれ、襲われ、打ちのめされる夢。ぼろぼろにされ、闇に引きずり込まれる夢。

 全身に傷を負い、身動きひとつできないのに、地面から細い手が何本も伸びて足首をとらえ、首や顔に張り付く。
 手は身体中をまさぐり、皮膚を剥ぎ取る。ばらばらと音を立ててこぼれおちる肉と骨のかけら。彼は欠けていく顔を涙で濡らしながら、はぐれた心と身体、それぞれの部品を必死でかき集める。
 闇にのっぺりとうかぶ、巨大な顔が見えた。
 それを見たくなくて、彼は強く頭を振った。だが無数の手が強引に顔を真正面に向けさせる。ねじれた身体から、歯車とネジがぼろぼろ落ちる。そして砕け散るガラスのかけら。だらりと垂れ下がる操り人形の糸。
 凍りつく笑みが突き刺さった。

 ――お前は人間じゃない。

 彼は悲鳴を上げる。巨大な口が轟音を発した。
 前を見ず、後を顧みることもせず、ただ生かされているだけの人形。
 それがお前。お前の望んだ生き方。
 今さら変わろうなど、今さら変われるなどと思うな。己が犯した罪を見よ、己が歩んだ道を見よ、己が積み上げてきた死を思え――

「ローエン!」
 眼を押し開く。部屋中が真っ赤に見えた。ハダシュは声をほとばしらせかけ、そのまま絶句した。
 飛び去った悪夢の代わりに、しみの浮かんだ茶色い天井が見えた。

 開け放たれたままの鎧戸から見える風景は、いつもと同じ変わり映えのしないものだ。深い陰影に沈む街と、そのはるか遠くに残された透きとおる夕暮れとが、重厚な宗教音楽のようにどこまでも折り重なり連なっている。
 そぞろに鳴きかわす海鷲の声が聞こえる。巻き舌を震わせるのに似た、水笛のような鳴き声。

 命があっただけではなく、安静な状態でベッドに横たえられ、拷問も暴行も受けずにすんでいる。その現実を受け入れられるようになるまで、ハダシュは愕然として天井を見上げ続けていた。ここがどこなのか、なぜ、こんなところに寝ているのか、全く覚えがない。
 とまどいつつ、わずかに首をねじる。

 枕元の台に小さな金盥と縁に掛けられた手ぬぐい、陶器でできた薄緑の水差し、使いさしの包帯の残りや錆びたはさみ、血の付いた布切れ、それと茶色の瓶にはいった消毒用の薬――おそらくは酢かアルコール――それらの治療道具一式が、出しっぱなしで放置されているのが見えた。
 差し込む西日に、瓶の中の液体がきらきらと揺れ輝いている。
 そのゆらめきを見つめているうちに、ぼんやりとではあるが、気を失う直前までの記憶が戻ってきた。
 背筋がぞくりと冷たくなる。ハダシュは自嘲のため息をつき、運命を呪った。
 生き長らえさせる理由があるとすれば、それは苦痛を長引かせるほかにはありえない。むしろこんな現実なら悪夢の方がまだましだった。

 まずは起きあがるために、ゆっくりと身じろぎする。腕は自由なままだが、足は動かない。添木をあてられ、包帯できっちりと巻かれている。無理やりに膝を折ってみるが、待っていたのは灼熱の激痛だけだった。
 歯を食いしばり、無様にうめく。
「や、気がついたかい」
 頭上から、軽やかな響きの声が降りかかった。
「気分はどうかな」
 歯切れの良い足音が部屋を横切り、窓辺に回り込んでくる。

 どうやら感覚が鈍っているらしい。声がするまで、人の気配など微塵も感じなかった。さらに、その事実に気付いた後でも特別な感情がわきあがって来ない――殺される可能性もあるというのにだ。

 心の平衡が壊れているのかもしれなかった。
 それもいい。恐怖は自衛本能の一種だ。命に重みを感じられない人間は、恐れも痛みも覚えないだろう。そうなれば簡単に死ねる。命を棄てられる。
 ハダシュは、声の来る方へぎごちなく顔を向けた。

 手に湯気の立つカップを包み持った少年が、葡萄茶色の長椅子にゆったりと腰をおろすところだった。妙に斜な仕草でブーツの足を組んで、しばらく何も言わず、ただ真鍮のカップを口に運ぶ。
 ハダシュはわずかに目を瞠った。
 見覚えのある顔だ。
 しかし少年ではない。しゃべる声も体つきも、一見男を装ってはいるが、紛れもなく女だった。

 一直線に差し込んだ真紅の夕日が、やわらかな金の髪を陽炎のようにゆらめかせる。
 逆光が悪戯な表情を秘め隠した。

「何だその目。まさか怒ってるんじゃないだろうね」
 少女はハダシュの刺々しい視線に気付いて、皮肉に口元をゆるませた。
 言い返そうとしたが、うまくいかなかった。声が出ない。喉に綿が詰まっているような気がする。
 少女は小鳩のように笑った。
「僕が助けを呼んでこなかったら、今頃君は、どこかその辺の海に浮かんでるんだよ」
 それだけは認めるしかなさそうだった。
 どういう意図があるにせよ、治療もされている。戦闘で破れた服は脱がされ、打撲の後には膏薬が、無数にできた裂傷には血止めの布と包帯をあてがってある。
 だが、守るもののない剥き出しの両肩はやけにこころぼそく、うすら寒かった。

 ハダシュは苦々しいかすれ声をしぼり出した。
「さっきのクソ餓鬼か」
「何」
 少女はむっとした声をあげた。
「どさくさに紛れて、さ、触ったくせに」
 ハダシュはひねくれた笑いを浮かべた。馬鹿にした目で少女を見返す。
「着膨れじゃなかったのか」
 少女は耳まで真っ赤に染めた。今にも噴火しそうな顔で息を喘がせる。
「き、騎士に向かって何たる言いぐさだ」

 状況の情けなさにもかかわらず、ハダシュはつい身を堅くした。
 少女は今、騎士、と言った。〈黒薔薇〉が口にしたことを聞きとがめられたか。
 答えを見いだせないまま、その場のごまかしもかねて、何とか起きあがろうと無駄な努力を重ねる。少女はため息をひとつして、ハダシュをじろりと見た。さすがに手を貸してくれる様子はない。
 あきらめて力を抜く。
「どうして俺を助けたりした」
 とりあえず媚びてさえいれば状況は悪くならないだろう。ベッドに身を預け、ぼんやりと天井をながめる。黄ばんだ染みの形が、歯を剥き出して笑う悪霊の顔に見えた。

「どうしてと言われてもね」
 少女はやや皮肉っぽく青い目をみひらいた。
「困っている人はそれを助けよ、だろ。太陽神マイアトールの教えだ。献身的で義侠心あふれる、いかにも騎士道精神に則った行動だと思うけど。君らルイネード人がマイアトールを信じる信じないは別として」

「そんな甘っちょろい考えで寝首を掻かれた奴なら、腐るほど知っている」
 ハダシュは半ば自棄的に呟いた。
「荒んでるねえ」
 少女は肩をすくめ、カップに口をつけた。甘いミルクの香りが漂う。

「ま、それはいいとして君の名前を聞いとこうか。何であんな連中に襲われてたのかもね。ついでに言っとくと僕はラトゥース・ド・クレヴォー。生まれは東国エルシリア、この地を統べるシャノア王家に仕えしクレヴォー家の一員にして賢明なる宰相閣下のしもべ、なぁんちゃって」
 ハダシュは笑えないまま眼を伏せた。
 エルシリア人。すなわち〈黒薔薇〉の次に芳しくない連中――外部の役人だ。

「馬鹿か、てめえは」
 奇妙な間が空く。
 ラトゥースは小悪魔的嘲笑を浮かべた。
「命が惜しくないらしいね。誰か人を呼ぼうか」
 本気で立ち上がろうとするラトゥースへ、ハダシュは思わず手を伸ばした。
「待て。奴らにつけられなかったか」

 なだれ落ちる黒髪から覗き見える、深い闇色の瞳。寒気のする胸騒ぎ。

 あの女の影が、幻の痛みとなって胸をつらぬいた。ヴェンデッタならたちどころにこの場所を突き止めるだろう。
 もしこんな状態で襲われたら、ひとたまりもなく、終わる。
「大丈夫だ。心配しなくていい」
 ラトゥースはハダシュの思いを見透かしたか、ゆっくり落ち着かせるようにかぶりを振った。冷静な仕草だった。

「なぜ分かる」
「なぜと言われても」
 ラトゥースの頬に困惑の色が射す。
「奴等を知ってるのか」
 ハダシュの畳みかける問いに、ラトゥースは素知らぬ様子で頭を掻いた。ちいさく舌を出して、とぼける。
「それより今は傷を治すのが先決だと思うよ」
 ラトゥースは椅子を押しやり、立ち上がる。わずかに身をかがめた姿に夕日が遮られ、均整の取れた影が黒く浮かび上がった。
 破鐘のような銅鑼の音が、磯の香り混じる潮風に乗って遠く聞こえてくる。
 ラトゥースは手にしたカップを干して、テーブルにことりと置いた。
「本当にひどい怪我だったんだよ」
 立ち上がって一歩近づき、傷薬をあてたハダシュの胸に手を伸ばす。

 ハダシュはとっさに身を引いた。
「逃げなくてもいいだろ」
 ラトゥースの頬に、皮肉な笑みの影が落ちた。
 悪戯なまなざしが、肩から背中へと続く異様の刺青に向けられる。
「じろじろ見るんじゃねえ」
 ハダシュはいらいらと遮る。
「別に何もしやしないよ」
 ラトゥースはひょいと指を伸ばして肩の刺青に触れた。

「触るな」
 思わずあげた声に怖れが混じっていた。
 それを気取られまいと、ハダシュはなおのことラトゥースを拒絶した。
「ごめんごめん。この刺青、何というか、色がすごいなと思ってさ。正直何の絵だかさっぱりだ」
「うるせえ」
 刺青のことなど考えたくもなかった。

「あれ、怒っちゃったかな」
 ラトゥースは笑いかけながら、今度はなれなれしくベッドに腰を下ろし、胸の傷に目を近づけた。
 包帯をわずかにずらし、傷の具合を確かめている。

「血も止まってるみたいだし」
 そのまま顔だけを上げて、暖かく微笑む。
「しばらく安静にしてれば足の傷も何とかなるさ。で、君の名は」
 胸に触れた指先の暖かさに、ハダシュはつい口を滑らせた。
「ハダシュだ」
 言ってしまってから、ハダシュは自分の馬鹿さ加減を呪った。

 よくもこんなばかばかしい誘導尋問にのせられたものだ。よほど気がゆるんでいたか呆けていたに違いない。
 ハダシュは憎々しい視線をラトゥースへ突き刺した。

「ふうん、ハダシュか」
 当のラトゥースは得られた成果に満足そうな微苦笑をつくり、ベッドから飛び降りた。のんびりとしらじらしく窓縁に手を付き、暮れなずむ空を振り仰いでみせたりしている。
「明日も天気よさそうだね」
 他愛なく振り返って言う。嬉しそうな顔だった。
 ハダシュは舌打ちした。
 茜色の空にかすれ雲がたなびいている。

「じゃ、またあとで」
 ラトゥースは空のカップを拾って窓辺から離れた。
 返事の有無はもはや大した問題ではないようだった。そのまま振り向きもせず部屋を出ていく。
 薄い扉がラトゥースの無防備な背中を飲み込んだ。立て付けの悪い音とともに閉まる。
 あとに残ったのは、ぽつんとした疎外感だけだった。

 やがてハダシュは居たたまれなくなり、自嘲のためいきをもらした。
「捕まっちまうとはな、この俺が」
 穏やかな口調の相手だからといって、味方とは限らない。
 ラウール配下の殺し屋だと知れれば、たちどころにクーイーの衛士がこの部屋になだれ込んでくるだろう。あるいは敵対する勢力、今まで手にかけてきた相手の仲間。そういった連中がいつ何どき血讐に現れるやら分からない。
 おいそれと他人を信用できる身分ではなかった。
 そう考えると、体中をがんじがらめにした包帯でさえ、何かしら別の意図を持つかのように思えてくる。

 ハダシュは曲がらない手首を根気よくひねって、包帯をゆるめにかかった。にかわで固められたかのように堅く縛られ固定されている。
 ようやく動かせるようになると今度は足。脇の机にあったはさみを取り、包帯を乱暴に切り開いていく。

 逃げる途中に負った深い傷は、まったく塞がっていなかった。
 血だけは止まっているが、押さえつけた油紙から柘榴のように赤黒く裂けた肉組織が透けて見える。最悪の眺めだ。
 ハダシュは残りの包帯をきつく巻き直した。
 見た目はひどいが、きっと何とかなるだろう。そう思い込むために、ベッドから降り、壁に手を添えて、そろそろと歩いてみる。動かない棒を引きずっているようだった。
 
 腹立たしさの余り、わざと体重をかけた。膝から下に力が全く入らない。底の抜けた身体がつんのめった。
 とっさにテーブルをつかみ、身体を支える。がたついたテーブルからはさみが滑り落ちた。
 鋭い鉄の音。
 ハダシュは苦悶のうめきを洩らした。歯を食いしばり、ベッドへと這い戻る。
 心のどこかが麻薬の助けを請うてじくじくとうずいた。
 後悔がのしかかってくる。あまりにも無様だった。

 どれほどの時間を要したのか――
 ふと気付くと、いつの間にか周囲は淡い藍の闇に変わっていた。ざわざわした街の気配が聞こえてくる。
 物売りの間延びした声。通り過ぎる馬車。笑いながら群れて駆け去る子供の声。悪戯に気付いて怒鳴り散らす女。
 いつもと同じ、それでいて今まで一度も聞いたこともないような、ごく普通の喧噪。
 それが、耳にじわりと染み込んでくる。

 ハダシュはぎりっと唇を噛み、獣の目を走らせた。眉間に深い皺を刻む。
 こんなことをしている場合ではない。
 あの娘のせいだ。馴れ馴れしく近づいてきたかと思うと、一気に心の内側にまで踏み込んできた……。

 無意識に腰へ手をやる。だが、あるはずの手応えはなく、ベルトに差した赤い革の鞘だけが空虚にかすめた。
 所在なさに一瞬、身が竦む。
 怖気がこみ上げた。無いと知りつつ、腰のベルトを何度もまさぐる。
 ナイフなしでクーイーを渡り歩くのは、ある意味、裸でいるより心許ない。殺されるのを待つようなものだ。それにこのままでは、いつか――

 一瞬、脊髄を針で突かれたかのような痛みが走った。

 ハダシュは両腕を抱き絞って、わずかに身体をふるわせた。
 嫌な悪寒が先ほどから止まらない。
 ごくりと生唾を飲み込む。
 冷汗で濡れた額に、前髪が貼りついている。背筋の底が、ぞくぞくと薄ら寒い熱を帯びた。
 相反するふたつの感触がよみがえる。
 黒い薔薇の咲く裸身。熱い息、偽りの微笑。泥のように身をゆだね、おぼれて、這いつくばった――ヴェンデッタという女の、蜜と毒。

 この感覚が、ハダシュをがんじがらめにとらえ、闇へ引きずり込んで離さない元凶だった。

 しかし、もうひとつの記憶が、ハダシュに冷水を浴びせかける。
 現場に残されたナイフにある赤蠍の彫り物を見れば、それが本当は誰のものなのか、いやでも分かるだろう。事件後、仲間を殺し行方をくらませていることも。
 それらの噂は裏切りの意趣をまぶされ、まことしやかに流布されることとなる。

 ゆがみかけた意識を必死で回転させる。
 この後、どこに逃げるかを考えなければならない。禁断症状が出てからでは遅いのだ。ハダシュは恐慌状態に陥りかけた。

〈黒薔薇〉の追っ手から身を隠すには、生半可な隠れ家ではすむまい。
 まず、通い慣れた阿片窟を思い浮かべる。
 そこならとりあえず安物とはいえ阿片も手に入る。うらぶれた部屋の片隅に身をひそめ、身体を切り売りしながらほとぼりが冷めるのを待っていられる――
 だがその幻想はすぐに破れた。下手な知り合いは他人よりたちが悪い。

 結局考えつくのはラウールだった。どうにかしてラウールと直接会い、ヴェンデッタの本性を伝えるしか方法はない。
 ハダシュは絶望的なため息を漏らした。
 くだらない結論だった。自分自身の次に憎い男に頼るしかないとは。
 行きたくない。会いたくもなかった。過去の痛みと今の記憶が混濁する。薄明の中、冷酷にうそぶくラウールの声がよみがえった。

(わしを裏切るつもりか)

 ハダシュはうつろなかぶりを振った。分かっている。逃げられない。裏切ることなどできようはずがない。
 他のクスリでは効かないのだ。ラウールの凶悪なそれでなければ、もう。
 ラウールはそれを知っている。
 だからもう、人間を見る眼ではハダシュを見ない。過去にはそうではないときもあった。裏の道とはいえ殺しの腕を見込まれ、曲がりなりにも応えていた。
 だが、今は違う。
 ヴェンデッタの嘲弄が胸に突き刺さった。

(今の貴方はただの奴隷。あの男に飼われた犬――)

 拳を握りしめる。何度、同じ言葉を心に繰り返しただろう。
 こんなはずではなかった。
 降りしきる鮮血の霧雨。ぐっしょりと骨まで濡れて、石畳の上でもがきながら、何かを探して。唐突に終わる、下らない命。
 こんな人生を送るはずじゃなかった、と。

 だがハダシュはそれ以外の生き方をまだ知らない。

 苦い思いを振りほどいて、ハダシュはぎくしゃくと身をかがめた。床に落ちたままの錆びたはさみを拾い、青ざめた顔で見入る。
 小刻みに震える手の中で、ゆるんだ刃が鳴る。刃こぼれの手入れもされず、まだらに黒く赤く錆びるにまかせたはさみ。
 やがてためいきがもれる。
 こんなもの、何の役にも立ちはしない。

 はさみをテーブルに戻し、片足を引きずって出入り口に向かう。
 扉にカギはかけられていなかった。滑りの悪い閂を上げ、横に滑らせる。油の切れたちょうつがいが壊れそうな軋みを上げた。
 足音を忍ばせて廊下に滑り出る。

 窓のない廊下は、とっぷりと濃い闇に澱んでいる。足下を照らす明かりもない。廊下の角の向こう側から伝わるほのかな光だけが、距離感を失った闇の突き当たりに壁があることを教えている。
 さらに一歩踏み出す。床板が音を立ててたわんだ。思わず身をこわばらせる。
 気味の悪い冷汗がにじみ出た。じくじくと増す痛みが次第に大きくなってくる。

 意識の半分が痛みに占められてゆくのを無理に押さえ込み、投げ捨てるような荒々しい息をひとつつく。

 左右を見渡し、人の気配がないことを確かめる。ハダシュは壁に寄り添い忍び歩いて、角で立ち止まった。
 すぐ隣に扉があった。下の隙間から帯状に黄色く灯りが洩れている。
 ひそひそと陰謀めいた話し声が聞こえた。近づいて、聞き耳を立てる。

 戸板はあちこち節穴が開き、その上に色の違う継ぎ接ぎをいい加減にあてただけというしろもので、迂闊に身体を預けでもしたら扉ごと倒れ込んでしまいそうだった。
「何だって」
 唐突に高い声をあげるラトゥースの声が聞き取れた。
 ハダシュは息をつめ、それから我に返ってかぶりを振った。動揺させられるいわれはない。
 気を取り直して節穴の一つに眼を近づける。

 細い光が眼に当たった。
 まぶしい。戸板一枚はさんでいるだけなのに、なぜか手も届かない遠くを双眼鏡で覗いているような気がする。
 部屋の中央に、テーブルを挟んで角突きあわす二人の姿が見えた。
 後を向いている一人は、背格好からラトゥースと分かる。ハダシュは会話を聞き取ろうと全神経を集中させた。

「レグラムめ、大したことないように言って。何だこの件数は」
 資料の紙をめくる苛立たしげな仕草の終いに、ぱしりと紙の縁をはじく。
 ラトゥースと対峙しているのは、筋骨逞しい巨漢の軍人だ。襟の詰まった金筋入りの軍衣を、今はゆったりと前を開けて羽織るだけにしている。
 記憶にはないが、ラトゥースと同じエルシリアの騎士と考えて間違いないだろう。
 軍人はラトゥースと書類を前に、苦々しく口を開いた。
「そちらの資料にはまとめてありませんが、特に十五歳未満の子供に関して、男女問わず誘拐され金品あるいは身代金を奪われたにもかかわらず行方不明になる事件がここ一年の訴えだけで六十四件」
 ラトゥースは舌打ちする。
「見逃せない数のはずだ」
「クーイー外から拉致されてきた数も含めれば、ゆうにこの数十倍にはのぼりましょう。すべての犯罪を確認することはもはや不可能です。クーイーから出る奴隷船を拿捕する以外、防ぐ手だてはないと思われます」

「男女問わず子供が主なら、炭坑か鉱山の可能性も捨てきれないな」
 ラトゥースはペンの尻で頭をかいた。
「あの神官が心配するのも分かる。かといって囮作戦はもう無理だ。僕もシェイルも顔を見られた。もしあれが本物だとしたら、だけど」
「レグラムとカスマドーレはいかがいたしましょう」
 ラトゥースは資料をテーブルに放り出して、手を頭の後ろに組み、疲れた仕草で椅子にもたれかかった。
「あれは怪しい。というか」
 いったん言葉を切ったのは、どうやらひそやかに笑ったせいらしかった。
「間違いなく賄賂を握らされてる。だけど、その相手が〈黒薔薇〉かどうかの確証はない」
「では、あの男を」
 巨漢がひくく言った、そのとき。

「大変大変大変、えらいこっちゃ」
 闇の反対側から急にだみ声が放たれたかと思うと、建物中に響き渡る足音とともに、何者かが猛然と階段を駆け上ってきた。

 ハダシュは仰天して飛びすさる。
 駆け込んできた中年男もまたハダシュに気付き、奇声を上げてつんのめった。右手に酒瓶、左手には染みの付いた麻袋を下げ、コートはすりきれてよれよれ。武器を持っている様子はない。
 とっさにナイフを探して腰に手を走らせる。殺気に当てられた男が息詰まった悲鳴を上げた。
 しまった、とほぞをかむ間もなく、ラトゥースと軍人がドアを蹴破るようにして飛び出してくる。
 軍人がわずかに腰を落とし、剣柄をぐいと押し下げて構えた。ラトゥースが眼を押し開いてその動きをさえぎる。
「待って」
「なりません」
 軍人は聞かない。銀の刃が血を欲してぎらりと鞘走る。

 ハダシュは顔をゆがめた。間に挟まれ、三対一。しかし敵は二手にわかれている。となれば――
 逃げだそうとしかけた男の腰めがけて当て身をくらわす。男はたまらずのけぞった。互いにバランスを崩し、もんどり打って倒れ込んだところを踏みつけ跳ね起きる。
 勢いで酒瓶が男の手からはなれた。床に転がって、壁の隅でからからとまわっている。
「やめて! ベイツ、逃げ……!」
 ラトゥースが叫ぶのと、恐怖に駆られたハダシュが瓶をすくい取り振り上げるのと、ほぼ同時だった。渾身の力を込め、半狂乱な殺意もあらわに、倒れた男の後頭部めがけて瓶を振り抜く。
 ガラスの割れる音が、残酷に響きわたった。ワインと鮮血が入り混じって壮絶に飛び散る。

 凄まじいまだらの色に濡れる床。毒々しく、黒く、染まっていく。

 緊迫し、音を無くした闇の中で、痙攣する男の手が、びしゃり、とワインをはねとばした。そのまま、動かなくなる。
「……ああ」
 青ざめた悲痛な呻きがラトゥースのくちびるから洩れた。よろめき、進み出ようとしかけて、剣を抜き払った軍人にぐいと引き戻される。
 頬にぽつり、また、ぽつりと。みるみる涙があふれ、こぼれ落ちる。
「どうしてだ。どうして、そんなことを」
 ハダシュの荒み果てていた心がふいに我を取り戻した。ずきりと胸をえぐられる。ハダシュは喘ぎ、後ずさった。

「お下がりを、閣下。こやつに近づいてはなりません」
 怒りのこもった声でするどくいなされ、ハダシュは眼を上げた。
 その一言で、張りつめていた神経が切れた。青白く燃える眼と眼が壮絶にぶつかりあう。
「騙しやがって」
 ハダシュは拳を作り、胸の痛みごと人間らしさを振り払った。
「俺を囮にする気だったんだな」
「君のことじゃない」
 ラトゥースは涙をこぶしでぬぐい、息を乱しながら、眼に必死の色をたたえて何度も強くかぶりを振った。
「行っちゃいけない。君自身のためだ、おとなしくしててくれ」
「黙れ」
 ハダシュは吐き捨てる。対峙したラトゥースは、先ほどの飄々とした様子とはまるでちがって、総毛立つ戦慄に打ちのめされ、今にもくずれ落ちそうに見えた。
「嫌だ。何度でも言う」
 ラトゥースは声を震わせながらも激しく口調をつのらせた。
「今、ラウールのところへ戻ったら二度と帰れなくなる」
 ハダシュは絶句し、ラトゥースを見返した。

 部屋からさす光、廊下を満たす闇。
 二律背反する光がラトゥースの半身をそれぞれに切り取り描き出し、陰影深く浮かび上がらせている。
 さまざまに変化する表情は大人と子どもの狭間で揺れ動くもどかしさに似て、どこか不安なようでもあり、また逆に潔癖すぎる理想を追っているようでもあった。

「宝石商のジェルドリン夫人が〈黒薔薇〉と関わっていたことも分かっている」
 ラトゥースは堰を切ったように続けた。
「知らないとは言わせない――君が殺した――追われていたんだろう、奴等に」
 ハダシュの息が止まった。
「全部、なかったことにしてもいい。僕が全責任を負う」
 軍人の手から無理やりもがき出ようとしつつ、ラトゥースは悲壮にうめいた。
「だからこのままここに残って、君の力を貸してくれ。どうしても〈黒薔薇〉を追いつめたいんだ。頼む」

 ハダシュは血の気の失せた表情で呆然と立ちつくした。声も出ない。唇がやけに乾いた。何度もなめて、湿らせる。だがそうすればするほどかさついて不快感が増していった。
「ふざけるな」
 はねつける以外、言葉が見つからない。
 大切なもの、安らぐもの、自分の居場所、仲間――何もかも投げ捨ててきたのに。何を今さら取り戻す必要があるというのか。
 その迷いを、ラトゥースは見抜けなかった。切迫した状況に流されて、言葉の奥にある感情を見誤ったのかもしれなかった。
 胸に手を押しあて、さらに強く言いつのる。
「このまま一生、闇の世界で暮らすのか。それが本当に君の生きるべき世界かどうか、もっとよく考えてみてくれ。今しかない。今が、『引き返すための黄金の橋』なんだ。信じてくれ」

 ――信じてくれ。

 その言葉を耳にした瞬間、ハダシュは自分の中の何かが壊れるのを感じた。眼に狂気が宿る。
 思いもかけないヒステリックな感情がほとばしった。
「ふざけるな。てめえに何が分かる」
 手に残ったガラスの酒瓶を、ラトゥースの足下めがけて叩きつける。血に濡れたガラスが粉々に砕け散った。
 ラトゥースの表情が凍り付く。
 ハダシュはラトゥースの目に浮かんだ恐怖に傷つき、逃げ出した。男の昇ってきた階段に身を躍らせる。傷口が再び割れ、灼熱の痛みとなって足をつらぬいた。
「取り押さえろ。奴を外に出すな」
 背後から野太いさけびが追いかけてくる。ハダシュは足を引きずって逃げた。血の跡がつくのも構わなかった。

「ハダシュ、だめだ、戻って来い」
 ラトゥースの悲鳴にも似た声が重なった。
「行くな!」

 ハダシュは振り返りもせず、階段を駆け下りた。灯り一つない家の中を一気に突き抜け、外へ飛び出す。だれも行く手を遮る者はなかった。後を追ってくる様子もない。ハダシュは追跡の気配を感じなくなるまで逃げ続け走り続け、ようやく立ち止まると、荒々しく自嘲気味に喘ぎ笑った。
「馬鹿、何が『橋』……」
 強がりでさえ最後までもたなかった。
 ハダシュはずるずると薄暗い路地の壁にもたれて腰を落とし、髪をかきむしって痛む身体を抱え込んだ。
 押さえても押さえても、破れた傷口から血が流れ出し、なまぬるく手を汚す。止まらない。
「ローエン」
 獣のように呻く。取り戻せない、御しきれない思いがこみ上げた。
「……ローエン!」
 目頭が無性に熱い。
(戻って来い)
 ラトゥースの、悲痛な声。
 耳を傾けていたはずだった。なのに、分別のない苛立ちが行動を支配してしまう。激情が、理性を失わせる。
「誰が、誰があんな」
 耐えきれず手で眼を押さえる。涙がもれて腕を伝い落ちた。
 追われ続け、痩せこけて、幽鬼のようにやつれる生活は、いつ終わるのだろう。
 ローエンに訪れた、思いがけない人生の終末はどうだ。血に濡れた石畳の上で、声もなくただ息絶えてゆく運命など、誰が信じるだろう。それを見つめる冷たい眼のことなど。
(次は俺の番かもしれない)
 ハダシュは肩を震わせ、溢れる後悔にすすり泣いた。



「ハダシュが裏切った、だと」
 豪奢なカーペットを敷き詰めた床に、月光の作る桟の影がくっきりと映り込んでいる。
 安楽椅子に腰を下ろし、膝に毛布を掛けた男は、パイプの煙を悠然とくゆらせながら、窓の外にゆれる港のあかり、眠らぬ快楽の街を見おろしている。その肩に黒い指輪をはめた手が置かれた。探るような仕草で胸元へと進んでいく。
「見張り役の男に重傷を負わせ逃走したとのこと」
 華奢な手から、淡く鳴るグラスが手渡される。ラウールはパイプを離し、グラスを受けとった。深いワインの薫りが立ちのぼった。
「見ていただけか。それを、お前は」
 ラウールが問うと、闇は乾いた笑い声をあげた。
「邪魔が入りまして」
 ラウールはやや不興げな面持ちをした。
「エルシリアの犬か」
 安楽椅子に身を任せ、目を半眼に閉じて、ワインを空ける。
「ハダシュの始末はお前にまかせる。犬にはまだ手を出すな。もう一人、片づけねばならん目障りがいる。分かっていような」
 それを聞いて、暗い色の唇がほんのりと吊り上がった。ラウールは、自身の背筋に走ったであろう冷たい感覚を別の衝動と誤解した。
「何がおかしい」
「別に、何も」
 手のひらが、ラウールの太い首回りを、まるで猫を撫で回すように滑る。闇は身をかがめ、髪の毛が逆さまに流れ落ちるのもいとわず、背後から野葡萄色の唇を押し当てた。
「ハダシュから貴方を奪ってしまったような気がして」
「馬鹿を言え」
 ラウールは太い指をヴェンデッタの髪の毛に差し入れ、そのたっぷりとした匂いを嗅いだ。
「それより、”あれ”はお前の仕業か」
 ヴェンデッタは微笑を浮かべたまま答えない。
「バクラントの竜薬だな。まだ隠し持っていたのか。あれは足がつくから使うなと言っておいたはずだが」
「死もときには甘美ないざないとなりましょう」
 ヴェンデッタはラウールの背後で衣服を脱ぎ払った。着ていたものをテーブルに投げかけ、黒い下履きをつまさきに滑り落とす。
 ラウールはガラスに映る裸身と、その背中を覆い尽くす黒薔薇の刺青とを、飽くことのない欲望の視線で見つめた。
「お前の魂は闇と氷と裏切りの毒に満ちている。業が深いぞ」
「それも貴方を思えばこそ」
 ヴェンデッタは意味深に微笑した。薔薇の香りがくちびるを染める。
「私を深い闇の底から救い出してくださったのは貴方です。〈黒薔薇〉にとらわれ、暗殺の技と憎しみの心だけを植え込まれて育った私に、貴方が、愛という名の欲望を教えてくれた」
 黒猫のような仕草でもたれかかり、背後からラウールのガウンの胸をそっとはだける。
 互いがガラスを通して、舐めるような視線を絡ませる。完璧な肉体をいろどる闇が、屍蝋のごとく浮かび上がる。

 まるいというには、あまりにも欲情をそそるかたち。

「愛しています、ラウール」
 触れれば溶けて、滴る毒に変わる微笑にも似て。
 ラウールは膝掛けを床に払いおとした。
「来い」
 ヴェンデッタはガラスに身を映したまま、くねるようにしてかしずいた。
「外から見られます」
 挑発する瞳が、黒く濡れて輝く。添えられた唇から覗く歯が透き通りそうなほど白く、なまめかしかった。
「見られたく、ないのか」
 甘く洩れる声が、ラウールの声を深々と呑み込んだ。
 ラウールは手を伸ばし身体を引き寄せる。ヴェンデッタは淡い声をたてて、なすがままに裸身をのばした。
 椅子にのぼり、ゆったりと腰をすり寄せる。男の餓えたくちびるが女の肌を無闇にまさぐり、放たれる熱と香りをむさぼった。上気した喘ぎ声があふれる。
「愛しています」
 ぼんやりと射す薄明に照らし出され、妖艶な影が床に揺れる。
「貴方だけを」
「わかっておる」
 ラウールは、いつになく扇情的なヴェンデッタの行為に視界をふさがれ、身体をふるわせた。
「お前はわしのものだ」
 老いた鷹が、そう力なくうめいたとき。
 闇色の瞳に、暗い軽蔑が走った。
 冷酷な微笑が口元をかすめる。闇へ白く手が伸びて、テーブルに脱ぎ捨てられた黒衣の下をまさぐった。
「永遠に」
 声だけをあやしく息づかせながら。
 隠された意図を、ヴェンデッタの手がゆっくりと引きずり出す。
 ――すべてを凍りつかせるしろがねの刃を。
 ラウールは何も知らず、深いためいきをついた。
「お前だけだ、わしを裏切らぬのは」
 その、瞬間――

 声のないかすれた絶叫がほとばしった。
 大胆にして冷酷。水際立つ切れ味のナイフが、ラウールの喉を薙ぎ殺ぐ。
 瞬間、噴き上がった鮮血をヴェンデッタはのけぞって避ける。
 倒れていくラウールの眼だけが、茹で上がった魚眼のように裏返りつつヴェンデッタを追いかけて、あわだつかのように血走った。喉から、口の端から、目もさめる怨みの色が、凄絶な奔流となってあふれ出す。
 ラウールの身体がぐらりと大きく傾いだ。ヴェンデッタをつかもうとした手が虚しく空を切る。まるで引き倒される偶像のようだった。
 血のひとしずくだけが飛んで、ヴェンデッタの頬に奔りつく。
 床に倒れ込む、低く鈍い音がした。月の光さえとどかない漆黒にまみれて、それはもはや何の意味もなさぬ老いた肉の塊となり果てている。

 音もなく床にひろがる黒い弛み。
 残された安楽椅子が、ぎし、ぎし、今にも壊れそうな軋みをあげて揺れている。

「焼きが回ったわね、ラウール」
 ヴェンデッタは氷の微笑を浮かべ、死んだラウールめがけてナイフを振り捨てた。音もなく刃が背に突き立つ。一瞬、柄に刻まれた蠍の彫り物が月明かりに浮かび上がった。
 冴え冴えと光を映す刃から赤く、血の滴が伝い落ちていく。
「業が深い、か」
 おもむろに指の背で頬の血をぬぐう。かすれた指先の汚れを、あやしくも美しい微笑みが見下ろしていた。
 ヒステリックに揺れる安楽椅子。忍び込む闇と風。しんと凍りつく、静寂。
 それらが一点に収斂し、残酷な棘を秘め隠す美しい黒薔薇の花弁となって、匂うがごとく凄絶に咲き誇る。
「笑わせるな」
 ヴェンデッタは冷ややかに吐き捨てる。激しく追いすがる渇望をたたえた瞳に、ぞっとするほど希薄な色がさした。
「貴方には何の価値もなかった。ただ、それだけのことよ」



「追え。逃すな」
 声を荒げ、手勢を呼び集めるシェイルの後ろ姿に、ラトゥースはようやく動揺を振り払った。逃げたハダシュを追う幾つもの騒然とした足音が、ふいに降りだした孤独な雨のようにラトゥースを押し包む。
「捕らえろ。刃向かうようなら斬り捨ててかまわん」
「待って」
 数人の衛視を引きつれ、武具を猛々しく鳴らして駆け出そうとしたシェイルに、ラトゥースは鋭い制止の声を投げかけた。
「僕も行く。剣を取ってくる」
 シェイルの鋭い目がみるみる細くなる。
「奴を逃がすわけにはいきません」
 ラトゥースはうろたえ、息を呑み手を伸ばして、その巨躯が闇に消えるのを目で追いかけた。
「ちょっと待って、僕の言い方が悪かっ……」
 届かない声だけが空しく暗闇に吸い込まれる。ラトゥースの制止も聞かず、シェイルは荒々しく階段を駆け下りていった。足音が遠ざかる。
 ラトゥースは立ちすくんだ。襲ってきた自責の念に耐えかね、片手で顔を覆う。
「どうして、こんなことに」
「お嬢ちゃん」
 しぼり出すようなベイツの声に、ラトゥースは無理やり自分を引き戻した。側に駆け寄り、ひざまづいて傷を見ようとする。
「来たらあかん」
 ベイツは弱々しく払いのける仕草だけをした。
「ガラスが散っとる。それより早う、聖堂へ行ってください」
 ラトゥースは悲鳴がちに遮った。
「何言ってるんだ。こんな状態で置いて行けるわけがないだろう。誰か、誰か医者を!」
「ワシはええから」
 声がふいにかすれた。
 ラトゥースが支えようとしたときにはもう、ベイツはがくりと首を落とし意識を失っていた。壁にもたれかかっていた身体が力なく滑り落ちる。その跡に人の形をした黒ずみがまざまざとかすれついているのを、ラトゥースははり裂けそうな眼で見入った。
「命に別状はありますまい。ここは私どもにお任せを」
 ようやく駆けつけてきた宿のあるじが、ラトゥースを無理やりベイツから引きはがし、後へと下がらせる。背後から腕をとられ、抗うべくもなくよろめく。
「閣下にはやんごとなき使命がございます」
 ラトゥースは反射的に相手を睨み、何事かを言いかけて歯を食いしばった。結局言い返せず、気を失ったベイツに目をやる。
「わかった。聖堂に行ってくる。誰か付いて来て」
 混乱した思いを押し殺し、ラトゥースはうなずく。果たしてその選択が正しいのか正しくないのか、今のラトゥースには見当もついていなかった。
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