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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 狼と神官と銀のカギ 3 罠
 クーイーの闇を切り裂いて流れる猛々しい炎の帯。土煙と蹄鉄の音を蹴立てて疾駆するいくつかの馬影が、聖堂の門前に猛然と突っ込んでくる。
 眩しく、人通りも多かった昼間の様子とはうってかわって、今は不気味などよめきに満ちている。正門へと続く通りの左右に広がる木立の足下に黒々とした影が落ち、それがざわざわと、まるで寄り集まった亡霊の姿でもあるかのように形をなしては散り、また現れては縁からほどけるように消えてゆく。
 ゆるやかに、不穏に。
 風が騒ぐ。
 ラトゥースは正門に立つ二体の聖騎士像の手前で手綱を引いた。
 四方に配された青銅の灯籠が、やや青みを帯びた光を放って像を浮かび上がらせている。夜の色に照らされ青ざめて立ちつくすアリストラムとサヴァの像は、どこか張り詰め、怒りにうちふるえているかのように見えた。
 風影におびえたか、馬は前足を踏みならし、何度も頭を弓なりにそらして黒いたてがみをふるう。神経質な蹄の音が響き渡った。ラトゥースは馬に優しく声を掛けてやり、首をかるく叩いてから飛び降りた。
 同行の衛視に手綱を預け、先に正門をくぐる。すこし離れたところに、手を結びあわせうろうろと落ち着かない様子で歩きまわっている神官が見えた。
 いったん立ち止まり、荘厳な灯籠の列に照らし出される聖堂を仰ぎ見る。無数の小窓から砂金のようにこぼれる光が、闇にそそり立つ鋭い形を静謐にいろどっている。
 どこか遠くから、ひそかに階調を変えて忍び寄る不協和音の連なりのような、聞く者の落ち着きを失わせる音が伝わってくる。
 ラトゥースはわずかに身をふるわせた。耐えきれず、固めた拳を胸にあてて拝礼する。身をかがめたとき、腰に佩いた剣の飾りが揺れて、かちりとちいさな鉄の音をたてた。
 音に気付いて神官が振り向く。
「どちらさまで」
 明らかに怯えている。ラトゥースは口元を引きしめた。
「シャノア王国巡察使、ラトゥース・ド・クレヴォーです。何があったのですか」
「おお、神よ」
 神官は手で口を覆い、かぶりを振った。節くれ立った指がぶるぶる震えている。
「私は何も存じませぬ。本当でございます」
 ラトゥースはこわばった顔で周囲を見渡した。広場左手の奥に、粗野なかがり火に照らされ不穏に浮かび上がる天幕が見える。その周囲を豆粒のような人影がいくつも行き交っていた。何人もの神官が手にさまざまなものを持ってあわただしく出入りし、こわばった顔で叫んだり、あちこち指さしては指示を飛ばしている。
 何かが天幕に運び込まれている。それも次々と。ラトゥースは嫌な予感にさいなまれつつ足早に駆け寄った。
 天幕に入ろうとしていた神官が、ラトゥースを認めて立ち止まった。水の入った手桶の縁に折り畳んだ布をかけ、それを脇にかかえている。それは昼間いろいろと話をしたばかりのギュスタと名乗る神官だった。
「クレヴォー閣下」
 ギュスタは絶望の頸木に繋がれたかのような声をあげ、足を踏み出した。
「いったい何が」
 口を開きかけたとき、ギュスタの背後から恐ろしい呻き声が聞こえた。ラトゥースは挨拶もせずギュスタを押し退けて天幕へと入り込もうとして――凍りついた。
 凄惨な光景が目に飛び込む。
 数十人が苦しげな表情で体をねじ曲げたまま寝かされている。絶えることのない苦悶の呻吟、すすり泣き、悲鳴。天幕の内側は吐瀉物の突き刺すような酸と排泄物の臭いに満ち、さながら悪夢のようだ。
 筆舌に尽くしがたい惨状に、ラトゥースは言いようもない恐怖に襲われ、絶句し後ずさった。
「何てことだ」
 うめくしかできない。
「こんな、まさか」
 突然、背後が騒然となった。
「道を空けてください」
 戸板に乗せられた子供が乱れる足音とともに運び込まれてくる。粗末な板の端から腕だけがはみ出して、だらりと垂れ下がって。まだ幼いその頬は土気色で、目はかたく瞑られたまま、吐いた血がどす黒く変色して戸板ごと口元を汚していた。
 その子の顔を一目見たとたん、ギュスタは声を詰まらせた。
「リカルド」
 駆け寄って取りすがろうとするのを、別の神官が払いのける。
「治療が先だ。退け。胃の中のものを全て吐かせろ。そのあと洗浄。薬湯は後」
 せっぱ詰まった声が次々に響きわたる。
「リカルド、ああ」
 ギュスタはその場に膝をついてくずおれた。髪をかきむしり、顔を覆う。絶望のうめきがこぼれた。
「私のせいだ……私の」
 ラトゥースは総毛立つ眼差しをギュスタへ向けた。
「何をしているのです。あなたにはあなたの役目があるはず」
 鋭い叱責を飛ばす。ギュスタは弾かれたように顔を上げた。苦悶の視線が問いかけている。ラトゥースは何も答えず、いきなりずかずかと天幕の奥へ踏み込んだ。
 隅に追いやられている「死」に、厳しい目を走らせる。一歩踏み込めば、そこは死の領域だ。わずか衝立一枚で隔てられた生と死の狭間に、ラトゥースは立ちつくす。
「いけません」
 ギュスタが駆け寄ってきてとどめようとした。貴族が直接の『死』に触れることは許されない禁忌だった。だがラトゥースはギュスタの手を振り払い、白布に覆われた者の横にひざまずいた。
 マイアトールの印を切り、額に指を押し当ててから、ゆっくりと骸布を剥いでゆく。
 無言で死体を見下ろす。全身をおおう、暗紫のまだらに鬱血した死斑。大量の血を吐いてひからびた唇の色。
 毒物反応だ。
 怒りが身体の奥底からこみ上げてくるのを、ラトゥースは感じていた。
 激しく燃えて爆発する怒りではない。はりつめた氷にも似た涙。理不尽な無言の暴力、罪なき者を見境なく殺す卑怯な手口に対する、それは根元的な怒りだった。それが逆にラトゥースを冷徹に変えていく。悲しみを殺し、怒りを鉄の意志に秘めて。
 ゆっくりと立ち上がる。
 ふと昼間の情景――揉みあう男たちに叩き出される浮浪者――が思い出されて、ラトゥースは顔を上げた。
「あの鍋は、もう洗われましたか」
 静かに逆巻く声でつぶやく。ギュスタは眼を押し開いて立ち上がった。
「余りを別の鍋に残してあります。そうか、あれを調べれば」
 そのとき。
「どいつもこいつも不衛生きわまりない死に方しおって。あんたらが浮浪者どもにエサを与えるのは勝手だが、その連中がそろって食あたりで死ぬのは、はなはだ迷惑な話じゃないかね」
 傲岸な胴間声が天幕を揺らした。

「ここで食事をとった者が、街で次々死んでいるとの報告がある」
 天幕に入ろうともせずそう決めつけたのは、いかにも貴族風なキュロットと胴着を身につけ、オリーブ色の肩マントをなびかせた男だった。せっぱ詰まった状況が見えているのかいないのか、神官全員を目の前に呼び集め、もったいをつけて話し出す。
 総督配下の役人と思われるその男は、油でねじったナマズひげをつまみながら色の薄い唇を疎ましげに吊り上げて、天幕の内から聞こえてくるうめき声に鼻をゆがめた。
「よいか、総督命令を伝える。施しなどと言う偽善的な行為は今後一切、禁止だ」
 役人は尊大に言い放った。
「貴殿らの所業は大量殺人に値するぞ。不衛生な環境下において汚染された食物を配り歩いた結果、浮浪者どもがのたれ死んだのであるからな。ま、その方がクーイーの街の浄化になって良かったわけだが。とにかく、本来なら貴殿等もしょっ引いて罪に問うところであるのを、総督閣下のご厚情でお見のがし下さるというのだから、ありがたくご命令に従うがいい。施しなどという口先だけのきれい事をやってはみたものの、本心ではそろそろ懐具合が苦しくなってやめたいと思っていたのではないのか」
 その言葉を聞いたギュスタの顔が、みるみる青白い怒りに染まった。ラトゥースはギュスタの握りしめた拳がぶるぶる震えるのを見て、静かに前へと進み出た。
 足下で砂利がざくり、と鳴る。
「誰だ貴様」
 身長の差は頭二つぶんほどもあるだろう。だが、ここで退くわけにはいかなかった。侮蔑する眼差しをくれた役人に向かい、ラトゥースはまず大きく深呼吸した。
「あまりにもそれは礼を失した発言だとお思いになりませんか」
 役人は憎々しげな嘲笑をうかべた。
「総督の名代として来てやったのだぞ。その私の何が失礼か。邪魔だ小僧、退け」
 役人は無礼にも突き飛ばそうと手を押しやりかけ――ラトゥースの面前で凍り付いた。

 真実、あるいは悪を見抜く力を与する太陽と月の神、マイアトールとヌルヴァーナのしるし。

 首に下げた鎖を指にからめ、ゆっくりと引っぱり出す。細い指先に、金銀の象嵌を施された護符が、きらりと反射しながら回った。
 精緻な魔法円の中、背中合わせに重なり合う二つの翼――陰と陽、光と闇――を意匠したその刻印は、この国を統べる王の血統をあらわす紋章そのものだった。
「お前ごとき木っ端役人を相手にしている暇はない」
 たじろぐ役人を前に、ラトゥースは恐ろしく静かに言ってのける。
「お伝え願おう。大法官シド・サズュールの名において、今後この事件はシャノア王国巡察使隷下において改めるものとする。総督以下の手出しは無用。しかと心得ろ」
 役人はあわてて平身低頭し、頬肉をひくひくと痙攣させながら逃げ去った。その背中に向けてラトゥースは土を蹴り、邪な印を切る仕草をしてみせた。
「何て言いぐさだ、あいつ」
「私が愚かでした」
 今にも途切れそうな、小さい声だった。うつむいたギュスタの顔は思わず目を疑うほど青白く血の気を失っている。今にも倒れそうだ。
「クレヴォー閣下、伝令」
 どうしようもなく重い空気をかきわけて、若い男が一人駆け寄ってきた。男は略式の敬礼をし、失礼、と言ってラトゥースに何事かを耳打ちした。
「ラウールの屋敷か」
 鋭い視線で舌打ちし、伝令を睨み返す。
「分かった。僕も行こう。絶対に見失うなとシェイルに伝えて」
 そう言ってからもう一度、ギュスタを振り返った。
「必ず、解明します。かならず」
 ほっそりと優しかった眉が険しくひそめられる。打ちのめされたていの神官を見つめるまなざしは、さながらヌルヴァーナの翼先に灯るという青白い鬼火のようだった。



 月さえもが顔を背ける、泥のような夜空の下を、ハダシュは熱に浮かされた足取りでふらふらとたどっていた。目指すのはラウールの屋敷。
 頭の中にあるのは、自我を奪っていく赤い煙のことだけだ。
 行き先は地獄だと、それが自分の首を真綿のように絞めることになると分かっていた。分かっていても、向かわずにはいられない。手が震え出す前、幻聴が聞こえ出す前に、どうしてもそれが必要だった。
 周囲に人の気配はない。
 港の花街ならともかく、夜のクーイーをうろつくなど、まっとうな人間のすることではない。誰もが鎧戸を堅く閉ざし、光すら漏れないようにして閉じこもっている。たとえ隣人が強盗に襲われようと助けに駆けつけるなどもってのほか、それどころか火事場泥棒に成り下がり、金目のものを根こそぎ剥ぎ取ってあざ笑うのだ。
 欲望の街。暴力の都。
 誰もが若く熱しやすく、思うがままに乱暴に生き、年老いて穏やかに生きる術を知る前に命を落とす。それでもこの街には、王国の大部分に残された封建制度とは異なる「自由と活気、解放された文化の象徴」という表の顔があった。クーイーでの生活は、街の外に住む大多数の人々が置かれている半奴隷的な農奴暮らしと比べれば、はるかに魅力的で変化に満ちた生き方といえただろう。
 表と裏の顔。光と影をあわせ持つ街。クーイーとは、そういう街だった。

 ラウールの邸は奇妙なほど静かだった。クーイーの闇を統べる男の住処にしては閑散としすぎている。外から見える窓に灯りのついているところは一つとしてない。
 ハダシュは邸の裏手へ回り、先端を鋭利に尖らせた鉄柵を越えて忍び込んだ。しばらく息をひそめ、気配を探る。いつも庭に放たれているはずの番犬たちは、今夜に限ってなぜか鎖につながれたまま深く眠っていた。
 植え込みの影をつたって、ラウールの居間へつづく小部屋の下に立つ。
 いやな胸騒ぎがした。何かがおかしい。
 ハダシュは黒々と繁った木によじのぼり、枝伝いにバルコニーへと跳躍した。跳ね返った枝がざわりと揺れる。それでもまだ誰かに気付かれた様子はない。
 窓に鍵はかかっていなかった。そっと引き開けてみる。ちょうつがいが短く軋んだ。
 足音をさせないよう忍び入る。
 息を殺して隣の部屋をのぞいた。ラウールの安楽椅子だけがぽつんとあった。下に純白の毛皮が敷かれている。
 いつもとは明らかに様子が違う。あれでは車椅子を寄せられない。誰か別の者がいらぬ気を回したのか。それとも――
 中途半端に閉じられたカーテンのドレープから半分はみ出した白いレースが、そぞろに膨らんではそよいでいる。隅の飾りテーブルには白亜に金蒼彩を施した壺が置かれ、薔薇がたっぷりと生けられていた。
 誰もいない。
 ハダシュは心ならずも安堵の吐息をもらした。おめおめ逃げ帰ったと知れれば、どんな扱いを受けるかしれたものではない。思わず力が抜ける。
 それよりラウールの隠し持つ麻薬を探し出さなければ。
 部屋を見渡す。
 煉瓦造りの暖炉からもれる消えかけた熾火が、灯りのない部屋を朱色に染めている。灰の山には火掻き棒が斜めに突き刺さっている。透き通る赤と黒の火だけが音もなくゆらめいて、床に細長い影を落としていた。
 ほんの少量でいい。一日でもあの苦痛から遠のいていられるなら――
 そう思ってあわただしく足を踏み入れたとき。
「呆れたものね」
 ひそやかな衣ずれの音が聞こえた。とっさに身をひるがえす。
 刹那、みぞおちに強烈な棒状の一撃が食い込んだ。ハダシュは胃が裏返りそうな痛みにつんのめり、がくりと膝を落とした。意識がかすむ。
 白い手が、甘い香りのする布をハダシュの鼻と口に押し当てる。
「う……」
 馥郁とする罪の香りにひきずられる。ハダシュはつい息を止めることも忘れ、ふかぶかと揮発する麻薬をむさぼった。
 眼がくらんだ。ため息がもれる。
「なぜ貴方がここにいるの」
 あえなくくずおれるハダシュを、ヴェンデッタは片手でかるく突き飛ばした。ハダシュはぐらりと体勢を崩して安楽椅子に転げ込む。
「一人で生きるのがそんなに辛いの。そんなに弱い男だったかしら、貴方は」
 頭の奥が鉛のように重い。誰かが戻ってこいと叫んでいる。しかし身体も心も動かないまま、深くよどんだ昏い意識の海へと沈んでいく。
 ヴェンデッタはドレープのタッセルを抜きとってハダシュの両手首を縛り、吊り上げて安楽椅子の背もたれにきつく結びつけた。
「少しは抵抗する素振りを見せなさいな。じゃないと殺し甲斐がない」
 冷然と眼を細める。暗い微笑みが近づいた。
 ぎしっと木が鳴って、椅子が揺れた。ひややかな手が触れる。ハダシュはぐらぐらと頭を振った。
 髪が甘くしなだれかかってくる。
 頭はぼんやりしていくのに、生身の感覚だけが何倍にも膨れ上がっていくような感じがした。
 ハダシュはぞくりとふるえて、ヴェンデッタを肩で押しやろうとした。
「どうして。貴方と私の仲じゃない。今さら」
 ヴェンデッタの喉が、小鳩のような笑いを含む。
 細い指先がベルトに触れた。罪深い音が小さく鳴る。
 ほどかれ、差し入れられる感触だけで、身体が記憶に反応した。ほんの少し指先が触れただけで、崩れ落ちてしまいそうだった。
「今さら何をおびえてるの」
 ヴェンデッタは、深いスリットの入った黒いローブをゆったりとはだけた。白い肩、はりつめて、今にもこぼれおちそうな胸。ガーターベルトの黒レースが眼に飛び込む。
 赤い暖炉の照り返しをうけた背肌に、壮麗な黒薔薇の刺青が、とろりと艶を帯びて光っていた。
「ほら、ね。……こんなに」
 官能の闇が、匂い立つ。
 ヴェンデッタが屈み込んできた。いざなう爪が喉をつたい、顎から頬へ、ざわざわとかきたてながら這いのぼってくる。
 妖艶な微笑みが耳元にささやいた。
「酷い傷ね。身も心も傷ついてぼろぼろ――私を殺すことも、逃げきることもせず、ぶざまに戻ってきた。生きるすべを失った奴隷のように」
 突然、氷のように冷たいヴェンデッタの手が、以前負った深手の傷をつかんで、ぎりっと爪を食い込ませてきた。
「……っ!」
 傷をまともに握りつぶされて、ハダシュは苦悶の呻きをもらした。逃れようと身体を跳ね上がらせるたびに激痛が突き抜ける。
「やめろ……」
 ハダシュは耐えきれず息を乱した。身体全体が熱を帯び、朱に染まって、息苦しく耐え難く脈打ってゆく。
「支配にすがって、踏みにじられながら生かされる道を選んだ。安易に。何も考えずに」
 闇の中にひそんだ暗い眼が、そそるようにぎらりと光った。
「――そんなに欲しかったの」
 意地の悪い含み笑い。
 こぼれそうな乳房が眼前を横切った。揺れる残像が焼き付く。
 限界だった。欲望が息を呑むほどうごめいた。
「こんなにして」
 ふいに今にも触れそうなほどの確かさで、はだけた下腹部に熱い息がかすめた。たまらずうめきが洩れる。
 誘うように。突き放すように。
 危険な欲望に満ちた愛撫が、ゆがんだ波のようにのしかかってくる。
「ハダシュ」
 潤みを含んで見上げるまなざし。かすむ声で名を呼ばれ、毒の唇を寄せられて。
 とろとろ燃える情火の奥にひそんだ、氷のような眼。
「いつもみたいに」
 熱泥のようなささやきが、少しずつ、少しずつ近づいて――
「……して欲しかったんでしょ……」
 ハダシュは反射的に壊れた叫びを上げ、かろうじて自由な側の足を蹴り出した。踵がヴェンデッタの顔を狙って矢のように伸びる。
 だが不自然な姿勢からの蹴りはむなしく空を切った。ヴェンデッタはわずかに顔を背け、ハダシュの蹴りをかわす。
 髪が揺れている。
 軽蔑の表情が、ヴェンデッタのまなじりをうっすらと朱に染めた。
「まだそんな余裕があったの」 
 ハダシュは呻吟をもらし、歯を食いしばった。もう、意識の半分は麻薬の快楽に溶け、うつろに漂い流れて、姿形をなさなくなっている。
「嫌なひとね」
 椅子が軋む。裸身が、まとわりつく。
 恐ろしい微笑みがのぼってくる。ゆっくりと、薔薇の刺青が視界を覆い尽くす。

 ――この女からは逃れられない――

 ヴェンデッタは、熱く濡れた吐息を漏らした。
「私なら、たかが千スーで貴方を買うような真似はしない」
 何を言われても口答えできない。
 やわらかく、深く。うずもれてゆく刺激が、まともな感覚をすべて奪っていく。一度でも、あのおぞましい享楽を呼び覚まされてしまえば、そこからもう逃れるすべはない。
 ハダシュは堕ちた恨みがましい眼でヴェンデッタを見上げた。息が激しく荒れて、しとどにみだれる。
「……私なら」
 ヴェンデッタは手に何かを持ち変える。
 それが何なのかようやく思い当たり、ハダシュは弱々しく逃れようとした。
 多くの血を吸って、暗い赤みを帯びた柄の木肌。
 見まがいようもなかった。蠍の浮き彫りが入ったハダシュのナイフ――その刃が、まるで今しがた人を殺めて来たばかりのような色に染まって、ハダシュの胸に突きつけられている。
「貴方の血で貴方を飼う」
 ヴェンデッタは残酷に笑ってハダシュの胸を左の指先で押さえ、ナイフの先をぴん、と跳ね上げた。
 細い血がしぶく。針金のような痛みが身体を裂いた。
「憎悪と苦痛の鎖で貴方を縛る」
 憐憫を表したつもりなのか、秀麗なかたちの眉をひそめてヴェンデッタが見下ろしてくる。
 華奢な指が傷をたどり、かと思うと爪をたてられ、ぎりぎりと傷を押し広げるほど力を入れられる。またナイフがひらめいた。今度はもっと深く一直線に身を裂かれる。
 ハダシュはうつろな声をもらして身をよじった。身体のふるえが止まらない。

 こんなに切り刻まれていながら――
 濃密な牡と雌の匂いが血と汗にまみれ、たちこめていく。とっくの昔に壊された理性が、剥きだしの欲望をそのままに今はヴェンデッタを求めていた。
「それが貴方の真実。貴方の望む姿」
 ヴェンデッタは首にかけていた細い銀の鎖をはずした。逆さになった髪から白いうなじが妖艶にのぞく。
 少し力を入れれば切れてしまいそうなほど細い鎖を左右の指にかけて、ひややかにハダシュを見下ろす。びん、と張られた鎖が、弦の音のような震える音を立てた。
 ヴェンデッタはハダシュの視線をがちりと捕らえたまま、唇に微笑みを浮かべて、その鎖をハダシュの喉にゆっくりとからめた。
 ごくりと、のどを鳴らして。
 ハダシュは醜悪に頭を振る。飢えた視線が、妖艶に揺れる肢体の描き出す軌跡に吸い付いて、眼をそらすこともできない。
 匂うがごとく咲き誇る黒い薔薇。ヴェンデッタの微笑がいっそう深まる。その瞳の奥がぎらぎらと黒くあやしく燃え――

 鎖を引き絞られた瞬間、ハダシュは恍惚の呻吟をもらした。身体が痙攣する。
 もう、隠せない。
 身体を傷つけられれば傷つけられるほど、血の臭いが立ちこめれば立ちこめるほど、魂が堕ちてゆく。瓦解してゆく。
 ヴェンデッタは口元をあやしい笑いに染めた。
「血と薔薇で貴方を支配する」
 豊満な身体が、濡れた音を立ててゆるゆると動き始める。
 ハダシュはつぶれたうめきをあげた。
 椅子が揺れ動く。心のどこかが、もう堕ちてしまえ、狂ってしまえ、と叫んでいた。
「それとも、貶められ支配されることに馴れすぎて、自分では何も考えられなくなったのかしら」
 ハダシュは、一瞬我に返り、喘ぎに息をつまらせながらヴェンデッタを睨んだ。麻薬と快楽にかすんだ眼では何の役にもたたないと分かってはいたが、どうしても睨み付けてやらずにはいられなかった。
「そう、その眼。ずっと、その眼で私を見つめていてくれるなら……貴方に殺されてあげてもいい」
 ほんの少し、ヴェンデッタの面影に淋しげな様子が混じった。
「私と一緒にどこまでも堕ちてくれるなら。でもね」
 ヴェンデッタは陶然とした表情を耳元に寄せた。ハダシュの身に火をつけ、みずから揺すり立てながら、熱を帯び溶けだした氷のように微笑む。
「貴方が憎い。何もかも奪って――殺したいぐらいに」
 理性の欠けたささやきが脳裏を圧した。
 絶え絶えになった息が、白いのどからふいごのように洩れている。混ぜ合わされた欲望がどろどろに蕩けていく。
 本能だけに突き動かされる肉の塊。互いに命を狙い憎みあっていた者どうしが、餓え、発情しきった獣に戻って悦楽をむさぼりあっている。理性も正義もない。心もない。あるのはただ、すさんだ思いだけ。

 ふと、喉を鳴らして嘲笑う声が聞こえた。
「残念ね」
 汗に弾んだ声が離れていく。ハダシュは最後の瞬間を逃されたことに気付いて息をすすり込み、身体をひきつらせた。
「続きは、お預け」
 忍び入る冷笑が、一歩下がる。
 そのまま無言できびすを返し、燃え残りがくすぶる暖炉に近づいていく。
 くすんだ光を放つ火掻き棒を引き抜く。火の粉がぱらぱらと震え散った。深い陰影に沈む裸身を、残熱の朱色がほのかに照らしている。
 赤く熱せられた鉄の棒をレイピアのように振り払って、ヴェンデッタは振り返った。
「不様ね」
 次の瞬間、ヴェンデッタは鉄棒を逆手にかまえ、ハダシュめがけて残酷に突き下ろした。
 内腿の肉と皮を焼き焦がす凄まじい音があがった。ハダシュは絶叫し、身体を跳ね返らせた。支えを失った身体が、反動で椅子から滑り落ちる。
 悶え苦しむハダシュの腿にくっきりと、血を流す赤黒い数字が焼きついている。それを冷ややかに見つめながら、ヴェンデッタは焼きごてを床に投げ捨てた。カーペットが黒ずんだ煤で汚れていく。
 苦い煙がたちこめた。
「ハダシュ」
 呻き、ひきつる身体の上に身をかがめ、手を伸ばして。
 ヴェンデッタはやおらハダシュの顎をぐっと挟み、涙に濡れた顔を無理やりねじ向けさせた。
「分かったはずよ」
 恐ろしい声だった。
「貴方は私のもの」
 闇を孕んだ眼差しが、ぞっとする光を執拗に帯びて、ハダシュを見下ろしている。
「次は……貴方のすべてを手に入れる」
 やがてヴェンデッタは気配をゆるめ、薄く笑ってハダシュを突き飛ばした。それきり興味なさそうに目をそらして部屋を出ていく。足音が遠ざかった。
 ハダシュは火傷の跡を押さえた。奴隷の焼き印。それをまさか、こんなところに。
 あまりの屈辱に無意識の呻きがもれた。手足までが震え出す。
 ハダシュは自らのふがいなさに床を殴りつけた。拳が裂けて、血が飛んでも、止められなかった。



 どうやって悪夢から逃れたのか、記憶にない。ハダシュは這うようにしてラウールの屋敷から逃れ、街にまろび出た。
 頭の後ろ奥が嫌な熱を帯びて、破槌のような痛みを放っている。
 壁を頼ってよろよろと伝い歩く。逃げなければ、そう思いながらも身体がまともに動かなかった。
 幼い頃のいやな記憶が脳裏をかすめる。父の顔も知らず、母親には捨てられ、暗い森の中で獣に怯えて泣いていた。何もかもが敵だった。
 無くしていたはずの記憶が、忘却の彼方から揺り戻されてくる。過去と現在、未来までが混然と苦々しい。
「冗談きついぜ」
 ふいに声が通りすぎていった。ハダシュは息を止め、壁に張り付いた。悪夢より息苦しい現実がぶりかえす。
「〈蠍〉とかいう二つ名の野郎だろ。最低の殺し屋だって聞いた」
 ハダシュは無意識に声の跡をつけた。それは、街のどこにでもいるような少年たちだった。ふと、大昔の自分を見ているような気になる。カネになることはないか、何か壊せるものはないかと嗅ぎ回っては薄汚くうろついていた日々。
 人の痛みになどまるで関心がなかった。闇に紛れては道行く者を襲い、金を奪い背徳に溺れ、とめどなく荒れていくうちに気が付けば麻薬欲しさに売人を殺していた――ラウールの配下を。
「人を殺すのが趣味だと」
「ふざけた野郎だ。賞金いくらよ」
 ハダシュは少年たちの跡をつけるのをやめ、路地に戻って深呼吸した。じめじめした動悸を押さえきれず、眼をつぶる。かすかな吐き気をもよおす。
「どいつもこいつも」
 闇雲な怒りにかき立てられて、石壁を殴りつける。物音に驚いた猫が、戸口に捨てられたゴミの山から飛び退いた。おびえた両眼が薄緑色にぴかりと反射する。
「失せろ」
 八つ当たり気味に、小石を投げつけた。猫はすばやく身をかがめ、戸口の隙間をぬって消え失せた。長い尻尾が見えなくなる。あたりが静かになるとハダシュはさらに幻滅を感じて口をゆがめた。
 もう、どうなろうと同じだった。そのまま無防備に歩き出す。
 雲が切れて、月が顔を出した。目を覆いたくなるような薄汚い裏通りだ。道の端にゴミが掃き捨てられ、ネズミやゴキブリがうざうざとたかっている。
 喉がからからに渇く。水では癒せない乾きだった。この街のどこに何を求めていたのだろう。自由か、それとも自虐か。
 冷や汗の滲む額を手の甲で拭う。思いつめてハダシュは歩調を早めた。
 忍びやかな靴音が石畳に鳴る。影法師が自身から引き離されてゆくかのように長く伸びた。
 突然、ハダシュは足を止めた。ぎりりと唇を噛む。
 聞こえる。足音が近い。
 とっさに横飛んで路地へ駆け込む。焦った気配が駆け寄ってきた。
 武器を持っていないことへの恐怖がみるみる迫る。動悸が激しく盛り上がった。脂汗がにじむ。背後の暗闇が、何か物質のような重みと冷たさを持って流れ落ちてくるような、そんな気がした。
 直後、路地を覗いた男と真正面から眼があった。
 相手の顔が恐怖にゆがむ。
 見慣れた表情だった。ハダシュはとっさに凄みのある笑みを作って飛び退こうとする男の胸襟をつかんだ。
 足払いをくらわし、側頭部をぎざぎざの壁に削りつけながら闇に引きずり込む。
 逃れる間も許さない。男のベルトに差し込まれた幅広のナイフを瞬時に奪い取り、喉へ刃を押し付け這わせる。
「俺に何の用だ」
 凍てついた瞳で男を見下ろす。
 相手の喉仏が、ごくりと上下した。こめかみから血が垂れている。
 男はうめいた。
「ハダシュか」
 名をつきつけられて、思わずナイフを握る手に力がこもった。
 赤い髪、赤い眼、顎の細い痩せこけた顔。その存在はクーイーの暗黒街に広くいとわしく知れ渡ってはいても、顔と名まで見知る者は少ないはずだ。
「あんたを探してる奴がいる」
 思いも寄らない言葉に、さまざまな人物の名が脳裏をよぎった。
 その瞬間が、命取りだった。
 蹴りが鳩尾に突き刺さった。ハダシュははねとばされ、むせて、よろめいた。次いで背中から強烈な踵落としが落ちる。そのまま地面に叩きつぶされた。
 額が割れた。血が噴き出す。口の中にも同じ鉄錆の味が広がった。気が遠くなる。
 這いつくばるように体を起こすと、手と膝ががくがくと震えていた。眼の焦点が合わない。
 男は腰にぶら下げていた太い棒を持ち出して構えた。一面に黒光りのする鋲が打ってある。あれで顔面を殴られでもしたら、顔の半分をごっそり持って行かれるだろう。
「二目と見られない面にしてやる」
 男が熊のような腕をさすって嘲笑した。ハダシュは唾を吐いた。血と砂の混ざった嫌な味がする。錆び付いているのはどうやら身体だけではなさそうだ。
 そそけ立つ死の感覚を取り戻さなければならない。ハダシュは奇妙な好奇心にかきたてられて尋ねた。
「俺の値段を聞かせてくれ」
「聞いてどうする。命乞いか」
「自分の価値が知りたい」
「さあな」
 男は舌なめずりをせんばかりに言った。
「ラウールも目端の利かんことだ。こんな小僧一匹に」
 ハダシュは慄然とした。男はその表情を見て、そっけない笑いを放った。
「もう、用なしだとよ」
 まさか、ラウールが、自分を。
 奥歯をぎりぎりと噛みしめる。
 男が棒を振りかぶった。逃げようにも足が動かない。
 こんなことがあるのか。〈黒薔薇〉に殺されるならともかく、仲間に裏切られ、嬲り殺されるとは。

 ――仲間。

 ハダシュは音も気配も凍りついた一瞬の間隙に立ちつくしたまま、呆然とかすれ笑った。何を考えていたのだろう。ラウールもローエンもヴェンデッタも、最初から仲間などではない。
 分かっていたのに。
 最後はどうせこうなると、知っていたのに。
 後悔と、自嘲と。わずかな胸の痛みが渦を巻いて脳裏の闇に吸い込まれる。こんな奴らのことを仲間だと思っていた自分が可笑しかった。
 とにかくこれで終わる。ヴェンデッタの言ったとおりだ。思い描いていたのと同じ、クズのような、虫けらのような――ローエンと同じ、不様な最期。
 突然。
「おい」
 肩を叩かれ、ぎょっとして振り返った男の顔に、骨の砕ける恐ろしい音がめり込んだ。首がゆがみ、身体がねじれて、そして一瞬の静寂。
 男は糸の切れた操り人形のように、足下からくずおれてゆく。
 その向こう側に、拳をさすって立ち上がる巨大な人の姿が見えた。戯画化された悪魔にも似たかたちの影が、黒々と路地にうねっている。
「拳骨一発か。さすがシェイル、お見事」
 それは緊張をほぐす涼しい声だった。
「危ないところだったな。どうして反撃しなかった」
 細身の剣を帯びた華奢な影が進み出てくる。腰に手を当て、半身に体重を掛けて、ぴたりと立ち止まって。
 ハダシュはその声を聞いてうろたえ、また心のどこかで安堵する自分を感じた。
 ラトゥース・ド・クレヴォー。
 だが、別の思いがハダシュを現実に引き戻す。
 ハダシュは暗澹とした眼でラトゥースを見返した。エルシリア侯クレヴォーは国に列する諸侯貴族の中で最も有力であり、王国の重鎮的立場にある。その名を冠する人間である以上、ラトゥースもまた単なる騎士ではありえない。〈黒薔薇〉と、それを追って現れたラトゥース。この街のどこかで、何かが動いている。
「君らしくもない。気づいてなかったのか、この男にずっとつけられてたこと」
 ラトゥースはハダシュに絡めた視線をはずそうともしない。
「縄を打ちますか」
 巨漢の騎士がむっつりと訊ねる。ラトゥースはわずかに口元をゆるめた。
「いや。シェイルはそっちを頼む。僕は彼に話がある」
 騎士は命じられたとおり自ら殴り倒した男の後ろ手に枷をはめ、路地から運び出していった。荷車の音が遠ざかる。
 ラトゥースは一緒に来い、という仕草をしてハダシュに背を向けた。
「表に馬車を待たせてある。乗ってもらおうか」
 なぜか、逃げる気にはなれなかった。のろのろとラトゥースの後について歩き出す。
 道ばたにすすけた色合いの一頭立て二輪馬車が停まっていた。屋根もない。年代物らしくあちこち塗りが剥げて、変色した木の色が剥き出している。
 先に御者席へ着いたラトゥースは、ハダシュが素直に乗り込むのを不思議そうな顔でみつめていた。
「ひどい顔だな。それになんて格好だ」
「黙れ」
 ハダシュは不機嫌に唸った。
「これで拭いて。血だらけだよ」
 ラトゥースはかまわず肩越しに白い布を投げて寄越した。ハダシュは布を受け取り、無言で口元を押さえた。純白のハンカチにたちまち朱が滲む。不思議と痛みは感じなかった。
「とにかく行こう」
 ラトゥースは軽く鞭をふった。馬車はとんでもなく跳ね上がってから走り出す。振り落とされそうになって、ハダシュはあわてて手すりにつかまった。
「君の噂はいろいろ聞いてる」
 がたごと揺れる馬車を御しながら、ラトゥースはどこか嬉しそうに言った。振り向くたびに夜風が金髪をくしゃくしゃと逆巻かせる。こんな夜にはまるで不釣り合いな笑顔だ。
「二年ほど前、組織の抗争で大っぴらな殺し合いがあったんだってね。で、一躍悪名を馳せて」
「うるさい。殺すぞ」
 脅しつけてふいと横を向く。ラトゥースはひやりとする声で続けた。
「それからは闇の犯罪史に名を連ねること数十回。仕事は大胆にして冷酷、血塗られた通り名だけが手に掛けた数を知らしめるクーイー最悪の殺し屋」
 笑みが、削ぎ落とされた。
「それが、君だ」
 ハダシュは手をこめかみにあて、冷め切った仕草でうなずいた。心のどこかが自棄めいた吐息をつく。
「どうしてジェルドリン夫人を殺した」
 ラトゥースは押し殺した口調で訊ねた。もう、顔も目も、口ぶりさえ笑っていない。
「さあな」
 ハダシュはどうでもよさそうに答える。実際、殺しの理由など無いに等しかった。
「これは君だけの問題じゃない」
 ラトゥースは険しい顔をした。
「〈黒薔薇〉を壊滅させること。それが僕らの使命だ。そのためなら」
 ふたたび馬車が大きく揺れて傾き、進路をそらす。ラトゥースは視線を前方へ戻し、手綱をひいて速度を落とした。こわばった声だけが風に乗り、吹き散らかされていく。
「利用できるものはすべて利用させてもらう。分かっていたはずだよ。君もジェルドリン夫人も踊らされていただけ。絞れるだけ絞り取って、利用価値がなくなるや切り捨てる。それも自分の手を汚すことなく――そういう筋書きだったのさ、もともと」
 馬車は、不可解に入り組んだ路地を抜け、木立にかくされた引き込み口のある宿へと入っていった。馬止めに馬車を停めると、気配を察したか、黒い布をかけた灯りを下げた宿のあるじが戸を押し開けて現れる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。部屋を一つ余分に用意して。いや、さっきの部屋でいいか。それとシェイルは」
「はい、御伝言を言付かっております」
 飛び降りながら言うラトゥースにあるじがひそひそと耳打ちする。
「では」
 あるじは丁重にこうべを垂れると馬車からはずした馬を暗がりへ引いて去った。
 その後、案内された部屋は見覚えのある部屋だった。ラトゥースはどことなく倦んだ様子で笑った。
「また怪我の治療からやり直しか」
「お前も相当な馬鹿だな」
 ハダシュは後ろ手で扉を乱暴に閉め、吐き捨てた。
「俺と一緒にいたら、てめえが死ぬぞ」
「殺し屋が僕の命の心配をしてくれるの」
 ラトゥースは妙に声を弾ませる。ハダシュはうっとうしさを装って唇を曲げた。
「俺がお前を殺すって言ったんだ」
「まあそう無碍にしないで」
 ラトゥースは窓辺に寄り、ちらりと外を覗いてからカーテンを注意深く正した。
「僕らの利害は一致してる、そう思わないか」
「知るか」
 座るために部屋を横切る、ただそれだけの動作にもかかわらずハダシュは足をひきずった。振り返るラトゥースの目が鋭く瞬く。
「それとローエンって男のことも」
 ハダシュは凄惨なまなざしをラトゥースへさし向けた。
「誤解しないで。ずいぶんうなされてたからね。うわごとで何度も呼んでたのを聞いただけだから」
 やや神妙な口調で続ける。
「知り合い、いや、仲間か」
「うるせえ」
 ハダシュはベッドに身体を投げ出した。少しは跳ねるかと思ったベッドは、厚みのまるでない板敷きの感触そのままの単なる不愉快な台だった。肌触りの悪い薄っぺらなシーツが腹立たしさをいっそう助長させる。
 居心地の悪さが気に入らず、ハダシュはわざと当てつけに言い捨てた。
「白豚と一緒に殺った」
「ジェルドリン夫人のことか」
「二度も言わせるな」
「そいつはおかしいな。死体は一つだけだった。間違いなく君の手口と分かる死に方をした夫人だけの。部屋全体にひどく争った形跡があったというのに」
 ラトゥースの青い目が棘のあるひそやかさで光っている。
「何があったんだ」
「うるせえ。知るか」
 ハダシュはかき乱された思考の流れを無理矢理に塞き止めた。
「喉かっさばいてやったんだ。生きてるはずがねえ」
 思い出すのも嫌だ。だがそう思えば思うほど逆に声がわななく。まとわりつくラトゥースの視線が恐ろしい。
 ラトゥースはしばらくの間、何も言わなかった。ゆっくりとうつむき、考え込み、顔を上げハダシュを見つめてはくちびるを噛む。くしゃくしゃと柔らかい毛先が頬にあわく透ける影を落として、わずかなかぶりを振るたび、どこかもの悲しく揺れていた。
「何とか言えよ」
 堪えきれなくなってハダシュが唸ると、ラトゥースはようやく窓辺の長椅子に腰を落ちつかせた。
「尋問のつもりじゃないんだけど」
「家でママゴトでもしてろ」
「これでも騎士だと言ったろ」
 さすがにむっとした返事が返る。
「少しは立場をわきまえたらどうだ」
「じゃ、とっとと縛り首にしろ。えらそうにしやがって気に入らねえんだよクソガキが」
「ああそうかい」
 ラトゥースは押し問答に飽きたか、投げやりな口調にかえて言った。
「もし君が噂どおりの殺し屋ならとっくにそうしてる。僕にはその権限もあるし、もしなかったとしても、君一人の命ぐらいどうにでも」
 いったん言葉を切り、組んでいた足をほどいてぐっと身を乗り出してくる。強い、まっすぐな視線だった。
「事はそれだけ重大なんだ。だからいい加減突っかかるのはやめてくれないかな。僕は君を助けたい。いや君だけじゃない、クーイーの街全体をだ。こんなにいい街なのに、昼と夜とではまるで正反対だ」
 ハダシュは歯牙にも掛けずせせら笑った。
「それがどうした」
「一つ、聞いてもいいかな」
 声がふと落ちる。ハダシュはラトゥースの瞳に映り込む炎の揺らめきに心を奪われた。
「初めて人を殺したのは、いつ」
 沈黙。
「なぜ殺したのかも教えてほしいんだ」
 なぜ答える気になったのか。とにかく気付いたときには返事が口をついて出ていた。
「金だ」
「いくらで」
「半スー」
「たったそれだけでか」
「悪いか。寒くて腹が減ってイライラしてたんだ。女の分際でお役人様やってござる腐れ売女には見当もつかねえだろうさ」
 ラトゥースはあえて応じずに、さらに問いかける。
「仕事にしたのはどうして」
 ハダシュは一瞬、答えようかどうしようか迷った。聞けばラトゥースはきっとうろたえるだろう。だが、逆にラトゥースの純粋な心を踏みにじり傷つけ嘲笑ってやれる、そんな思いが罪深くうずいた。
 どこか卑屈になりかけた今の状態から逃れたかった。ハダシュは親指の爪をぎりっと噛み、肩をそびやかした。
「ヘタ打って奴隷に売られてヤク漬けの慰みものにされてたところをラウールのおもちゃに飼われた」
 ハダシュは面白そうにラトゥースを見返す。
「そう言えば満足か」
 ラトゥースは顔を歪めてうつむいた。
「ごめん」
「びくつきやがって」
 ハダシュは薄ら寒い侮蔑の表情を浮かべた。だが内心、思わぬ狼狽に襲われる。逆に、自身の台詞が喉元へ突きつけられていた。
「そんな奴はいくらでもいる。カネとクスリと女欲しさに誰彼見境無く襲っては嬲り殺すような連中だ。いちいち牢屋に放り込んでちゃ割り合わねえぞ。だから殺すならさっさと殺れ。うぜえんだよ」
「できないんだよ」
 ラトゥースのかすれた声が遮った。ためらいがちに口をつぐみ、うつむく。
「そのラウール、たぶん、おそらく、もう死んでる」
 ハダシュは絶句した。
「まさか」
「さっきの男が吐いたよ」
 罪を犯してしまった者への哀れみが、ラトゥースの表情を大人びたものにしているのかもしれなかった。
「人足寄せ元締めのラウールが病気だとかで港の荷役が止まってね。でもそんな嘘、だれも信じちゃいない。とっくにシノギを巡る抗争が始まってる。君の首に掛けられた賞金もたぶんそういうことさ」
 その途端、ラウールの死の意味が、血をはらんだ破裂寸前の腫瘍のようにふくれあがった。一言で全てがほどかれ、目の前に投げつけられる。
「切り捨てられたんだよ。体のいい生け贄として」
 ハダシュは声もなく側にあった枕をつかんで床にたたきつけた。髪をぐしゃぐしゃにしてかぶりを振る。
「そういう世界なんだな、君がいたのは」
 ラトゥースはハダシュの投げた枕を拾いあげ、その上にひじをついて組んだ指の上につっぷした。
「悲しいね」
「黙れ」
 うつむいたラトゥースの仕草が、何より胸を圧迫する。
「ラウールが死んだから何だ。俺の知ったことじゃない」
 言い張る声が無様に震える。ハダシュは顔をそむけた。動揺した顔を見られたくなかった。
「そうやってずっと本当の気持ちに蓋をして、無理をして」
 ラトゥースは手で顔を覆ったまま、思いつめた声で遮った。
「本当はそうじゃないだろ」
 ハダシュは息を呑んだ。突然の沈黙があらぬ幻想を呼び起こしていく。
 深く澱んだ水の奥底に沈むガラスのかけら。傷だらけで泥に埋もれ、半ば壊れ、輝きをなくして。でも、誰かに見つけてもらえるなら、本当の姿を信じてもらえたなら、きっと――
「勝手に決めつけるな」
 知られたくもない弱さを暴かれた気がしてハダシュは声を荒げた。
「僕だって最初、殺し屋の言うことなんてこれっぽちも信じる気はなかったさ。でも覚えてるかい、君と初めて会ったとき」
 ラトゥースは顔を上げ、かすかに笑った。にじんだ涙を恥ずかしげに拭う。ハダシュは耐えきれず目をそらした。
「君は僕を助けようとしてくれた。見ず知らずの僕を。びっくりした。でも嬉しかった。きっとそれが本当の君なんだと思う。だから僕は君を信じる。立ち直ってくれると信じてる。この街も、君も、全部」
 ハダシュは、おそるおそるラトゥースへ視線を戻す。見つめ返してくる碧眼は、決意の光をふくんで強く輝いていた。
「取引しないか」
 ハダシュは虚を突かれる。
「取引だと」
「そう。司法取引。超法規的措置と言ってもいい」
 その声は、先ほどまでの優しい口調とはまるで違っていた。
「名も無き殺し屋と〈黒薔薇〉。この二人が同時にいなくなることと引き替えに君を見逃す。返事は明日の朝でいい。ゆっくり考えて、そのあとで答えをくれ」
 ラトゥースはろうそくの火を手持ちのランプに移し、持ちあげると、部屋から出ていった。足音が確実に遠ざかる。
 ハダシュは眼を閉じた。
 ちぎれるような記憶の断片が、灰色の闇を紅に染めて静かに降り積もっていく。
 ローエンのこと。〈黒薔薇〉のこと。ラウールのこと。クレヴォーのこと。何より自分自身のこと。そのどれもが収まるべき場所になく、居場所を求めてもがきあっている。
(引き返すための黄金の橋)
 ラトゥースが口にした不思議な言葉は、過去を振り返り、現在をやり直し、未来へ歩き出すために差し伸べられた救いの呪文だ。
 もしそれが許されるなら。
 ――今が引き返す最後の、そして唯一の機会だった。
 ハダシュは立ち上がり、ラトゥースを追って扉から顔を突きだした。小さな蝋燭の炎がちょうど角を曲がっていく。
「クレヴォー」
 硬い声で呼び止める。
 炎の動きが止まって、静かに見つめ返す気配があった。ハダシュは鼻をこすり、咳払いしてから廊下に歩み出た。所在なくうろうろとし、壁にもたれてそっぽを向く。
「今の話」
 ラトゥースはその場にとどまり、ハダシュの次の言葉を待ち受けた。
「裏切ったりしねえだろうな」
「そうだね」
 真っ暗な廊下を挟んで、ひそやかな、だが強い視線が交わされあう。
「どんな理由があるにせよ、たくさんの人を殺めてきた罪を許すつもりはない。だが、もし彼が自らを悔い、償うというのなら」
 薄暗い火に沈んだ表情がほのかにゆらめいている。ラトゥースは蝋燭を手にしたまま背中を壁にあずけ、言葉を選びつつゆっくりと答えた。
「喜んで手助けをするつもりだ」
 ハダシュはうつむいた。
「悔いて、償う、か」
 もしかしたらずっと待っていたのかもしれなかった。分かっていながら見て見ぬ振りをしてきた、その言葉を。
 深いためいきをつく。取り憑いていたものが吐息と一緒にどこかへ流れ出ていったような気がした。心の在処を、ようやく――
 ハダシュは胸を押さえた。どうでもよかったさまざまな出来事のひとつひとつが、今はなぜか無性に息苦しい。
「聞いていいか」
 ハダシュは声を呑み込んだ。
「さっきのおっさん」
「ベイツのことか」
 ハダシュは我知らず口ごもった。
 突き刺さる青い視線が、何も言わずハダシュを見つめている。ハダシュは目を伏せ、歯を食いしばった。
 言葉をしぼり出すようにして、ようやく言う。
「あとで詫び入れさせてくれ」
 顔を上げる。目があった。ラトゥースの口元がやわらぐ。ため息のような微笑みだった。
 だが、その笑みはハダシュにとってあまりにも眩しすぎた。
「伝えておくよ」
 ハダシュはどこか茫然としたまま、声もなくラトゥースの手元を見つめ続けていた。
 暗闇に暖かく揺れる、ちいさなろうそくの火。消えそうで消えないそれは、ハダシュの行く手を照らす、はじめての道標だった。



 いざ決断するとラトゥースの行動は早かった。シェイルを呼び、あるじにベイツを託して夜も明けきらぬうちに痕跡も残さず宿を引き払う。
 朝もやが港から流れ込み、街全体がしっとりした乳白色に染まっていた。手枷をはめられたままのハダシュ、そしてラトゥース一行を乗せた馬車は、泥を跳ね上げながら軽快に街を走り抜ける。霧に閉じこめられたクーイーの街はどこかひっそりとして人気もなく、うるさいはずの轍の音を真綿のように吸い込んで、響かせない。
「どちらへ」
 御者席のシェイルは、ラトゥースの気まぐれとも取れる行動に怒った様子もみせず淡々と訊ねる。ラトゥースはさらりと答えた。
「マイアトール聖堂」
 だがとたんにシェイルはしぶい顔をした。
「なりません。不用意に動き回るべきではないと存じます。特に今は」
「ちょっと寄るだけだよ。必要なことだ」
 ラトゥースは、重い鉄枷に囚われたハダシュの手をちらりと見やった。
「すぐに終わるさ」

 ラトゥースの訪問を取り次いだマイアトール聖堂の神官は、ハダシュの手を縛める枷にとまどいを隠さなかった。
「いったい何ごとですか。なぜ、そのような」
「大罪人です」
 放せば長くなりそうな気配を悟ったか、シェイルは説明の手間を省く一言で断じる。神官はシェイルの厳しい顔とラトゥースの愛想良い顔とを交互に見、理解しがたい様子で口ごもった。
「院長に伺って参ります」
「ご一緒させてください」
 すかさずラトゥースが申し出る。神官がうなずくと、ラトゥースはちょっと待っているようにと念を押し、鬱金の帯を巻いた黒の僧形とともに立ち去った。
 遠くなるその後ろ姿を、ハダシュは所在なく見送る。無言のシェイルと二人きりで取り残されるのは、あまりに居心地が悪かった。時が過ぎるにつれ、次第にむっつりと重い空気が流れだす。
 つい、いらいらとため息をついて壁を蹴る。シェイルはあからさまな敵意を示して腰の剣へ手を置いた。
「不穏なことをすれば斬って捨てる」
 ハダシュはむっとしてまなじりを吊り上げた。
「黙れ下っ端」
「ほざくな罪人の分際で」
 シェイルは堂々たる存在感を背後にハダシュを見下ろした。
「姫はああいうお方だ。つい相手にほだされて立ち直らせることばかり考える」
 ハダシュは眉をひそめた。
「ついって、こういうの、あいつの趣味なのか」
「もし姫のお気持ちを踏みにじるようなことあらば容赦せぬ。そう言ったのだ」
 シェイルはそれきり押し黙った。ハダシュも機嫌を悪くして黙りこくる。
 やがて神官ひとりが戻ってきて、ついてくるようにと言う。二人は最悪の雰囲気を保ったまま聖堂奥の部屋へ通された。
 鉤の字に置かれた木の長椅子が二脚。壁にはマイアトールを象徴する太陽の木の絵画。それだけしかない質素な部屋だった。
「何だ二人ともその顔は。ぶすっとして」
 先に座っていたラトゥースが苦笑混じりに腰を上げる。
「子供じゃあるまいし。ほら」
 向かいに座っていた老神官が顔を上げた。他の神官と違い、ただ一人、マイアトールの象徴である鬱金色の衣に黒の帯をしめている。
「ダルジィ院長、この者が先程申し上げたハダシュです。なにとぞよろしくお取りはからいくださいますよう」
 だが当のハダシュは挨拶もせずそっけなく突っ立ったままだった。ダルジィ院長は柔和な細い目でハダシュを見やる。口元にきざまれた深い皺が疲れた笑みを形作っていた。
「よかったな。懺悔させてもらえるそうだよ」
 ラトゥースはこれ以上ないという爽やかな作り笑いを浮かべハダシュに言った。
「何だと、誰が懺悔だ」
「じたばたするな。みっともない」
 怒鳴りかかったハダシュの襟首をシェイルが無言で引っ掴む。
 ダルジィ院長がぽんと手を含み叩いて小坊主を呼んだ。丈の短い灰色の法衣を身につけたいがぐり頭の少年僧がすり足で現れ深々と頭を垂れる。
「ギュスタ神官に準備をするようお伝えしなさい」
 言い置いて院長は立ち上がった。
「犯した罪の重さを知り良心の呵責を知れば、全ての罪は赦され魂もまた癒されるでありましょう」
「重ね重ね痛み入ります」
 ラトゥースは手を組み合わせて軽くひざを曲げる神式の会釈を返した。
「さあ行こう。シェイル、頼むよ」
「承知仕りました」
「畜生、放しやがれこの野郎、なんで俺が」
 ハダシュは怒鳴り散らしながらもシェイルに無理やり首根っこを掴まれ、引きずられていった。

 クーイーのマイアトール聖堂は、滑らかなヒスイを思わせるドーム屋根の大伽藍を中心に、白い玉砂利を敷き詰めた回廊によって礼拝堂それぞれを結ぶ五稜型に築かれている。さほど広くはないが、境内の中には神官たちの住まいや遠方からやってくる参詣者のための宿坊などもあり、今は季節柄閑散としているがマイアトールの太陽節や季節折々の聖なる日――夜と月の女神ヌルヴァーナの星夜節、英雄アリストラムとサヴァの祝凱節、あるいはかつて深い関わりがあったとされるバクラント竜神祭など――が言祝がれるときは、それはもう賑やかさをきわめ、聖堂周辺を鬱金の布を頭に巻いた巡礼がうずめつくすほどだという。
 夜も明けやらぬ時間のためか、回廊に参拝客の姿はなかった。物珍しそうに壁のレリーフに見入りながら行くラトゥースに、すっかり観念した様子のハダシュがうんざりと付いて歩き、さらにその後をシェイルが影のように従う。
 レリーフの所々に埋め込まれた禍々しい形の骨や角は、かつてこの辺りの森に住んでいた竜や魔物の怨念を今も訴えかけているかのようだった。回廊全体が海の底のような青白く凄涼な輝きに満ちている。
「すごいね」
 ラトゥースは壁の化石に触れながら、ハダシュを振り返った。
「全部ホンモノだ」
「それがどうした。珍しいのか。そんなもの地面を掘り返せばいくらでもゴロゴロ」
 ハダシュはつっけんどんに答える。
「だいたい竜ったって、単なる馬鹿でかいトカゲだかコウモリだか、だろうが」
 ラトゥースは壁に鼻をこすりつけそうなほど近づき、指先で骨に触れ、ためつすがめつしげしげと眺めた。
「そういう生き物が生息していたという事実が喜びであり感動であり驚きなんだよ。見てよこの骨格。象と同じぐらいだ。バクラントには彼ら”竜”の子孫がまだ生きている。”竜薬”の噂は君も知ってるだろ」
「知るか」
 懺悔の塔は伽藍の裏手にあった。華やかな本堂とはうってかわって、ざわざわと風に揺れる木立に囲まれ、外界と遮られたひっそりと暗い空気の中に建っている。灰白石のざらついた壁に墨葺きの屋根という色合いは、潮の香りも冷たい朝霧に溶け込んだせいもあってか質素というよりむしろ陰鬱でさえあった。
「さ、行ってきて。表で待ってるから」
 ラトゥースは塔の前で立ち止まり手を振った。シェイルが念を押すように言う。
「逃げるんじゃないぞ」
「うるさい、デカブツ」
 ハダシュは舌打ちし、いかにも古めかしい塔の扉を引き開けた。閉じこめられた臭いが洩れだしてくる。
 窓もない控えの間は薄暗く、誰もいない。ハダシュはなかなか踏み込む決心が付かず、扉をつかんだまま、しばし立ちつくしていた。
 塔の奥へつながる渡り廊下は、人が一人ようやく通れるかどうかといった狭さだ。一直線に刳られた左右の壁に、無数の蝋燭がゆれている。たちのぼる香りは胸に優しく、夜に聞く波の音のようだった。
「どうぞ、奥へお進み下さい」
 どこからともなく声が聞こえてくる。
 ハダシュは嫌悪の吐息を一つもらし、後ろ手に扉をばたりと閉めた。
 奥隣の部屋をふわりと横切る黒い衣が見える。ハダシュは狭い通路をすり抜けた。
「ギュスタと申します」
 待っていた墨衣の神官がふかぶかと頭を下げる。蝋燭の火を吸って朱のさざなみ色に映える鬱金色の帯がまぶしい。反響する声はすこしくぐもって、聞き取りづらかった。
「どうぞ、こちらへ」
 神官が、ゆっくりとその顔を上げる。
 音のない閉鎖された空間に、あかるく、それでいてどこかあやしく、ひっそりと蝋燭の火が燃えている。壁に走る、不穏なしぐさの影。

 次の瞬間――
 神官は悲鳴を上げ、仰け反り後ずさった。

「待てよ」
 とっさに追いすがる。
 手首を掴んだとたん、思いもかけず鋭い手刀が振り下ろされた。反射的に体をひねり、びゅっとかすめた腕を取って逆に引きずり寄せる。
 息を呑んで跳ね返った身体のどこかが壁際の台座に当たった。上に置かれていた青銅製の天使像がぐらりと傾ぐ。
 神官は悲鳴を上げて立ちすくんだ。手を伸ばす間もなく、天使像が悲惨な音をたてて床へ転がり落ちる。
 胸元にかかった黒い石のペンダントが狂ったように飛び跳ねる。神官は総毛だつ表情を浮かべ、激しくもがいた。
「何をする。放せ」
「お前――」
 神官がびくりと身を震わせる。ハダシュはいっそう腕をひねり上げ、ぐいと押さえ込みながらまじまじと神官を見下ろした。信じがたい思いで眼を押し開く。
「あのときの」
 あのとき――ジェルドリン夫人を殺した夜。間違いない。ハダシュは確信した。確かにこの男だ。ローエンが整理屋へ連れてゆくとうそぶいていた――罪におののく眼をした神官。
 気配がみだれた。一瞬の間をおいて、遙か遠くに時を告げる荘厳な鐘の旋律が鳴り渡り始める。神官は怯えた視線を走らせた。
「手を、手をお放しください」
 ハダシュは手を振り払い、神官を突き飛ばした。息詰まる呻きがこぼれる。
 神官はよろめくようにくずおれて膝をついた。床に打ち転がった青銅の天使像へよわよわしく手を伸ばす。
 天使の顔にできた醜い傷を、思いつめたていで見おろしている。取り返しのつかない傷だった。磨いただけでは取れそうにもない。だが、もしかしたらそれは今ひらいたばかりの生々しい傷などではなく、もっと以前から、人知れず苦しむかのように刻み込まれ続けてきた後ろ暗い傷なのかもしれなかった。
 心許なく揺れてくゆる薄明に染め上げられ、懺悔の塔はふたたび異様な静けさへ戻ってゆく。ハダシュはおそろしくこわばった表情をつくって神官と向かい合った。
「なぜ貴方が」
「それはこっちのセリフだ」
 ほの昏く吐き捨てる。神官は唇を噛んで顔を背けた。
「カスマドーレの仲間が、なぜラトゥースさまと一緒に」
 今にも心臓が止まりそうな青白い顔。
「あの御方までが、まさか」
「ふざけるな」
 ハダシュは、神官の口からもれた名に暗い蔑みをうかべた。
「奴隷商人ごときとあいつを一緒にする気か」
 神官はぐっと言葉を呑み込んだ。黒のペンタグラムをまさぐり、握りしめる。
「ああ、そのとおりだ。何という冒涜を、私は」
 おののきの声で悲痛につぶやく。神官の顔は陰鬱に深く沈み、自らの内部に潜む闇と戦ってきた懊悩をそのままにあらわしていた。
「神に仕える身でありながら教えに背き罪に怯え罰を恐れ――こんなことなら、あの方にお会いしたその時に汚れたこの身を投げ出し赦しを請えばよかった。また罪に罪を重ねるぐらいなら」
 掌が白くなるほど握りしめられたペンダントに、ハダシュはふとめまぐるしいほどの既視感を覚えた。確かにどこかで見た記憶がある。これとよく似た、だがまったく違う別の何かを。
 分からない。思い出せなかった。しかし追い詰められでもしているかのような強迫感が心根の深い部分に食い込んで離れない。
「何のことだ」
 ハダシュは息を押し殺す。
 絶望の吐息が聞こえた。
「でも、もう遅い。何もかも遅すぎたのです」
 神官は天使像を手に、ゆっくりと振り返った。

 ラトゥースは礼拝堂の席についてぼんやりハダシュを待ちながら、自らの夢想を追いかけていた。いつの間にか外はまぶしく白んで、天窓から射し込む光のほうが明るく感じられるほどだ。
 聖杯盆から泡立つ小さな音を立てて水がこぼれ、光るしずくを跳ね散らす。見上げる天井のフレスコ画もまばゆいばかりの色彩にあふれている。楽器をつまびく天使、一輪ずつの花を手にした妖精たち、眠る猛獣の隣で草を食む子羊。
 鐘の調べが思いも寄らぬ近さで聞こえてきた。澄んだ音、低い音、それらが幾重にも重なり合って朝の空気をふるわせていく。
 ラトゥースはつと立って、壁に掛けられた古めかしいランプをひねり消した。

(理想というものはですね、いつも、この風景のように眩しくあらねばならないのですよ)
 いつだったか、イレミー湖畔の別荘で刺激的な夏を過ごしていた少女の日に、そう言われたことがあったのを思い出す。
(一点の曇りもあってはいけない。理想に裏があってはならないのです。己が目に映る森羅万象は唯物世界にあらず、心の有り様をこそ映すのだから)
 湖面を吹き渡る風に月光の髪をあそばせて立つシャノアの宰相。当時はまだ遙か高嶺の殿上人だと信じていたひとが、珍しく心安げにラトゥースを呼びよせてそう言ったのだった。
(貴女の理想は何ですか、ラトゥース)
(理想だなんて、わたくし如き若輩者が抱くにはまだ)
(そんなことを言ってはいけません。貴女は私たちの希望です)
 優しく髪をなでられ、ふとかげる日差しに、そっと引き寄せられ――
(殿下、わたくしは)
 耳元で、ぞくりとする声がささやかれる。
(私の理想は、兄です)
 思わず見上げようとしたラトゥースに、宰相はしかし動くことを許さなかった。
(兄は私のすべてだ。この国であり、この国の王であり、私のあるじでもある。私の信じる理想、あるいは光そのものです。兄とシャノアを守るためなら、私は)
 なぜか一瞬、感じる気配が冷たく軋んだような、そんな感覚。あれは、何だったのだろう。
「理想と現実か。あのひとは」
 無意識につぶやく。ラトゥースはふと耳元をかすめた虫の羽音にどきりとして我に返った。うたた寝をして思い出を夢に見たのかもしれなかった。
 気を取り直して頭を振る。
「信じるって決めたんだ」
 迷い込んできたらしい甲虫が出口を求めてぐるぐると舞い、ガラス窓に突進しては、何度もぶつかって跳ね返る。ラトゥースは苦笑いして立ち上がると虫のために窓をあけてやった。羽音だけを残し、虫はあっけなく飛び去ってゆく。
「それが僕の正義だ」
 ラトゥースはつぶやいてためいきをついた。断片的、刹那的な事件が連綿と起こりすぎる。一つずつ整理し順序立てて考えなければ、次に何をすべきなのかも分からなくなりそうだった。
「とにかく聞き込んで回るしかないな。悩んでも仕方ない……」
「誰かいないのか」
 突如、何かめきめきと砕け折れる音が響き渡り、差し迫るハダシュのさけびがつんざいた。
 声はアーチ柱で隠された北側の廊下奥から聞こえてくる。激しく壁を殴りつける音が続いた。
 まさかそんなところに通路があるとは思いもよらず、ラトゥースは驚いて立ち上がる。
「ハダシュ、どこにいる」
「いいからさっさと開けろ、馬鹿」
 ほの暗い薄闇の隅に、天使の衣装をまとい腕に赤子を抱いたヌルヴァーナ像が設置されている。四方を取り囲むアーチ柱はヌルヴァーナのひろげる四対翼を模し、天井を支え、床と繋がる。そのヌルヴァーナ像の足下、台座の部分に四角く切られた扉の形があった。
 ラトゥースはドアをこじ開けようとした。だが取っ手らしき突起は何もない。
「こっちからは無理だ。開かない。そっちに人はいないの」
「冗談じゃない、あいつは」
 ラトゥースはただならぬ予感を感じて扉に体当たりした。だがそれぐらいの力ではたわみもしない。あえなく跳ね返され、肩を押さえよろめく。
「ちょっと待って。僕じゃだめだ。誰か呼んでくる」
「もういい。それよりあの馬鹿を連れ戻せ」
 扉の向こうのハダシュもまた、恐ろしく緊張していたに違いない。低く殺された声が動揺を孕んでかすかに震えている。
「誰が馬鹿だ」
 言いかけて息を呑む。中から金属をたたき壊す凄まじい音がした。扉が蹴破られる。
「逃げやがった、あの野郎」
 土埃が立ちのぼるなか、傷だらけの天使像を手にしたハダシュが蒼然と現れた。
 冒涜の仕草で像をうち捨てる。翼をもがれ、顔をつぶされた青銅製の天使像が点々と大理石の床を転がった。ラトゥースは驚きのあまり眼を押しひらいた。
「どうしたんだ、その怪我。それにギュスタ神官は」
 ハダシュのこめかみから、ぞっとする量の血がしたたっている。血は耳裏を濡らし頬を伝い、肩口を真紅の網状に染めて、止まる様子もない。
「冗談じゃねえ。あいつは」
 ハダシュは手にからみついたままの鎖を凄絶に鳴らし振り払って、獣のまなざしを突き返してきた。
「〈黒薔薇〉だ」



 捜索に出ていたラトゥースが僧坊に戻ってきたのは、深夜をはるかにすぎた時間のことだった。
 疲れ果て、泥のように長椅子へと倒れ込む。頭をまるめた小坊主が冷たい蜂蜜果水をささげにやって来るのを見て、ようやくラトゥースは身を起こした。
「ありがとう。生き返るよ」
 よく冷えて水滴のついたゴブレットに口をつけ、大きなため息をつく。
「シェイルはもう戻ってるかな」
「はい」
 小坊主は銀盆を前にかかえ、頭をたれた。
「調書を取っておられます」
「そうか」
 しばし、そのまま考え込む。
 ラトゥースは意を決して立ち上がった。
 部屋の隅へゆき、籐で編まれた長櫃をあける。中は雑然と放り込まれた荷物で埋まっていた。穴の空いた靴もあれば、もはや飲めるかどうかも定かではないような酒の小瓶まである。
 それらをかき分けて、一番奥底に埋もれていた古い茶色のトランクをひきずりだす。ラトゥースは表情をかたくひきしめた。
 注意深くトランクの留め金をはずし、ゆっくりとふたを開ける。硝薬の臭いがつんと漂った。布越しに伝わるずしりと冷たく重い手触り。深紅のベルベットにくるまれたそれを、ラトゥースは声もなく手に取って見つめる。
 指先でベルベットの隅をつまみ、はだけると、銃床に施された華麗な金の装飾が垣間見えた。
 クレヴォー家の紋章が刻まれた短身銃。
 ラトゥースは銃をデスクの上にゆっくりと丁寧に置き、腰のベルトにホルダーの留め具を通した。二、三度揺すって位置を確かめる。
 銃をホルダーに納め、火薬袋を提げる。青い眼に悲壮の決意が宿った。
「さてと」
 ラトゥースは思いを振り切るように長櫃の蓋を閉じ、立ち上がる。
「ありがとう。ごちそうさま。おいしかったよ」
 小坊主の前をふわりと通り過ぎざまゴブレットを戻す。小坊主は漂う硝煙の残り香に緊張した様子でお辞儀を返した。その仕草にこわばった微笑をむけてから、ラトゥースは部屋を後にした。シェイルもおそらくハダシュの部屋にいるだろう。
 ハダシュのところへゆくと、当の部屋の主はだらりと下げた手に木枷をはめられたまま、長椅子に傲岸な態度でもたれていた。この上もなく不機嫌な顔をしてそっぽをむいている。額に巻かれた包帯は白く新しいものだったが、ラトゥースは奇妙な既視感におそわれ、うんざりと眉をひそめた。
「何で君ばかり怪我するんだろうね」
 声に気付いてシェイルが振り向き立ち上がった。敬礼する。
「お疲れ様でした、閣下。ギュスタ神官の行方は」
「だめだ」
 ラトゥースは簡礼を返しながら短く答えた。
「まったく見当がつかない。聖堂の皆にも心当たりを訊いてみたけど」
 力無く頭を振る。居心地の悪い沈黙が続いた。
 シェイルもハダシュも、それぞれの思惑を秘めた眼でラトゥースを見つめている。そのことがかえってラトゥースの気持ちを揺さぶった。
「ハダシュ、本当に……」
「おまえまで俺を疑うのか」
 ハダシュは反射的に声を荒げ、そのまま投げやりにため息をついた。
「別に、かまわねえけどな」
「誰もそんなこと言ってない」
 ラトゥースは疲れた声で応じた。
「あのギュスタが〈黒薔薇〉だなんて信じろっていうほうが無理だ」
 ハダシュはむっとして黙り込む。ぎすぎすしかけた雰囲気を察したか、シェイルはどこか諦めたようなため息をついて言を引き取った。
「閣下はギュスタ・サヴィスの正体をご存じない」
「口のきき方に気をつけろ」
 ラトゥースはじろりとシェイルを見返し、険しい声でとがめた。淡々とした、それでいてどこか突き放した感のある声が不当な叱責を遮る。
「ギュスタ・サヴィスは、かつてラ・フォーニアの地にその名を連ねていた騎士でありました」
「何だと」
 ラトゥースは驚いてくちびるを引き結ぶ。
 ラ・フォーニアの領主筋といえばエルシリア侯家とも縁戚関係にある旧家である。現当主は王国騎士団長のバーナム・フォーニアだが、王都守護の任と兼ねることはできないため、領封の主としての騎士伯家はバーナムの一人娘でラトゥースの乳姉妹にあたるセレムがつとめ、その補弼を前当主が務める。ラトゥースとセレムは同い年で、竹馬の友でもあった。
「そんな重要なことを、どうして今まで」
 シェイルの表情に苦悩が混じるのを見て、ラトゥースはささくれ立つ感情をどうにか鎮めた。
「分かった。続けて」
「十年前」
 ためらいがシェイルの男らしいおもてをゆがませる。
「当時、サヴィス家には有力な後見人もおらず、若くして家を継いだギュスタの他には病弱な母とまだ幼い妹がいただけと聞き及びます」
 ふいに風が鳴った。壁にかけられた黒金の古いランプがすきま風に火を揺らがせる。
 今にも消えそうなほど細く、くらく、弱く。
「ギュスタは毅然とした、しかし孤独な騎士でした。シャノアも建国されたばかり、世情も今ほど平穏ではなく、国を支える立場としてエルシリア騎士の重圧は特に大きく――その中で暮らしに追いつめられ、責務をも果たせぬ状況に追い込まれたギュスタは、仕方なくレグラムの口利きでハージュへと赴き一下士官として騎士団への入隊を成したそうです。ですがその代償はあまりに大きかった」
 陰火がゆれ、芯を焦がして、苦い煙を立ちのぼらせていく。シェイルはランプに油をつぎ足すために席を立った。
「ギュスタ・サヴィスの母は告発の手紙だけを残して自殺。妹のほうは行方すら」
 ラトゥースは手で口元を覆った。
 どこか遠くの闇から、悲鳴のような犬の遠吠えがきこえてくる。
 長い沈黙の後、ふたたび灯りが戻ってきた。背を向けたシェイルの肩越しに、陰鬱な影と対照的な光がひろがっていく。
「もういい」
 ラトゥースは力無い仕草で顔をうつむかせた。思いつめたかぶりを振る。
「ギュスタを探そう。まだ、間に合う」
 シェイルは壁に向かったまま、棚に手をついて振り向かない。低い声だけがもれ伝わってきた。
「ギュスタは実直すぎました。愚かすぎました。誰もがレグラムの罪を知っているのに、法にまかせず自らの手で憎むべき相手を断罪しようと――それもまた罪だと知っていながら」
 ラトゥースは言葉を失い、あおざめたくちびるを噛んだ。
「罪を背負い、苦しみを越え、街の人々に奉仕することで過去の過ちを償おうとしているときに過去を暴くのは忍びないと思いました。だからこそ敢えて申し上げませんでした」
 シェイルはゆっくりとハダシュへ目を移す。
「彼の心を思えば――それでも我々は、法を執行する立場にあるのです。人を許すのも役目だとは思いますが、過ちを正さない者を罰するのもまた法の役目なのです。もし、ギュスタ・サヴィスが罪に罪をもって応え、ふたたび怒りと憎しみに身を委ねるのであれば、法の名の下に彼は断罪されねばなりません」
「それがてめえらの正義か。そんなものが」
 ハダシュは吐き捨てるように口を挟んだ。シェイルは太い眉をぐいと動かした。
「貴様に何が分かる」
「知るか」
「二人とも静かにして」
 ラトゥースは声を殺した。
 正義と理想は国の光だ。宰相はそう言った。でも、そう言っておきながらあのひとは、寒々とあおざめた表情で笑っていた――。
 分からない。だが分からずとも信じるしかなかった。滲んだ涙をひそかにぬぐって顔を上げる。
「もし、子供たちや病気の人に見せていたあの顔が全部嘘だったとしたら、僕も彼をゆるさないよ」
 それはもう王国巡察使の顔だった。シェイルは短い吐息をついて居住まいを正した。
「では私はもう一度ギュスタの行方をあたってみます」
「御立派なことだ」
 小馬鹿にして肩をすくめるハダシュを無視してシェイルは立ち去った。
 ラトゥースは不安にかられ、シェイルの消えた扉が閉じていくのを目で追いかけた。そのまましばらく、ただ扉を睨み続ける。
「クレヴォー」
 ハダシュは重い鎖のついた枷を持ち上げた。
「これを外してくれ」
 ラトゥースは疲労の色濃いため息をついて、囚われていた視線を扉からひきはがした。ちらりとハダシュのほうへ目をやり、椅子に腰をおとす。
「まだそんなものを」
 あたりまえだったはずのことが、今はなぜか無性に不安で仕方がない。息苦しい考えに沈みながらラトゥースはポケットにしまった鍵を取り出し、何の気なしにハダシュへ投げてよこした。ハダシュはそれを左手で軽く受けとめた。鎖がじゃらりと鳴る。
 あきれる目がラトゥースを見返していた。
「本気なのか」
「何が」
 ラトゥースはぼんやりと繰り返す。
「あきれたな」
 手を縛めていた鉄鎖が、凶悪な音を立てて床にすべり落ちる。ハダシュは凄味のある笑みを浮かべた。
「逃げたらどうする」
 ようやく意図に気付く。ラトゥースは動転して中腰に立ち上がりかけた。その様子を見て、ハダシュは唇の片端をにやりとつりあげた。
「やめてよそんなこと」
 たちの悪い冗談と気づいてラトゥースは大げさなため息をもらした。ハダシュは一瞬、興に準じる笑みを浮かべる。しかしすぐにその表情は殺気立ったものへとすり替わった。
「ローエンは整理屋だった。借金で首を回らなくなった連中を人買いに売り飛ばす仕事だ。そのギュスタがカスマドーレに売られながらまだここにいたということは」
 ハダシュの口から出てきた意外な名前に、ラトゥースは暫し言葉を失った。
「待って。カスマドーレって銀ギルドの」
「それは表の顔だ。誰でも知ってる。クーイーの人間なら」
 ハダシュは陰湿に吐き捨てた。
「いや、それにしても」
 ラトゥースはわずかに青ざめた。レグラムとカスマドーレが癒着しているのはもとより承知だが、当の奴隷商人がカスマドーレ自身だったとは全く思いも寄らないことだった。だが、それが本当ならギュスタが議会や総督府に抱いていた失望や憎悪にも納得がいく。
 ハダシュは苦々しげに舌打ちした。
「で、どうする。奴を信じるのか、信じないのか」
「どうしてそんなことを聞くんだよ」
 ラトゥースはのろのろと顔を上げた。
「信じたいさ。でも」
「でも、か」
 ハダシュは興味を失ったようだった。つっけんどんに言い捨てる。
「お前の他に奴を信じてやろうなんて馬鹿はいないと思ったが」
 ラトゥースはまじまじとハダシュの顔に見入った。片意地を張ったような、怒っているような、どこか子供っぽい表情に目をみはる。
 新鮮な驚きと感動にも似ためざましい思いがこみあげた。
「そうか」
 まっすぐな光が一本、射し込めてきたような気がした。
「そうだね」
 ラトゥースは心底のびやかな気持ちになって、息をはずませる。
「君の言うとおりだ。疑う理由なんてない。ただ信じればよかったんだ。君が僕を信じてくれたように」
 まっすぐにハダシュを見つめる。ハダシュはなぜか見る影もなくうろたえ、ぎごちなく背をむけると床の鎖を足で蹴とばした。



 「妙薬あれこれ……イブラヒム」の看板の下、胸をはだけた白いシャツに腰高のベルトを締め、頭に極彩色のターバンを巻いて、悠然とキセルをふかす男が座っている。浅黒い肌、哲学者のような彫りの深い風貌はまさしく南国人風だ。
 男の後ろは鍾乳洞を思わせる間口の狭い店になっていた。薬臭い空気がにじみ出してくる。
 気配を聞いて、男は切れ長の眼を開いた。
「ふむ、まだ生きてたかねこの兄さんは」
 柔らかくもつれる異国なまりに、ハダシュはニヤリと笑ってみせる。
「勝手に殺すな」
 薬屋の主はずらりときれいに並んだ歯を見せつけて応えた。
「死ぬようなタマじゃなかったね」
 ハダシュは肩をすくめた。
「話がある。邪魔するぞ」
 親指でちょい、と中を指さして見せる。薬屋は頷き、腰掛けていた台車の脇についた車輪を手際よく漕いで、あとじさるように店へ戻った。
 さりげなく目を配ってから、身をすべり込ませる。
 ハダシュは後ろ手に戸を閉めた。
「カギは閉めさせてもらう」
 北側の細い窓から差し込む残照のほか、店の中には明かりひとつない。さまざまな匂いの入り交じりたちこめる暗闇に、ハダシュは悪辣な目をほそくした。
「好きにしな」
 イブラヒムは気にもしていない。店の奥にある専用のいすに体を移している。
「”蠍”が何の用ね。ラウール裏切ってなぶり殺しにあったんじゃなかったのかね」
「すかした法螺吹くんじゃねえ」
 ハダシュはイブラヒムの正面、転がしてある酒樽に座った。目の前の棚にある小さな黒い瓶を手に取り、手慰みに揺すってみる。水の鳴る音がちいさくした。
「あー、それ、割ると死ぬね」
 イブラヒムは皮相な笑い声をたてた。ハダシュはぎょっとして瓶を棚へ戻す。
「ところで」
 話を始めるのに長々とした前振りは面倒だ。単刀直入に切り出す。
「聖堂で施し食った連中が次々に死んだ話、聞いたか」
「ああ」
 イブラヒムは浅い笑いをうかべ、何げに身を乗り出した。
 くっきりと深い杏仁型の眼が鋭く光っている。ハダシュはラトゥースから説明された限りのことを話した。イブラヒムは首を振った。
「これ以上そんな毒まき散らされたら、こっちは商売あがったりね」
「あんたの手に入らない毒があるとは知らなかったな」
「嫌み言うかねそこで」
 店の奥から真っ白い毛並みの猫が悠然と現れた。媚びたように鳴きながらイブラヒムの車椅子に身をこすりつけ、尻尾を揺らしている。
「よしよし、お腹空いたか。ちょっと待ってるね。殺し屋さん帰ったらね」
 ハダシュはくちびるをゆがめ笑った。イブラヒムはそ知らぬ顔で猫に手をのばす。
「そいつはたぶん竜薬だ。竜の角さね。近頃話を聞くようになった」
 猫は気持ちよさげに身体を伸ばし、のどをごろごろと鳴らす。
 ハダシュは眉をひそめた。竜薬という言葉、どこで耳にしたかおぼろげな記憶がある。
「何ともおかしな話でね。竜の角っての、右の角と左の角じゃ全く逆の効能になるとかで、どっちがどっちやら分からんらしい。一方は何百人と殺せる猛毒、もう片方は反魂の仙薬とか。ま、見て分からなくても、とりあえず食えば分かるさね」
 イブラヒムはいやらしく笑った。餌を催促してか猫が不満そうに身をよじらせはじめる。
「噂じゃ、この街の総督が奴隷ギルドの口利きしてやって手に入れたとか聞くね。そんな噂、誰が流すかね。賄賂さえやっときゃ無害なのに欲を出したか」
 イブラヒムは猫をなだめて抱き上げようとした。
 しかし猫は、高慢な仕草でぷいと顔をそむけると、高くした腰と尻尾をくいっと振って奥へと消えていった。
「ラウールが消えて港もガタガタしてるし。総督の醜聞を楯に荷物を運び出そうって魂胆かね。行き先は、はて」
 気取った腰つきを見送ってイブラヒムは苦笑した。
「そう言えばこの間から変な船が沖にあるね」
「バクラントか」
 そこまで聞いて、ハダシュはようやく思い出した。聖堂の回廊に埋め込まれていた大量の化石だ。あれは竜の骨だが、骨があるなら角があってもおかしくはない――
「『竜は生死に関わらず門外不出、鼻の先から尻尾の先、クソのひとかけらに至るまで』バクラント王さまの許可なくしては持ち出し不可ね」
 ハダシュはふてぶてしく片頬をつりあげる。
「殺しちまえばいい」
 イブラヒムは嬉しそうに歯をむき出して笑うと、異国の神に祈る仕草をしてみせた。
「相変わらずね。そういうとこ」
 ハダシュは納得して酒樽から飛び降りた。欲しい情報はあらかた手に入った。あとは継ぎ合わせていくだけだ。
 ポケットに手を突っ込んで、見たこともない色の金貨を二枚、イブラヒムに投げる。
「これで酒でもやってくれ」
 イブラヒムは金貨を器用に受け止めると、色の悪い舌でちろりと唇をなめた。上目遣いでハダシュを見上げる。
「あれはどうするね」
「要らない」
 ためらわず断る。イブラヒムは粘っこい笑いに肩をゆらした。
「さては寝返ったね。断つのはいいけどあとがキツイよ」
「勘ぐってんじゃねえよ。じゃあな」
「っと待ちな」
 立ち去ろうとしたハダシュを、イブラヒムは手を伸ばして引き留めた。何かを握り込まされる。
 ハダシュはゆっくりと掌を開いた。しわになった茶色い油紙を目にして眉根を寄せる。
「何のつもりだ」
「いいから取っとく。禁断症状に効くね。そのかわり」
 黒い目に強欲の光がぎらぎらと宿っていた。
「もし竜薬を手に入れたら売ってくれ。五万スー、いや、十万スー出すね」
「考えとくよ」
 ハダシュは笑って店を出た。

 近くにいるはずのラトゥースを探す。
「ハダシュ、こっち」
 少し離れた路地に、つややかな青い天鵞絨の帽子を目深に引き下げた姿が見える。薄暗い影に身を潜めているはずが、純白の羽根飾りがやたら風にそよいで目立つことこの上ない。
 ハダシュはあきれた吐息をつき、近づいていった。
「もう少しマシな格好できないのか」
「え、何で」
 ラトゥースは心外そうに眼をまるくした。どうやら本気で街と同化していたつもりだったらしい。ハダシュはげんなりとして話をそらした。
「やはり竜薬だ。お前の言うとおりだったな」
 一瞬、緊張の笑みがラトゥースの口元をかすめ通り過ぎていく。
「だったらなおさら急がなくちゃ」
「なぜだ」
 ハダシュが眉をひそめ訊ねると、ラトゥースは芝居がかったしぐさで厚ぼったい雲のたれ込める海側の空を仰いだ。
「目的のない殺戮に、わざわざ足のつく毒を使う必要はないってことさ。バクラントの関与をほのめかす何者かがいる。門外不出の竜薬、カスマドーレ、〈黒薔薇〉とギュスタ。交わる点はただ一つ」
 一瞬の間をおいて、ラトゥースは鋭くハダシュを見返した。
「行こう。これ以上罪を重ねさせたくない」
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