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EXILE12 EXILE13 EXILE番外編 狼と神官と銀のカギ 4 闇
 濃い灰色に垂れ込めた曇天は、今にもちぎれて泣き出しそうに見えた。

 クーイー総督府。海に切り立った城壁を幾重にも巡らせる堅牢な作り。擁する水路はさながら入り組んだ迷路、張り巡らされた血管のようでもある。それはかつてこの街が、交通の要所として各地方から羨望の眼差しあるいは嫉視を集めていた時代、海からの侵入者を防ぐために作られた城であったことを如実にあらわしている。
 常日頃であれば、周辺は税関の手続きに訪れる商人や行き交う人々で雑然とごった返す。だが今は違っていた。
 多数の衛視が歩哨に立ち、税関の手続きに来る長い列に対しあからさまな敵意を向けては行く手を遮る。
「ずいぶん滞ってるな。あれじゃ業務にならない。よほど何か後ろめたいことがあるとみえる」
 ラトゥースが薄暗がりの中でつぶやく。
「ああ」
 ハダシュはおもむろに首をもたげ、用心深く周囲を見回した。
「いくぞ」
 合図を送り、影を伝って走り抜ける。
 市街地に面する運河には防波堤をかねた低い城壁があり、随所に見張りのやぐらが設けられている。二人は人気のない櫓を選んで戸をこじ開け、中に忍び込んだ。
 暗闇に小忙しい足音が反響する。
 ほの暗く狭い階段を上っていく途中、ところどころに鉄格子の入った矢狭間が切られていて、死角なく運河の様子をうかがうことができるようになっていた。
「待ってよ。そんなに急がないで」
 ラトゥースはわずかに息をはずませている。
「はやく上がってこい」
 ハダシュは苛立たしく背後に向かって言った。物見櫓を登り切ったところでちょうど鐘が鳴り始める。
「終わりの鐘だね。橋が閉まる」
 ラトゥースはやれやれとへたり込み、ほっそりとした指を折って数えた。
 運河をまたぐ大橋の両端に、木製の大きな格子戸が落とされた。長時間待たされたあげく解散を余儀なくされた商人たちが不満の声を上げて門扉に寄り集まる。だがそれも長くは続かない。銃剣を手にした衛士が何ごとかを怒鳴ると、おびえた商人たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「さて、と」
 ラトゥースは埃をはたいて立ち上がった。少し強くなった風に飛ばされまいと帽子をおさえ、顔を上げる。
「思いどおりになればいいけど」
 海から直接引き入れた運河に、ひたひたと潮が満ちてゆく。
 波止場に揺れるいくつもの燈火。
 照らし出された大河の水面を、上流へ向かう帆船が音もなくすべるように進んでゆく。一方の港側ではクレーンが軋み、荷揚げを急がせるいくつもの怒鳴り声がぶつかり合い、物が壊れ、銅鑼、鋭い笛の音に混然となって入り交じる。
 その動的な賑やかさとは正反対に――
 閉ざされた陸側は陰鬱な土色に塗りつぶされ、明かりひとつなくどこまでも静まり返っている。どちらも同じクーイーのはずなのに、灯のともる港の一帯だけが、文明という名の享楽を突出して甘受できる別世界のようだった。
 ラトゥースは口元を強く引き結び、躍動感まぶしい港から眼をそらした。望遠鏡を取り出し、遠い海の方角を見つめる。
「ずいぶん大きな船があるね。暗くてよく見えないけど」
 ラトゥースは望遠鏡を目から離し、眼をほそくして指さした。
 商船用の錨地に、灯りを伏せた黒い船影が浮かんでいる。闇色の空に溶け込む四本マスト。貨物船にしては妙に船尾楼が高く、短いながらも衝角らしきものまで見える。
「どう思う」
 ラトゥースは胸壁に肘をかけてもたれ、眉をひそめてハダシュを見やった。
 ハダシュはわずかに身体をふるわせた。
 寒い。石積みの壁に直接触れたところから冷気が伝いのぼってくる。ラトゥースの声がやたら遠い。耳鳴り。悪寒。指先をつぶされるようなしびれ。この感覚は――
 嫌な脂汗がにじむ。
「ハダシュ、聞いてるの」
 問いただされ、ハダシュは我に返った。ラトゥースの真摯な顔が驚くほど近い。
「ほら。これ」
 ラトゥースが望遠鏡をひょいと投げる。とっさの反応ができず、掌の上で望遠鏡がはねた。かろうじて紐が指にからまる。
「あ、ああ」
 手に力が入らない。よわよわしく口ごもる。
「そう言えばイブラヒムも言ってたな。バクラントに出す船が妙だとか」
 何とか答えたものの、自分に向けられたするどい視線にハダシュは思わず息をつめた。
 まるで似てもいないのに、別の女の声が覆い被さってくる。
「あれがバクラント行きの通商船だって。冗談だろ。あの船影はどう見たって」
(――刻みつけてあげる――)
 二重になった声が頭上を通り抜けていく。眼の奥が重苦しい。
 身裡の奥が、ぞわりと騒いだ。
 飢餓感。
 ハダシュは歯を食いしばった。いつもこうだ。肝心なときに手がふるえ出す。
 禁断症状のすさまじさは筆舌に尽くしがたい。眼球に針を突き立てられる寸前のような、身もだえする予感が来たかと思うと、それは見る間に絶叫と失神の繰り返しへとすり変わっていく。
 記憶そのものが恐怖だった。戦慄、絶望、苦痛。あの女はそれらこそが悦楽を生みほとばしらせる唯一の狂気でもあるかのように、身をうずめ頸を絞めナイフをかざし嗤いながら――
「ハダシュ」
 抑えられてはいたが鋭い声だった。ハダシュははっとして身をこわばらせ、ラトゥースを見返した。
「どこか痛むの」
 青い瞳が大きく見開かれ、不安そうに揺れている。ハダシュはとっさに短く荒い息をつき、投げやりな笑みを作った。
「なんでもない」
 わななく手を握り込んで唇をゆがめる。
 やにわに自身の愚かしい弱みを全てむしり取って投げ捨てたい衝動がこみあげた。身体の苦痛も心の弱さも、自分が犯してきた罪への罰だ。過去を乗り越えなければ、悔いることも、償うこともできない。
 ラトゥースは困惑した様子で眼のやり場を探し、とりあえずクーイーの夜景を見つめた。港の喧噪だけが、潮の匂いに乗って運ばれてくる。
「綺麗な街だよね。ハージュの都よりもずっと大きくて活気がある」
 ふいにハダシュは身体が震え出すのを感じた。釘を打ち込まれたかのような尖痛が脊髄に走る。
 うめき声がもれた。 
「何、どうしたの」
 ラトゥースが顔を上げ、とっさにハダシュを支えようと手をのばす。
「来るな」
 乱暴に払いのける。ラトゥースははじかれた手をおさえ、声を詰まらせた。
「君、やっぱり」
 剥き出しの上腕に、ぞっとする鳥肌が浮き上がっている。ハダシュはそれを隠して腕を抱き、口をおさえて、いまにも洩れ出しそうな悲鳴を抑え込んだ。
 血走った目でラトゥースを睨む。
「ハダシュ」
 ラトゥースはせっぱ詰まった表情で詰め寄った。
「うるせえッ」
 荒げたはずの声が震える。痛みを伴う痙攣が突き抜けた。この姿だけは――
 抑えきれない苦悶。理性のカケラもない狂気。見せたくない。見られたくない。ハダシュは声にできない悲痛な叫びを呑み込もうとした。
 そのとたん、膝ががくりと折れる。

 気を失ったと――思った。
 血の気が引いて暗かったはずの視界が、なぜか朝日のような眩しい金色に変わっている。異国を思わせる珍しい、それでいて強く、柔らかく、やさしい香り。
 刹那の幻影が消え去る。
 青い天鵞絨の帽子が、風に吹き飛ばされ闇の底へ舞い落ちていくのが見えた。
 消えてゆくそのはかなさに、思わず手を伸ばしそうになる。羽根飾りの純白がひらり、ひるがえって、小さくなって。
「無理しちゃだめだ」
 耳元に聞こえたのは、蚊が泣くよりも小さな声だった。

 声が聞こえてはじめて、華奢なはずのラトゥースに抱きとめられていると気づいた。がくがくと膝が笑い、我知らずうめき声がこぼれ、痛みと自嘲に噛みしめた奥歯が軋る。
 唾棄したいほどの所在なさでありながら、そうと気づかないほど自失していた。うすら寒く汗が流れ落ちる。
 それでも、動けない。
「禁断症状が」
「触るな」
 とっさにラトゥースを突き放す。
 だが強がりに反してよろめく身体を支えきることはできなかった。むなしく胸壁に倒れかかり、喘ぐ。
 ハダシュは手を背壁につき、乱れた前髪越しに半ば憎々しいほどの眼でラトゥースを睨みすえた。膝がくだけたまま、まともに立ち上がれない。
「一度診てもらったほうがいい」
 ラトゥースが愕然として言いかけるのを、灼熱の一瞥で黙らせる。ハダシュは震えの止まらないくちびるを血が出るほどぎりりと強く噛んだ。餓えた獣のように周りを見回す。
「何でもないと言ったのが聞こえなかったのか」
 かすれた息を肩で吸い込むと喉の奥が焼け付いてひりひりと剥がれそうに痛んだ。
 拳でくちびるをぬぐい、叩きのめすかのような声で吐き捨てる。
「分かったら黙ってろ」
 ハダシュは眼の奥でずきずきと赤黒く回り始めた眩暈を押さえた。
 ラトゥースの眼がするどくなった。
「まさか、このまま」
「知るか」
 唇に引きつった笑みを昇らせる。その手の嘘は得意なはずだった。なのに、なぜか笑えない。
 突如、ふたりの背後が騒がしくなった。運河の水面が赤々と照らし出されていく。
 ハダシュは歪んだ笑いを投げ捨てて運河を睨んだ。朱金色に染まるさざ波が闇と溶け合って騒然とざわめき、沸き立ち出す。
 ラトゥースは壁の向こう側に視線を奔らせ、驚きの眼を押し開いて身を乗り出した。息をとめて対岸の城壁を指さす。
「あそこだ。誰かいる」
 総督府側の対岸にせり出した跳ね出し歩廊からいくつものまぶしい光が放射状に漏れ、水路全体を薄赤く染め上げている。
 やにわに水音が激しくなった。火の粉を散らして燃えるたいまつをかかげた艀が何艘も放たれる。銃を持って駆け集まってくる衛兵たちもまた大声で怒鳴り交わし、水面を指さしていた。
「ギュスタだ」
 聞き返すいとまも与えずハダシュは身をひるがえした。
「ハダシュ、待って」
 ラトゥースが後を追ってくる。
 ハダシュは滑り降りるように階段を駆けくだり、水路に面した木戸を蹴破った。砕ける扉を跳ね越え、さらに一段低くなった通路へ着地するや、足場の悪い石積みの防波堤を流れに沿って風のように走る。
 たいまつをかざし追いすがる幾艘もの船。水面を叩く棹の水しぶき。
 運河は血の色をすり流しながらあかあかと揺れ、追いたてられてゆく侵入者の起こす波紋をくっきりと描き出していた。照り返しを受けた曇天がさながら内臓のような恐ろしい形に割れ、したたるように押し迫ってくる。
「ギュスタ・サヴィス」
 ハダシュは声を押し殺して叫んだ。振り返った侵入者の驚いた顔までもがはっきりと見分けられる。
「分かるか。俺だ。こっちに来い」
 侵入者は大きな泡一つを残して水の中に消えた。ようやく追いついてきたラトゥースが息をつまらせる。
「逃げる気だ」
「くそっ」
 ハダシュは拳で壁を殴りつけた。息が続かない。壁に手をついて大きく喘ぐ。
 とっさにラトゥースがその腕を肩に回し、支えた。ハダシュは驚いてラトゥースの横顔を見下ろした。凛とした青い眼差しが、今は高まる緊張に揺れ、かたくこわばって、ただ水面だけをまっすぐに見つめている。
 二人の存在に気づいた衛兵が甲高い笛を吹き鳴らし、周りに知らせた。夜空を切り裂くような鋭い音がひびきわたる。
 光がいっせいにこちらを向いた。
「しまった、気付かれた」
 ラトゥースは低くうめいて後ずさりかける。
「奴を連れ戻す」
 ハダシュは水面に走る波紋を睨みつけて怒鳴った。
「俺が引きつけてる間に逆方向へ逃げて城壁に隠れろ。奴らに尻尾を掴ませるな。すぐに追いつく。いいな」
 ハダシュはラトゥースの腕を一瞬つかみ、ぐっとその瞳を強く見つめてから払いのけた。
「逃がすな。捕らえろ。”東”の犬だ」
 追いすがる光、怒号、金具のぎらつき。
 緊迫の渦中を駆け抜けざま、ハダシュは一気に運河へ身を躍らせた。水しぶきが高くあがる。
 差しつけられる松明から火の粉が熔け出して降りかかった。ハダシュはわざと目立つよう大きな抜き手を切ってから、息をするどく吸い、身体をひるがえらせて水底深くに潜った。
 暗黒を掻く別の水音が聞こえる。強く水を蹴った。みるみる影に近づいていく。
 ハダシュは逃げる人影の腰を掴んで水底に引きずり込んだ。激しく抵抗される。必死の眼がハダシュを睨んでいた。立ちのぼる無数の泡に取り巻かれ、掴み合い、もつれ合ううちに、ごぼっと息がもれた。黒衣の男が喉をかきむしる。
 なかば意識を失った相手の脇を支え、ハダシュはようやく水面に浮かび上がった。半分水に浸かったまま濡れた頭巾をはぎ取る。思った通り、あらわれたのはギュスタ・サヴィスの顔だった。
 振り返ると、追っ手の舟は見当違いの場所に集まったまま、居もしない侵入者を捜して怒鳴り散らしていた。それを確認してから、片腕にギュスタを抱え、ゆっくりと泳ぎ出す。
 運河の縁へつかまり、ずしりと重いギュスタを押し上げようとしたとき、頭上から心許なげな声が聞こえた。
「無事でよかった」
 ハダシュは顔を上げずに答えた。
「当たり前だ。いいから手伝え」
「うん」
 伸びてきた手が渾身の力をこめてギュスタを引き上げる。ハダシュもまた運河の縁へあがった。濡れた服から滝のような水がしたたり落ちる。
「こっちに来て」
 ラトゥースは城壁に格好の隠れ場所となりそうな崩れた裂け目を見つけていた。二人がかりでギュスタを内部へ連れ込み、寝かせる。中は真っ暗で埃っぽく、じめじめとした黴臭が充満していた。足下には端石が転がっていて、まともに歩くこともできそうにない。
「火をおこすよ」
 かちりと火打石を叩く音がして、硝煙の臭いが立ちのぼる。ラトゥースのうら寂しい表情が蝋燭の火に照らし出された。
「ああ」
 ハダシュは指先に息を吹きかけて暖めながら、濡れた服を脱ぎ、火を消さないよう横を向いてしぼった。
「落ち着いたら早く安全な場所にこいつを運んだ方がいい」
「”東”か。レグラムは何を恐れてるのかな」
 ラトゥースが苦々しげにつぶやく。上半身脱ぎ払ったハダシュが、近くの岩に脱いだ服をひっかけようと背中を向けたとき、息をすすり止める声が聞こえた。
「怪我してるの」
 ハダシュは驚いて振り返った。
「いや。どうしてだ」
「あ、ああ。そうか、ごめん」
 青い顔でラトゥースは口元を覆い、うつむく。
「血かと思ったんだ」
 ハダシュはくちびるをわずかにゆがめた。背中の刺青を見間違えたに違いない。無言でシャツだけを取るとまとわりつく冷たさにもかまわず袖を通し、ギュスタの枕元に向かう。
 横たえた身体をいきなり踏みつける。
 ギュスタは苦痛に身を折り、むせ返って水を吐いた。ぼんやりと目を開け、ハダシュを認めると弱々しく呻いて肘をつき、上半身を起こす。
「なぜ」
 うつむいて、うつろにつぶやく。その背後にラトゥースが近づいた。
「これ以上、罪を犯してもらいたくなかったからです、ギュスタ・サヴィス」
 抑えた声がひくく響いた。ギュスタは首をねじって眼を押し開いた。
「ラトゥース姫、いえ、巡察使どの」
 ギュスタは恥じ入るかのように深く肩を落とした。
「覚悟はできております」
「全部話して」
 ラトゥースは静かに言った。
「誰に何をするよう命ぜられたか――全部、言うんだ」

 しん、と静まり返った闇に、遠い波の音が絶え間なく打ち寄せる。どこかで抗わなければ、そのまま暗い海に流されてしまいそうだった。
 うずくまるギュスタの足下に揺らぐ影を、ラトゥースとハダシュは沈痛な面もちで見つめ続ける。
「庇護なく暮らす者、あるいは日々の生活を施物にのみ頼るほかない子供たち――」
 ギュスタは眼を上げ、苦悩に満ちたため息をもらした。
「彼らが自由な市民であり犯罪者や奴隷身分などではないと証明するためには莫大な金が必要でした。他にどうすることもできず、金を借り、身を売り、それでも足りず手を着けてはならない金を――それをローエンとカスマドーレに知られて」
 長い沈黙の後、絞り出すような声でギュスタは続けた。
「己が罪の露呈を恐れたばかりに」
 囲んだ火が湿り気を帯びた音を立ててたなびいた。みるみる火勢が弱まってくる。
 ラトゥースは急いで半乾きの枯れ草を火にくべた。
「では、あなたがあの毒を」
「いえ」
 ギュスタは一瞬声をこわばらせたが、すぐに力なく首を垂れ、かぶりを振った。
「でも、同じことです。私の偽善が子供たちの自由を、未来を、命を奪ってしまった。罪に汚れた手、偽りの笑顔であの子たちを抱きしめようとした罰です。あの子たちを裏切ってまで守るべきものなど、何もなかったのに」
 両手で顔を覆う。声が、ふと遠くなった。
「死んで詫びるしかないと思いました。でも、私一人が罰を受けて何が変わるだろうと思うと――この街を腐らせた元凶を思うと、いてもたってもいられなくなりました。死んでしまった人たちや罪もない子供たち、それに私自身がずっと抱き続けてきた呪わしい思い、母が受けた塗炭の苦しみを奴に思い知らせるには」
 淡々とかすれた声で、ギュスタはつぶやく。
「――殺すしかないと」
「あなたは卑怯だ、ギュスタ・サヴィス」
 ラトゥースはふいに遮った。思いつめた瞳に火が映り込んでいる。海に沈む寸前の夕日のようだった。
「怒りと憎しみに身を任せ、許されぬ血に手を染めて、それであの子たちが喜ぶとでもお思いですか」
「では教えてください」
 ギュスタは胸のペンタグラムを握り、言葉を詰まらせた。
「私に何ができたというのです。犯した罪に打ちのめされ死を選べば良かったのですか。罪を悔い、刑に服せばそれでこの街が変わるのですか。そんなことはあり得ない。何一つ変えられはしない。何一つ」
 血を吐くようにうめく。
「罪なくして傷つく者だけが苦しみ続ける世のどこに正義があるというのです。いっそ悪に堕ちてしまえればどんなにか――私たちは」
 そのとき、壁の向こうで叫び交わすざわめきが聞こえた。ラトゥースはわずかに腰を浮かせた。腰の後ろに吊ったサーベルへ手を走らせる。
「火を消せ」
 ハダシュはすばやく砂を蹴って火にかぶせた。
「話はあとにしろ。一度、聖堂に戻ったほうがよさそうだ」
 火が消える寸前、目に焼き付いたラトゥースの面立ちになぜかハダシュは声をなくした。
 凛と輝いていたはずの瞳が、今にもくずおれそうに揺らいでいる。
「行くぞ。ぐずぐずするな」
 ハダシュはわざときつく言い置いてきびすを返した。
「うるさい」
 所詮、無理だったのかも知れない。これほどまでに暗く深い闇を、小さな焚き火ひとつごときで照らし出すなど。
 背中越しに投げ返されるラトゥースの声は、まるで帰る道を忘れたにもかかわらず、それを認めようともしないで泣きながら歩き続ける迷子のようだった。
 一時間ほど足音を忍ばせ歩くうちに、ようやく外の気配が静かになりはじめた。崩れた壁の隙間から青白い狭霧が差し込んでいる。
 ハダシュは裂け目に近づき、慎重に外をのぞいた。
 運河の縁から霧が這いのぼって、色街から洩れ出す赤い光にまで冷たい氷の色をまとわせている。ぎっしりと両舷をこすれあわせ係留されている艀もまた、漆黒の細小波に溶け込むかのようだった。
 磯の匂いがする。人の声はない。
 ハダシュは煉瓦に手をかけた。脆くなったモルタルが不様に割れて、くずれる。
 誤って手の甲に尖った角をひっかける。反射的に腕を引くと、肘がギュスタに当たった。
「どうかなさったのですか」
 ギュスタがのぞき込む。黒いペンタグラムが胸元に傾いて、針のような光を放った。
「いや、何でもない」
 血が滲む手首を押さえ、倦んだように言いかけて。
 ハダシュは首筋を吹き抜けるすきま風のような悪寒に思わず身構えた。ギュスタをじろりと見返す。
 自分でも分からなかった。なぜ、そんなことを考えてしまったのだろう。
 ――似ている、などと。
 ギュスタはわずかに顔をこわばらせた。
「何か」
「いや」
 ハダシュはとっさに気をそらした。出口を広げようと、黙ってうつむいたまま無心に作業へ没頭するラトゥースの姿が目に入る。
「クレヴォー」
 焦った声を掛ける。ラトゥースの手が止まった。
「ラトゥースでいい」
 ハダシュは何も言えないまま、逃げるように作業を手伝った。壁の穴は少しずつ大きくなり、次第に人一人が通れるだけの幅になってゆく。
 ハダシュはどこかしら緊張した声音で再び口を開いた。
「さっきは、その」
 煉瓦の隙間から垣間見える外の世界へ、望郷の思いにも似た視線を向ける。
「悪かった。つまり、いろいろだ」
 ラトゥースは一瞬目をみはった。ぎごちなく顔を上げ、若干あわてたふうにまたうつむく。答えが返ってくる様子はない。
 だがそれで十分だった。

 耳を澄まし、用心して城壁から歩み出る。少し離れた右前方に運河をまたぐ石積みのアーチ、その橋梁部には水門とつながる鋼鉄の柵が見えた。
 じっとりと重い空気が生々しくまとわりついてくる。星一つない、今にも降り出しそうな空模様だった。ひとしきり来るのかもしれない。
 漆黒の闇の中、ラトゥースの持つ蝋燭一本だけを頼りに、運河と城壁に挟まれた細い足場を伝って歩く。
 濡れた靴音が響く。ハダシュは夜霧の立ちこめる空を見上げた。
「ここを抜けたら市街地だ」
「よかった」
 ラトゥースも一安心したのか、吐露するかのようなためいきを長くついている。
「もう二度とこんな狭い暗いところを歩くのは御免だよ」
 ラトゥースは水門を守る鉄柵に手をかけ、揺すった。だが自らの重みによって守られた戸はびくともしない。
「鍵がかかってる」
「登ればいい」
 ハダシュはすこし深呼吸して、手をこすりあわせた。濡れてかじかんだ手を柔らかくほぐしてから、絡みついた鎖に足をかけ、勢いをつけて伝い登る。ひらりと飛び降りると、わずかに足下がふらついた。
 眩暈を隠して振り向く。
「やってみろ」
「そんな猿みたいな真似できるわけが」
「置いていかれたいか」
「薄情者」
 ぽんぽんと交わす他愛のない軽口が、今はぬるま湯のように心地よかった。すべてが解決したわけではなくとも、脱出の糸口を見いだせた安堵が、先行きの見えない不安を一枚ずつ薄皮のように剥がしてゆく。明るみを増したラトゥースの表情もまた、同じことを物語っていた。
「つまらないことを言ってる暇があったらさっさとやれ」
 ハダシュは挑発する眼に笑みを混じらせ、顎をしゃくった。
「後で覚えてろよ、こんちくしょう」
 ラトゥースは燈火を置き、目も当てられない泥臭さでのろのろと柵を登った。ギュスタにお尻を押し上げてもらい、ようやく上端にたどりつく。
「はあ、何とか」
 ほっとため息をつき、またいで乗り越えようとした刹那、ラトゥースは支えていた手をすべらせた。真っ逆さまにハダシュの腕の中へと落下する。
「ラトゥースさま、お怪我は」
 声を高くしてギュスタが柵越しに駆け寄った。
 ラトゥースは、ぎゅっと閉じていた目をおそるおそる、といった様子で開けた。とたん、どぎまぎとしてハダシュの腕から飛び離れる。
「ごめん」
「大したこと無いな」
 ハダシュはにやりと笑う。ラトゥースは見る間に満面朱をそそぐとハダシュの触れた部分を手ではたいて回った。
「し、失敬な奴だな君は人を何だと思って」
 子供じみた抗議を無視し、ハダシュは鉄柵の向こう、元いた側を振り返った。ギュスタが当惑した笑みをうかべている。
「次はあんたの」
 気安く声をかけようとした、その瞬間。
 ハダシュの目に信じ難い光景が写った。
 ギュスタの体が激しいきしみを立てて水門の鉄柵に叩きつけられる。
 苦悶の形相が一瞬浮かび上がった。そのまま、絶叫となって夜闇に響きわたる。
 ラトゥースが言葉にならない悲鳴をあげた。ハダシュを突きのけて駆け寄ろうとする。
 ハダシュはとっさにラトゥースの手首をつかんで引き戻した。ラトゥースの服の袖がちぎれそうに伸びきった。
「離せ。ギュスタ、ギュスタが」
 涙まじりにギュスタの名を喚び続ける。
「ぁ……あ」
 柵の隙間から血塗られた震える手が差し伸べられ――
 その指先から、銀の鎖を通した黒いペンタグラムがこぼれ落ちた。涙にも似たきらめきが一瞬、闇に散る。
 ラトゥースはハダシュの手を振り切ってペンタグラムに飛びついた。手をいっぱいに伸ばし、跳ね転がって運河に落ちる寸前、かっさらうようにしてすくい取る。ラトゥースの身体はそのまま細い足場の上で前のめりに一回転した。
 ギュスタの背後から、黒い服を着た男がゆっくりと立ち上がった。喉から白い包帯が垂れ下がっている。
 ラトゥースは返す鞭のように跳ね起きて腰のサーベルを抜き払った。細身の刃が青ざめた鋭い光をほとばしらせる。
「何者だ」
 ラトゥースは男を睨みすえ、怒鳴った。サーベルを握る手に絡まった銀の細鎖が、ささめく音を立てる。
 男は倒れたギュスタの身体を踏み台にして鉄柵を登り、転げ落ちるようにして飛び降りた。
 蝋燭の火がちぎれそうなほど揺れ動く。着地した姿勢のまま、男はぞっとする緩慢さで顔を上げた。
「来ると思ってたぜ、ハダシュ」
 おそろしくしゃがれた声が聞こえた。
 虚々実々に踊る、影。
 峻烈な光の乱舞が照らし出す、その、顔。
「まさか――」
 執拗なまでにまがまがしい闇を宿す青い瞳に、ハダシュは狂ってしまいたいとさえ、思った。

 雨を含んだ風が吹きすぎる。頬に生ぬるい一粒が当たった。
「どうしてお前が」
 それだけしか言えない。
「死んだとでも思ったか」
 冷たい泥にうずもれ、助けを求めるでもなく、ただ横たわり死を待つだけのような問いかけ。
 それは、なつかしくも恐ろしい――あの日ハダシュが確かに殺してしまったと信じ込んでいた男の、醜く変わり果てた声だった。
 偽者などではない。見れば分かる。他の誰でもない、かつての友。
 ローエンのもらす煤煙にも似た吐息が、血の色に染まり毒々しくたなびいている。
 生きていてくれたという安堵があっていいはずだった。だが、そんな感傷を容赦なく否定する惑乱がハダシュを捕らえる。後悔とか改悛とか、一見自嘲気味に取りつくろった自身をさながら汚水を含ませた海綿を絞るかのように握りつぶしたその結果にじみ出た悪性の何かが、ローエンの姿を取って眼前にもやい出でたかのようだった。
 腐泥にも似た、薄汚い感情――
「情けをかけたつもりか。馬鹿にしやがって」
 しかしローエンは気味の悪い笑いでハダシュの思いを遮った。
「らしくもねえな。何十人と殺してきたケダモノの分際で」
 言葉の棘が心臓を鷲掴む。
「今頃自分の罪に気付いて、おめおめと逃げ出して何になる。てめえに殺された人間が生き返るとでも思ってんのか。そいつらの家族が笑って許してくれるとでも。つけあがるな。人殺しが」
 言い放った声に引きずられローエンは咳き込んだ。顔がひきゆがんでいる。
「ローエン」
 胸のちぎれるような万謝に今とらわれるわけにはいかなかった。ハダシュは息詰まる思いを削ぎ落とし、おそろしくゆっくりと訊ねた。
「〈黒薔薇〉に荷担するお前がなぜギュスタを殺す。何も気付かないのか」
 その言葉に度肝を抜かれた涙顔でラトゥースが振り返る。
「知るか」
 ローエンの口元が手負い特有の凄惨なかたちに笑みくずれた。額に汗が滲み出している。
「あんなひと、見たことねえよ。俺のことなんか鼻にも引っかけねえ、てめえの思ってることしか頭にねえ、目的のためならラウールも笑って殺す、俺みたいな下らないチンピラにさえ魂以外なら何だって販いでくれる、そんな震い上がるぐれえ恐ろしい女が」
 ローエンは血脂の付いたナイフをかなぐり捨てるように振り払った。
「好きで好きでたまらねえ、と言った。俺のことなんかこれっぽちも気にかけねえくせに、手に入れられないぐらいならいっそ殺してやりたいとか抜かしやがった。死にかけてる俺の目の前でくすくす笑いやがって、あの女」
 ハダシュは固唾を呑んだ。
「ハダシュ、てめえをだ」
 ローエンの眼に青黒い炎が上がる。
「絶対に逃がさねえからな」
 ナイフを腰だめにして獣の咆吼をあげ飛びかかってくる。ハダシュはラトゥースを背後に引き払いざまローエンの手首をかいくぐって切っ先をかわした。肘の関節を逆にひしぎ上げはねのける。
 もぎ取られたナイフが石壁にぶつかって火花を散らした。尖った音がきらめく。
「やめろ、ローエン」
 腕を押さえ、荒い息を漏らすローエンにハダシュは凄味ある殺気を突きつけた。誰に聞かれるとまでは意識しなくとも、それ以上ローエンに戯言を言わせたくなかった。
「俺には関係ない」
「ふざけるな。何も終わっちゃいねえ」
 鼻にしわを寄せ、歯をむき出し、獣のような情炎にぎらぎらと顔を染め上げながらローエンは拳を振り上げた。
「殺すか、殺されるかだ」
 ハダシュは油断して避け損ねた。こめかみに拳をくらい、壁にぶつかる。
 意識が砂嵐のように大きくゆがんだ。血色に濁った視界の縁を、ラトゥースのかまえるサーベルの輝きがするどく射かすめる。
「撃つな」
 ハダシュはローエンの気をそらすためわざと視線を虚空へずらし怒鳴った。
 ローエンはつんのめった。舌打ちして後ずさる。ハダシュは壁にまた倒れかかった。後ろ手に煉瓦の突起を掴み、どうにか上体を支える。
 ぬるい血が耳の後ろを蛇の舌のように這いつたった。
 なぜかひやりと総毛立つ。割れた煉瓦のかけらがくずれて足下に散る。強打した頭の奥が食い違って割れそうに痛んだ。
 二の足がふらつく。視界は暗転したままだ。まだ平衡感覚も取り戻せない。
 ハダシュは濡れたこめかみを手の甲で拭った。肌にざらりとした血と砂の感触が擦りつけられる。
 と、跳ね返るように煉瓦屑を投げつける。ローエンは視界を奪われてのけぞった。
 矢継ぎ早に低い蹴りを入れ、たまらず膝をつくローエンの後頭部に結んだ両の拳を容赦なく叩き込む。ローエンはつぶれた呻きをあげて水路に転落した。
 赤子の腕をひねるようなものだった。
 ようやく上がってきたローエンの恨みがましいびしょぬれの髪から、ぼたぼたと水のしずくが落ちる。
「その様で俺を殺れるとでも思ったのか」
 ハダシュは唾を吐いた。どこか青ざめた声で斜に見下す。しかし心は千々に乱れていた。
 ローエンはうつ伏せに這いつくばり、喉を枯らして吐くように咳き込んでいる。喉をつかんだ手にどす黒く浮かんで見えるあざは血か、それとも。
 突然思い当たるその意味に、ハダシュはつい息をすすり込んだ。
 ローエンはふいに凶暴な笑みを浮かべ、見せつけるかのように拳の背を撫でた。
「お前もか」
 刹那、ハダシュはローエンを蹴倒した。その足にローエンがむしゃぶりつく。
 油断していたわけではない。だが、気を呑まれたか、とっさに避けきれなかった。そのまま引きずり倒され、馬乗りに殴りつけられる。
「どこだ。言え」
 髪をひっつかまれ、地面に何度も叩きつけられる。目が眩み、脳内にまで鈍い音がひびき渡った。
「どこに刻まれた。剥ぎ取ってやる」
 ハダシュは呻きながらも断腸の叫びを封じこめ、ただ無力に殴られ続けた。
 狂おしい叫びが拳の衝撃と血の激痛に代わって身をつらぬく。
「ハダシュ、なぜ戦わない」
 ラトゥースのするどい呼び声に、ローエンはようやくその存在に思い当たった様子で飛びすさった。水しぶきに濡れて不如意に滑るサーベルを捨て、ラトゥースが駆け寄ってくる。
「君がやらないなら、僕が」
 ホルスターへと走らせた手に、くろがねの銃身がぎらりと浮かび上がる。
「来るな、クレヴォー」
 ハダシュは身を起こし殺伐とした眼でラトゥースを突っぱねた。
「邪魔だ」
「馬鹿言うな。どうして」
 悲鳴にも似たかぶりをラトゥースは振る。
 ローエンは蜜毒したたる視線をラトゥースへと向けた。下衆っぽく唇を舐める。
「女か。いつの間に足手まといを連れ歩くようになった」
 ハダシュは憎々しげに切り返す。
「こいつは関係ない」
「笑わせるな」
 ローエンはあざ笑おうとして、逆に血を吐いた。
 ぽつり、またぽつりと、暗い雨が落ちてくる。それは次第に強さを増し、見る間に車軸を流すような激しい雨に変わった。打ち付けられた水面がふきこぼれて白い繁吹に覆われていく。
 血と唾の混じった雨が目鼻をつたい落ちる。
 二つの眼が凄絶にぶつかりあった。途端、凶悪な笑いを放ってローエンはラトゥースへと襲いかかった。
 悲鳴を上げる間もない。ラトゥースの姿がローエンにかき消される。騎銃が手から離れかけた。
「やめろ」
 ハダシュは引きずられるように叫んだ。
 もがくラトゥースに食らいつくローエンの影。太い指がラトゥースの細い首に深く食い込んでいる。
 ハダシュはわずかな反射の光にそれを見て我を忘れ、ローエンに飛びかかった。
 ローエンは振り向くなりラトゥースの手から銃を奪い、背後から殴りつけてハダシュの側に突き飛ばした。細い身体が声もなくのけぞってくずおれる。
 とっさに抱きとめる。
 ローエンは野獣のようにあえぎ笑うなりじりじりと後ずさった。身を翻し闇へ消え去る。
「だめだ」
 後を追おうとしたハダシュを、力ないラトゥースの指先が引きとめた。
「罠だ。深追いしちゃいけない」
 ハダシュは青ざめるラトゥースを一瞬火のように睨んで、その手弱なしぐさを払いのけた。
「行くな。行かないで。行っちゃだめだ」
 恐怖に満ちたラトゥースの声を背に、ハダシュはローエンを探し、走った。
 けぶる雨の中、黒い姿が転がるように先を駆けてゆく。
 ローエンはさびれた櫓台の前でつと立ち止まり振り返った。にやりと笑い、半ば朽ちて破れた木戸を蹴破り飛び込む。ハダシュは雨を蹴散らし猛然と後を追った。
 ふたつの足音と乱れた呼吸がそれぞれにもつれ合って、今にも踏み抜きそうな狭い螺旋階段を上へ、上へと駆けめぐってゆく。逃げるローエンの足音だけが頼りだった。
 どこかで乱暴に扉が閉じ切られる。とたん、周囲が闇に落ちた。
 ハダシュはつんのめり、我に返った。静かに息をつく。
 階段を上りきった突き当たりに木の扉があった。
 気配を探り、息をとめるなり、渾身の力を込めて肩でぶち当たる。鍵が弾け飛んだ。
 中に転がり込み、ナイフを構える。
 正面には割れたままがら空きにされた窓。降り込んだ雨に床が濡れて黒く滲み出している。
 残り香のする部屋だ。誰もいない。
 やや唖然とする。
 床に目を移すと、足の踏み場もないほど乱雑に抛たれた古い網にうずもれて、ぐるぐる巻きのロープ、鈍く光る割れランプの笠が転がり、踏みつぶされた青緑と茶色入り交じるペンキ缶には汚れるにまかされた逆刷毛が突っ込まれている。ほか、赤茶けて錆びた銛、折れた櫂、浮きなどありとあらゆるがらくたもまた雑然と部屋の隅に積み上げられて。
 それらは一見、長い間放置されたと見せかけてでもいるかのようだったが――
 ふと、背後の閂を静かに下ろす音が聞こえた。
 ゆっくりと振り返る。
 なぜか、穴蔵のような酒場が懐かしく思い出された。こんな雨の日はしけた”客”ばかりで稼ぎが悪いと文句を言っていた、どこにでもいる、そして、今はどこにもいなくなってしまった青臭い二人組。
 ローエンは扉の横に立ち、腕でかろうじて身体を支えながら壁にもたれかかっていた。血の気の失せた顔でハダシュを見ている。
「あの女が巡察使か」
「ヴェンデッタに聞いたのか」
 ハダシュはローエンと正面から向き合った。
 にじみ出した血が黒々とおそろしいかたちに包帯を染め抜いている。うなされるような喘ぎばかりが聞こえた。
 もしかしたらまともに立っていられないのかもしれない。思わず訊いてしまう。
「大丈夫か」
「殺しかけといてそれはねえだろう」
 すかさず侮蔑が打ち返されてくる。ハダシュは口をつぐんだ。
 ローエンが笑い出した。おかしくてたまらないといったふうに身を折り、腹を抱え、ときおり痛みにはげしく顔をゆがめながら、それでも笑っている。
「なぜ笑う」
 ハダシュはローエンの胸ぐらを猛禽のようにつかんだ。
 ローエンは答えない。脂汗の浮いた苦痛の顔で、まだ笑っている。
「答えろ」
 声を荒げゆすぶろうとして。
 何の予兆もなかった。
 突然背後から降ってきた投げ縄に首を狩られ、ハダシュは大きくのけぞった。払いのける間もない。体勢を崩したところを蹴られ、一気に引き絞られる。
「馬鹿ね」
 上気しきった女の声が鼓膜に突き刺さった。
 容赦なく絞め上げられる。
 黒のヴェールに顔を隠した女の姿が一瞬視界の隅をかすめ、そして消えた。
「吊り上げなさい、ローエン」
 冷酷な声が命令を下す。
 ローエンは手渡された縄の端を天井の梁に向けて投げ渡した。息継ぐ間もなく、首を吊った状態にまで引き上げられる。
 つま先だけがかろうじて床に触れていた。身体が揺れるたび、喉がぎりぎりとつぶれた音を立てる。
 ハダシュは苦悶の呻きを上げた。綱をはずそうと喉を掻きむしる。女が言った。
「あのとき言っておいたはずよ」
 その響きはハダシュだけに向けられたものだった。存在を拒否され、ローエンは顔をゆがめる。それでも余りの縄を使い、後ろ手と首をゆわえつけた。
「もういいわ。あっち行って」
 用が済んだと見るや女はローエンを払いのけた。信じがたいものを見る眼でローエンが女を見返す。
「なぜ」
 みるみる頬が紅潮し、病的にさえ見える痙攣を起こす。
「早く退きなさい。ぐず」
 女は唾棄の口調で吐き捨てた。ローエンの顔が土気色に変わる。
「お、俺、俺は」
「ハダシュ」
 喉の奥にもつれかかるような声だった。
「逢いたかった」
 眼をほそめ、濃艶なしぐさでハダシュによりそう。ハダシュは咽せながら逃れようとした。だが、もがけばもがくほど吊られた腕に入る力がいっそう喉を絞め上げる。頭の奥が破裂しそうに痛んだ。
 銀の鎖に飾られた黒絹の手袋が、毒蜘蛛のようにそろそろと頬をつたい降りてくる。
 嫣然と笑うひそやかな刺。情念さながらにねっとりとまとわりついてくる、暗い薔薇の香り――
「言ったでしょ。次に逢ったときは」
 冷たい鉄がひたとハダシュの喉に押し当てられた。
「容赦しないって」
 ナイフがひらめいた。ヴェンデッタは柄を逆手に持ち替え、胴着をずばりと切り落とした。結んであった革紐が断ち切られる。前がはだけた。その狭間から、さらに切っ先がシャツの中へ潜り込む。
 見る間にシャツは原型を留めぬ細切れと化してゆく。引きちぎられた袖だけがだらりと裏返しにぶら下がった。
「ねえ、ハダシュ」
 ヴェンデッタは黒の手袋を淫靡にひらめかせ、背後へと回った。血膿のような刺青に掌を押し当て、腰のかたちを確かめつつ、ゆっくりとたどる。
「火傷のぐあいはどう。この辺り、だったかしら」
 差し入れた指をちろちろとそれにあそばせながら、なまめいた吐息をつく。部屋の隅で、ローエンが豚のような呻きを漏らした。
「ひどくなってなければいいけど」
 ヴェンデッタは意味ありげにローエンを流し見、鈴を振るような声で優しくあざ笑った。
「ハダシュ、どこだ。どこに――」
 そのとき、せっぱ詰まったさけびが聞こえた。続いて水しぶきを上げて駆け抜けてゆく足音も。遠い窓の外のどこかで誰かが叫んでいる。
 ラトゥースの声だ。このひどい雨の中を、あの少女は濡れるのも厭わず駆けずり回っているのか。
 ふとヴェンデッタの手が止まった。
「あれが貴方の新しい飼い主というわけね」
 ハダシュは歯を食いしばった。
 ぎし、ぎし、と綱が揺れる。
「まだ分からないの。あの娘の何が欲しかったの。信頼かしら。恩赦かしら。それとも――いいえ、無駄よ。分からないなら何度でも言ってあげる。そんなものは甘ったれの子供じみた幻想でしかない。真実、そう、真実は」
 ぞっとする冷たさが声に混じった。
「ちょうどいいわ。貴方の頭がまだまともなうちに教えておいてあげる。明日の夜、ルイネード侯ガストン・ゴーティエの特許状を持った私掠船三隻に警護された銀ギルドの商船隊――と名は付くものの実際は”窮民法に基づく出稼ぎ船員”を大量に確保した奴隷船が出航する。クーイーとバクラント双方の割り符を所持し、一見正式な輸送船団を擬装してはいるけど、その実、送られる荷物は奴隷みたいな安物じゃない。船そのものよ。舷側砲門合わせて百を備する新造ガレオン――でも、そのガレオンは二度と戻ってこない。砲火を交えに来るとき以外にはね。分かるかしら」
 ヴェンデッタは壁の棚に隠してあった香油の瓶をとり、蓋を開けた。目も眩む薔薇の芳香が放たれる。
 ゆがんだ含み笑いがこぼれた。
「あの娘に教えてやるがいいわ。そうすれば分かる。貴方の何を欲したのか」
 生ぬるいオイルが、指先とともに背中をつたってゆく。
 ぬめる光を帯びたナイフが喉に突きつけられる。皮一枚を裂く浅い痛みが走り抜けた。
「間違っても貴方自身じゃないってことが」
 慰撫と、加虐。
 凄絶に入り交じった倒錯の不協和音にハダシュは軋む悲鳴を上げた。のけぞるたび、身体を引きつらせるたび、ナイフの切っ先が背の刺青を削ぎ、切り裂き、突き刺して、無惨に傷つけてゆく。
 頸に巻き付いた綱が、なおいっそう病的な拘束を強めてぎりぎりと絞めつける。
 血と薔薇の甘い香りが耐え難く鼻腔を満たした。熱班のように広がっていく感覚。
 身体中に疵痕を刻みつけられる、その一突き一突きのすくみ上がるような痛みが、耐えきれない陶酔の痺れとなって背筋を襲う。頭と身体の神経がばらばらに繋ぎ変えられてしまったかのようだった。
「ちがう」
 混乱する意識をかき集め、ようやくハダシュはそれだけをうめく。
 謎めく微笑をもらして、ヴェンデッタはナイフを捨てた。両腕を背後からつかむ。
 熱いくちびるが、背に押し当てられた。

 傷のひとつひとつを、半開きのくちびるがねっとりと責め立てる。ハダシュはひりつく痛みに腰を仰け反らせて喘いだ。
 血をすするかのように、魂までえぐるかのように、舌の先が傷に這い入ってくる。
「忘れたのなら思い出させてあげる――もう戻れないことを。戻れるはずもないということを」
 おそろしいささやきにハダシュはうめきを上げかけた。
 たちこめる血と薔薇の香り。苦悦の狂気が呼び覚まされる。
 男にほだされ、娼館から逃げた少女。泣きじゃくる娘の目の前で男を殺した。少女は他の男に引き回され、人ではない扱いをされて死んだ。
 闇の世界と接点を持たない女。見せしめに殺せと言われて言われるがままに犯し、晒した。女は自殺した。が、人違いだった。他に二人も殺さねばならなかった。
 殺せば殺すほど、壊れていく。
 血に酔い、力に溺れた。命も金も手水のようにこぼれていく。
 思考を奪わせるため、身体を弄ばせるためなら、たとえ相手が誰でまたそれがどれほど屈辱的な行為でもかまわなかった。女を買い男に買われクスリに身体を蝕ませ――たとえ一瞬でも、心と身体を引き剥がしてくれればそれでよかった。だが、無駄だった。
 何一つ、変えられない。
 情交の火照りが冷めるたび、それを思い知らされる。
 生きて行くには、壊れたこころを悲鳴と狂気と笑い声でつなぎ合わせるしかなかった。心で傷つく代わりに血肉を痛めつけることでしか、悪夢とも現実ともつかぬ虚無のつなぎ目を感じ取ることができなかった。
 だから、殺し続けた。
 薄汚い部屋で。薄暗い部屋で。
 ヴェンデッタだけが抱いてくれた。希求して止まない飢餓感を癒してくれた。貴方のせいじゃない、貴方は何も考えなくていい、私が赦してあげる、貴方が欲しいものを全部あげる――どこまでも一緒に堕ちていってあげる――だから、私のもとへ来て。

 すがることができたのは女の狂気だけだった。
 ヴェンデッタの眼が。
 前から回り込んできた手が。
 後ろから差し入れられた指が。
 闇の薔薇にも似た凄艶な唇が。
 潜り込んでくる。妖美にささやく。かすれつく紅の色でわざと肌を汚す。
 ハダシュはもはや意味を為さない喘ぎだけをもらし、震えた。
 欲望したたる枝に、黒い蛇がからみついて、くねって。
 半開きにした唇からだらしなくも艶冶な声がもれる。誇りも自我もない、御しきれない呻き。
 目が、合う。
 互いのもらす獣のような呼吸ばかりが部屋に満ち満ちてゆく。なぜか、もつれ合う視線を離せなかった。
 そのまま、唇を奪われる。放心状態に陥っていたハダシュは、抵抗もできずヴェンデッタの情火を受け入れた。
 泥のようなくちづけ。
 思いつめた眼がハダシュを射抜く。
 ぬかづいて愛しい男の首をいだき、その血にまみれて微笑む女のような、そんな狂乱の色香が濃密に匂い立っている。
 全身が燃えるように熱く、ねっとりと濡れて、欲情を放っていた。
 淫らな声が涎のように滴っては吐息まじりにこぼれた。腰が逃げてしまうのを両手で押さえられ、抱き寄せられる。
 触れるものの熱さに、ハダシュはたまらず獣のような呻きを上げ、身をよじらせた。
「だめよ」
 女が身体の重みすべてをかけてくる。首が絞まり、喉がつぶれた。
 その状態でくわえられ、まさぐられ、揺すぶられ続ける。
 頭が破裂しそうだった。息もできず、半分意識を無くしながら、人形のように蹂躙されている。
 苦悶と悦楽の間をさまよいながらもだらだらと垂れて落ちる、ぬるく泡立つものの感触。
 かき乱され、声を上げさせられるたびに、女の狂気に恋い焦がれた自身の姿を脳髄の芯にえぐりつけられる。憎悪が深まれば深まるほど、身体がその残酷な支配を乞うて狂おしくゆがみ、悶え、高ぶってゆく。
 人間らしい、あまやかな感情のゆらぎを感じたことのない者同士であるが故に、他のどんな想いにも置き換えのきかない唯一無二の激情でその身を切り苛むしか魂を凄まじく結びつけるすべを知らない――
 もしそれが愛などというものの変わり果てた姿なのだとしたら。
 すべてがあまりにも悲惨で虚ろ、そして、破滅的だった。

 視野の隅でかすかにローエンが動いた。
「ヴェンデッタ」
 聞き取れないほど弱々しい声だった。ヴェンデッタは返事もしない。見向きすらしなかった。
 ローエンはがたがたと震えながら引きつる声で繰り返した。
「頼む」
「邪魔。消えて」
 ヴェンデッタは残酷に遮った。
「もう貴方に用はないと言ったでしょ」
 ローエンは雷に打たれたかのようによろめいた。慄然と立ちつくす。
 ヴェンデッタはハダシュを抱いたまま、嘲笑を含んだ視線を走らせた。髪を乱暴につかみ、身体を引き起こさせて、わざと行為の残滓を晒す。
 愛撫と欲情にただれきった身体をぐったりとヴェンデッタにあずけ、ハダシュは弱々しく喘いだ。
 頭の中で、ローエンの声がひどい叫びとなって鳴り渡っている。なのに、身体がいうことを聞かない。
「お、俺はあんたのために」
「誰がいつそんなことを頼んだの」
 ヴェンデッタはローエンの激昂をわざとハダシュの耳元で揶揄してみせた。胸のピアスを指先で転がしあそびながら、危険なまなざしをローエンへと擦り流す。
 ローエンはぶるぶると痙攣する手にナイフを握りしめていた。情事をまともに見ることもできず、俯いたまま、全身をこわばらせている。断続的な吐息ばかりが執念深く立ちのぼっていた。
「どうする気、そんなもので」
 ナイフが眼に止まったらしく、ヴェンデッタはさらに低く嘲ってハダシュの身体をわずかにゆすった。
 隠されていた烙印があらわになる。まだ治りきってもいない、隷奴の売値をあらわす醜い火傷――ハダシュの身体中に刻まれた無数の傷、血のこごり、あるいは刺青、ヴェンデッタの妄執そのものの証が。
 指の先から内腿へ、さらにはふくらはぎにかけ淫猥な糸を引いて、血とまざりあった白い泥が伝い落ちてゆく。
「やめろ」
 ローエンは伏せていた顔をあげた。じりじり揺れる蝋燭の火を溶かし込んだ眼は、まるで毒を帯び燃える鉛のようだった。
 ヴェンデッタがためいきをつく。
「嫉妬か。哀れなものね」
「言うな」
 ローエンが怒鳴った。
「言わないでくれ。それ以上」
 押し開かれた眼に、焼けるような火と暴力が宿った。
「言うな」
 ローエンは壊れた雄叫びを上げ、ハダシュに駆け寄ってナイフを振りかざした。血濡れの刃に残った赤い飛沫が天井にまで奔りつく。
 とっさの反応など望めるはずもなかった。ハダシュは棒のように突き飛ばされ、次いで振り子のように引き戻された。
 足がもつれる。支えを失った縄が全体重もろとも首を締め上げる。白い閃光が脳裏に散乱した。
 意識が吹き飛ぶ。
 あとはまるで水の中での出来事のようだった。乱れる足音。ローエンの叫び声。ヴェンデッタのくぐもった呻きが遠く交錯し、もつれて。
 視界が戻ってくる。
 ハダシュは喉に食い込んだ縄を掴んだ。ゆるめようとして激しくむせる。
 突いた手の感触が床に這いつくばっていることを教えていた。縄が切られている。血を吸った切れ端がとぐろを巻いて床に落ちていた。
「どうして」
 ローエンが後ずさった。
 背後にあった棚にぶつかる。勢いで横板がはずれた。乱雑に積み重なっていたがらくたごと転がり落ちてゆく。次々と床に跳ね、倒れ、割れる様は、まるでローエン自身が壊れてゆくかのようだった。
「そんな奴のために」
 床に、ぽたりと赤いものが滴り落ちた。
 また一つ。さらに二つ。みるみる飛沫が大きくなる。
 ハダシュは呆然とヴェンデッタを見上げた。
 袖が裂けてちぎれている。手袋も同じように裂けていた。
 血まみれの切っ先が手の甲を深々とつらぬいている。
 ヴェンデッタはくちびるをゆがめナイフを引き抜いた。血が法外にあふれて、降り初めた雨のようにハダシュへと降りかかる。
 大粒の血滴がぼたぼた音を立てて床に飛び散った。
 ヴェンデッタは痛みに青ざめた顔を石像のようにこわばらせた。
「言ったはずよ。私にはハダシュが必要だと」
 低い声に、ハダシュもローエンも息を呑む。ヴェンデッタは掌から流れくだる血の色に目を落とした。
「かつての貴方からは、血の臭いがした。拭っても拭っても取れない殺戮の匂い。血を吸ったナイフにだけ映るうつろな光。満たされぬ世界にあって、どれほど憎んでも愛しても決して飽きたらぬ闇の輝き。やっと見つけた――そう思った」
 ゆっくりと語るその語尾に、しずかな、だがつんざくような恐ろしい響きがこもった。
「でも今は、貴方の弱さが余りにも憎い」
 ヴェンデッタは足を上げ、ハダシュの顔を力任せに踏みにじった。
「こんなものが貴方のすべてだったなんて」
 激情の海に引きずり込まれ、ハダシュは辛苦の呻きを上げた。
「全てを奪い尽くしてやりたくても、貴方は何ひとつ持っていない。踏みにじってもずたずたに傷つけても、貴方は何も無くさない。自我の意味さえ分かりもしないくせに、自分を棄てたつもりになって酔いしれている。だからそんなにも弱いのよ。私が失ってきたものを貴方にも教えてあげる。そうすれば分かる」
 ヴェンデッタは一瞬のきらめきを凄まじく眼に宿らせてから、ローエンの足下へナイフをなげうった。
 とてつもなく無機質な軽い音が響きわたる。
 ローエンは震えた。全てを失った眼が、つい今しがたまでの彼自身に似たナイフの切っ先を呆然と見つめる。
「始末しなさい」
 残酷な微笑みを最後に、ヴェンデッタはきびすを返した。
「私が欲しいのなら、ね」
 ローエンの顔色が変わった。
 黒い薔薇の香りが途切れる。
 詰めていた気息からようやく解き放たれ、ローエンはよろめいた。がくりと両膝をつき、床のナイフに震える手を伸ばす。
 まるで糸の切れた人形のようだった。ナイフ一本握ることができず、拾っては落とし、落としてはまた手を伸ばして、そのたびに呻く。
「目を覚ませ、ローエン」
 ハダシュは息を乱し、ぬめる床に手を突いて喘いだ。生きながら埋められた古い墓地から、世を怨んで這いずり出ようとする死人にでもなったような気持ちだった。腰から下がおそろしくだるく、動かせない。
「あの女はお前を利用してるだけだ」
 刹那、ぎらりと走った悲愴の目にハダシュは気を呑まれる。
 声が続かない。
 包み込むようにして持ったナイフをだらりと両手にさげ、ローエンは扉へ倒れかかった。
「あのひとの考えることぐらい、もとより分かってる」
 倦んだ様子でつぶやく。声が熱を帯びて震えていた。
 窓の外の雨が、ふいに音を高くして降りしきった。その合間から途切れ途切れにラトゥースの声が伝わってくる。
 水を跳ね飛ばす靴音、涙混じりのさけび。この雨の中をずっとハダシュを探し走り回っていたのか。
「悪くねえダチだったよな、俺たち」
 ローエンもまた、窓の外の声に気付いたようだった。視線を遠くへ走らせ、あきらめたようにつぶやく。
「クズはクズ同士、うまくやれると思ってた。でも、そう思ってたのは俺だけだった。うだつの上がらねえチンピラが身の程もわきまえずに女に泣きつかれて組織を裏切ったつもりが」
 ローエンはナイフを手にしたまま、呆然と泣き笑った。
「お前をおびき寄せる囮にしかなれねえなんて」
 ハダシュはローエンを見つめた。何も言えない。何も言うことはない。分かっているのは、もう二度とあのころには戻れないということだけだった。ハダシュがどんな選択をしようと、それはローエンの自負を傷つける。
「それでも、俺にはもうあのひとのところ以外戻る場所がねえんだ。お前を殺せば、あのひとは俺を道具じゃなく人間として見てくれる。いつか必要としてくれるようになる。こんな、悔しくて、歯がゆくて、どうしようもなく喚き散らしたい気持ちにならずにすむ。あのひとがお前を選んだなんて認めずにすむ」
 声がみるみるつり上がって裏返る。切り裂かれたような叫びだった。
「そうだろハダシュ。そうだって言え」
 ローエンは体中から危険な熱気を放ち、ハダシュにつかみかかった。
 よろめいて飛び退くハダシュの足に、積み上げてあった古網がもつれた。たまらず平衡を崩して倒れ込む。
「死ねよ」
 ローエンはのしかかってハダシュの肩を手で押さえ、頭上に高くナイフを振り上げた。
 とっさに腰身を跳ね上げる。
 はじき飛ばされてローエンは顔から古網につんのめった。その隙に手首をひしいでナイフを奪い、横にころがりざまなぎ払う。
 だが脱力しきった身体には荷の重すぎる動きだった。ローエンの腕をかすめただけでナイフはもろくも弾き飛ばされ、すっぽ抜ける。
 蹴り飛ばしたがらくたが馬鹿げた音をたて、転がった。
 ローエンは吐くように呻いてまろび逃れ、壁に血の跡をすりつけながら立ち上がった。
 震える腕を伝い、血が床に黒くこぼれおちる。したたる音ばかりが、異様に大きく聞こえた。
「返せ。あのひとを返してくれ」
 ローエンは悲鳴を張り上げながら体ごとハダシュにぶつかった。もつれ合って壁にぶち当たる。勢いで、朽ちかけた窓枠が外れた。
 大きく上体を迫り出す。今にも真っ逆さまに墜落しそうだった。
「死んでくれよハダシュ。頼むから、殺されてくれ」
 埋み火のようなぎらぎらとした眼が、脂汗の滲む浅黒い顔の中心で光っていた。煮こぼれる憎悪のこもった拳が振り上げられる。泣き叫ぶ子どものような殴り方だった。
 心のどこかが、このまま抵抗するのをやめてローエンの望みどおり落ちてしまえ、とささやいていた。
「ハダシュ」
 そのとき、今度こそ水を打ったかのようなラトゥースの声が飛び込んできた。
 眼下の端道にラトゥースがいる。振り払った剣が煙のように水を弾いて光るのが見えた。
「待って、すぐにそっちへ」
 仰向けた顔を強い雨粒が撃ち抜いてゆく。
 ハダシュは我に返った。壁をつかむ。
 ローエンは獣のように唸ってハダシュの喉を掴んだ。爪を立て、力任せに押し出そうとする。
 背骨が砕けそうに痛んだ。足が宙に浮く。ハダシュは歯を食いしばった。こんなところで落ちるわけには――死ぬわけにはいかない。
 壁から引き剥がした掌底で、ローエンのあごを突き上げる。真正面から入った一撃が喉の傷を叩きつぶした。
 ローエンの身体に痙攣が走る。一瞬、体の重みが薄らいだ。破裂したかのような血がしぶきとなって顔に降りかかる。
 ハダシュはローエンを引きつけざま、首を脇に抱え込んだ。
 絶望的な確信を込め、身体をひねり込む。
 首が、へし折れたような音をたててゆがんだ。
 絶叫の手がハダシュの顔を掻きむしる。
 ハダシュもまた叫んでいた。
 茫然とした顔が前のめる。
 時間までが壊れてしまったかのようだった。
 ローエンの身体が限りなくのろのろと滑り落ちて――

 音がかき消える。
 どしゃぶる雨でさえもが無数の水泡のように一瞬、空中でこおりついて。

 どこか遠くで鈍い落下音がした。
 雨は変わらず降りしきっている。
 ハダシュは酷く痛む頭を振った。
 ローエンの姿はもう部屋の中のどこにもない。ただ、遠い雨音だけが底光る闇に吸い込まれていく。
 ハダシュはずるずると窓際に腰を落とした。こみ上げてきた寒気を押さえ込むかのように、頬についた生ぬるい水を無意識に拳の背でぬぐう。
 ――血まみれだった。
「ハダシュ、大丈夫」
 悲鳴のような声が階段を駆け昇ってくる。すぐにサーベルを引っさげたラトゥースが飛び込んできた。
 水を振り散らし身構える。
「あの男は」
 ラトゥースは濡れた髪を乱して周りを見渡した。が、すぐに部屋を支配する異様な気配に気付き絶句する。
 ハダシュはぼんやりと目の前の床に残った血掠れを見つめた。
「死んだ」
 掌をのろのろと裏返す。どこもかしこも血の色だ。もはや誰のものだったのかも分からないほど混じり合った嫌悪の色。
 絞り出すようにつぶやく。
「俺が、殺した」
 圧倒的な雨の音が、他の音すべてを塗り隠した。
「とにかく、」
 ラトゥースはおびえたように下くちびるをふるわせた。血まみれの背中、まざまざと残る首の索状痕、その他の痕跡を呆然と見つめる。
 ふいに恐怖の色が目に浮かんだ。
「ここから出よう」
 ラトゥースはハダシュに駆け寄った。側に屈み込み、急いた仕草で腕を掴む。
「早く」
「触るな」
 ハダシュは目の前の床をやにわに殴りつけた。血が飛び散る。
「俺が殺したんだ」
 ラトゥースは出かかった悲鳴を反射的に呑み込んだ。握りしめた手を口に押し当てる。
「君のせいなんかじゃ」
「うるさい。黙れ。お前には関係ない」
 叩きつけるように言葉を切る。
 ハダシュは目をかたくなに瞑った。
 そうやって拒絶すれば全て閉め出せるはずだった。ラトゥースに感じたまぶしすぎる光も手の届かない焦燥感も、目さえ背けてしまえば失わずにすむ。無くしたことに気付かないでいられるはずだった。
 だが、叶わない。
 血を握りしめた拳が蝋燭のように白い。
「ハダシュ」
 ラトゥースは涙ぐむ声を詰まらせた。
「自分を責めないで。君のせいじゃない」
 泣き出しそうな声だった。
 ラトゥースは手袋を捨て、ふるえる指でハダシュの髪に触れた。頬を切なくつつみ込む。
「どうしようもなかったんだ。だから」
 ハダシュはゆっくりと息を吐いた。首を振る。
「触るな。お前まで血に汚れる」
 腕と片膝に顔をうずめ、目の前の一点をうつろに見つめて、つぶやく。
「そんなことない」
 見返すラトゥースの眼に涙が浮かんでいる。それだけで胸の奥が今にも握りつぶされそうに痛んだ。
 たまらず眼をそむける。
 ハダシュは手をついて立ち上がった。血に濡れた髪を顔に貼りつかせ、人形のようにぎごちなく歩き出す。灼熱の切り傷に身体中が声なき悲鳴を上げた。
「待って。どこに行くの」
 おののく声でラトゥースが遮る。
 ハダシュは乾ききった眼でラトゥースを見やった。
「あの女を殺す」
 抑揚のない声が口を衝いて出る。
 ラトゥースは呆然とよろめいた。うろたえた視線が、ハダシュと踏み荒らされた血溜まりの合間をさまよう。
 争った気配もない女の靴跡がひとつ、扉の向こうへ吸い込まれるように消えている。ふいに柳眉がきつくひそめられた。
「いけない」
 ラトゥースは跳ね返るように駆け戻った。ハダシュの前に立ちはだかる。
「だめだ。憎しみにかられて仇を殺したって何にも取り戻せない。ギュスタのことを忘れたの」
「法律なんかクソくらえだ」
 ハダシュはいきなりラトゥースを払いのけ、怒鳴った。
「俺は俺のやりたいようにやる」
 ラトゥースは木の扉にぶつかって悲鳴を上げた。はずみで手にしたサーベルを取り落とす。割れるような甲高い音がした。
「何を言い出すんだ、急に」
「どけ」
 ハダシュは冷ややかに言った。
 ラトゥースはとっさにサーベルを拾いあげた。切っ先をハダシュへ向ける。
「いやだ。行かせない」
 声がふるえている。ハダシュは血色の眼を凄惨に光らせた。
「邪魔するな」
 底ごもる声で脅しつける。
「殺すぞ」
「ハダシュ」
 ラトゥースは絞め上げられたようなうめきをあげ、後ずさった。背中が扉にぶつかる。
 ちょうつがいがたわんだ。するどく軋む。
「僕がそれを君に許すとでも思ってるの」
 白い息が立ちのぼった。いったん息を継ぎ、ひくく続ける。
「そんなの、だめだよ」
 青ざめた顔、震えるくちびる。必死の思いに揺れる瞳がハダシュをにらみつけて、心底まで突き通すかのように輝いた。
「怖いから、憎いから、許せないから戦うんじゃないんだ。あの夜、君と出会ってやっとその意味が分かった。君のことを知れば知るほど、君の気持ちを思えば思うほど、それが僕の使命だと思うようになった。国とか、正義とか、そんなもののためだけじゃなくて――」
 胸を焦がす青白い炎。
 ハダシュはその色にふと心を奪われた。
 剣先がぶるぶると震えている。狙いすら定まっていない。
 閉じきった扉の前で、逃げるすべもなく、何十人もの命を平気で奪ってきた殺し屋を目の前にして、それでも泣きそうな顔を必死に押し殺して、今にもちぎれて飛び散りかねない何かのために、立ちふさがっている。
 何がラトゥースをそんなにも追い立てているのだろう。何のために――
 また寒気が襲いかかってくる。
 ハダシュは幽鬼のように手を伸ばしラトゥースの腕を掴んだ。
 ラトゥースはとっさにサーベルを引いた。息を呑み、声を詰まらせる。
 ハダシュは薄暗い笑いをうかべた。
「そんな顔するなよ」
 一気に間合いをつめ、サーベルをはじき飛ばす。及び腰のラトゥースに足払いをかけると、華奢な身体はあっけなくもんどり打った。
 手首を掴み、獰猛に組み伏せる。
「やめろ」
 ラトゥースは苦しげにもがいた。乱れた髪がまとわりつく。
 ハダシュはゆらりと顔を寄せた。
 ぞっとする息づかいで見下ろす。
「お前が正義や使命にうつつを抜かすのは勝手だ。だがそんなもの――」
「やめて。お願い」
 ラトゥースは懇願に近い呻きをもらした。ハダシュは掴んだ手にさらに強い力を込めた。ラトゥースの顔が苦痛にゆがむ。
「俺の知った事じゃない」
「痛い。離して」
「ふざけるな」
 ハダシュは絞り出すように言った。
「ギュスタの何がお前に分かる。家族を奪われ、誇りを汚され、自分の無力さをどうしようもなく思い知らされて、何もできない、何も果たせない悔しさに苛まれたまま死んでいく人間の気持ちが」
「分からないよ。分からないけど」
 ラトゥースは激しく身体をよじって抗おうとした。
「分かりたいと思うことの何が悪い」
「何もかも剥ぎ取られて、それでもまだそんなことを言っていられるのかお前は」
 言うなり、こめかみ近くの床に砕け散るような拳の一撃を叩きつける。
 悲鳴を上げかけたラトゥースの身体が、恐怖と衝撃にのけぞった。
「ギュスタも死んだ。ローエンも死んだ。次は誰の番だと思ってる。俺か。あの女か。違うだろう」
 ハダシュは爆発する感情をラトゥースに突きつけた。胸ぐらを掴み、力任せに揺すぶって床にたたきつける。
「奴が次に狙うのは国王じゃない。お前だ。何もかも奪われて、何もかもなくして、それでも平気でいろっていうのか」
 ラトゥースは愕然と息をすすり込んだ。
 もがく声が、ふいに途切れる。
 抵抗を無くした身体を、ハダシュは殴りかかりたい衝動に駆られながら必死にもぎはなした。そのままでいれば激昂のあまり別の衝動へ変わってしまいそうだった。
「少しは抵抗しろ。犯すぞ、この」
 罵倒しかけて、絶句する。
 怒りと涙の入り交じった眼がハダシュを見上げていた。
「君は間違ってる」
 組み敷かれ、震えながら、それでも血を吐くような声で喘ぎ、呻く。熱を帯びた呼吸だけが痛々しく耳にこびりついた。
「これ以上、君が苦しむのを見たくない。君に罪を犯して欲しくない。それだけなんだ。それだけなのに」
 一途すぎる正当さに、ハダシュは凍りついた。恐怖と理性が喉元に突き刺さる。後頭部を殴られたような衝撃だった。
 そのまま慄然と後ずさる。耐えきれずハダシュは逃げ出した。部屋を飛び出す。
「待って」
 ラトゥースが跳ね起きて追いかけてくる。階段を駆け下りる足音が甲高く響いた。肘を掴まれる。
 もつれ合うように壁にぶつかり、そのまま夜の雨の中へ転がり出る。
「話を聞いて」
 思いあまった必死の声がハダシュを引きとめる。ハダシュは惨めな気持ちを押し殺して立ち止まった。
 絶望にさいなまれつつ、振り返る。
「俺にはできない」
「いいから聞いて」
 頼りなげにラトゥースは言葉をかさねた。矢継ぎ早に話していなければ、ハダシュを見失ってしまうと恐れてでもいるかのようだった。
「前に言ったかもしれないけど。僕がクーイーに来たのは、刺客が首魁だと偽った義父の疑いを晴らすためだ」
 雨は、いつ止むともなく降り続けている。
 ラトゥースの髪がまた濡れ始める。前髪から大きな滴がしたたった。
「〈黒薔薇〉が本当のところ何者なのか、僕らは知らない。陛下を狙う刺客がなぜそんなことを偽るのかも。でも今は放たれた刺客そのものが罠だったような気がしてならないんだ。本当はこんなこと諸侯に知られたら何が起こるか分からない。でも、義父が揉み消すことを許さなかった。陥れることが第一の目的なら、他の全てを欺いてまでも意図を探らなければ逆にシャノアの国家体制まで疑われることになりかねない」
 寒さのせいか、語尾が心なしか震えている。ハダシュはヴェンデッタの言葉をうつろに思い返した。
 海から吹く風に、水面が黒々とさざ波立っている。
 門の鉄柵から、なかばぶらさがってはみ出すギュスタの腕だけがのぞいている。生きてはいないことをまざまざと知らしめるかのように、その手はもう微動だにしない。
「連れて帰るのか」
 陰鬱に口を差し挟む。ラトゥースは思いつめた様子でうなずいた。
「陛下は義父を信じて猶予を下さった。義父の無実を僕の手で証明してみせろと仰有って下さった。だから、僕も信じようと思った。信じればきっと救えるはずだって思ったんだ。でも、助けられなかった」
 ハダシュは無言で柵を越え、反対側へ戻った。動かないギュスタの身体を抱え上げる。
 ぞっとする重さだ。暗闇から逃げ出そうともがき、叶わず、空しく飲み込まれる妄想が脳裏をよぎる。体重がローエンの重みのように肩へのしかかった。
「無理だ。持ち上げようがない」
 ハダシュはあきらめた。頭を振る。
 ラトゥースが柵から飛び降りてきた。ギュスタの側に屈み込む。
 腰のポケットを探り、黒曜石のペンタグラムを取り出す。指の間から涙のような鎖がこぼれた。
「もう、これ以上、誰も死なせたくないんだよ」
 ハダシュはラトゥースから目をそらした。
「聖堂に戻ってデカブツを連れてこい」
 言ってから、それは失敗だったかと悔やむ。
 シェイルならば総督府周辺の過敏すぎる警護に不穏な気配を感じ取るにちがいない。ラトゥースでさえ、沖に浮かぶ船影を見ただけで異変に気付いた。民間商船と偽り停泊する船団が実は不当に派遣されるルイネード海軍の一級ガレオンであり、それがカスマドーレの擬装と知ればどうなるか。カスマドーレの裏稼業とレグラムの癒着、ちらつくバクラントの影。それらから容易に答えは引き出せる。
 だが、それ自体がヴェンデッタの罠だとしたら――
 ラトゥースは雨に濡れて貼り付く邪魔な前髪をかきあげ、不安そうにハダシュを見た。
「君は」
 ハダシュはほぞを固めた。追っ手がいるかもしれないこの場にラトゥースを残すことはやはりできない。
「ギュスタを放置していくわけにはいかないだろう」
「そうだね。分かった。行ってくる」
「気をつけろよ」
 何気ない言葉にさえ、ラトゥースはびくりと肩を震わせた。すがるような眼で見上げる。
「一人でどこか行ったりしないよね」
 ハダシュはラトゥースの手からペンタグラムを取り上げた。指先に回してからめる。
「ああ」
「約束して」
「馬鹿か」
 ハダシュは肩をすくめて遮り、手で追い払う仕草をしてみせた。
「下らないこと考えてないでさっさと行け」
 ラトゥースはどこか打ちのめされたような顔で立ち上がった。
「ごめん」
 言うなり身をひるがえし駆け去ってゆく。
 若駒のような後ろ姿が雨に溶けて消えた。
 ハダシュはギュスタを見下ろした。手足が硬直を起こしている。苦悶にじむ非業の死顔だった。
 ぎゅっと握りしめた手の中で、黒い石を中央にあしらった銀のペンタグラムが光る。ハダシュは記憶の底を突かれ、短く息を吸い込んだ。
 傷だらけの古い石。
(閣下はギュスタ・サヴィスの正体をご存じない)
 シェイルの言葉と重なって、もう一つの声が脳裏によみがえる。
(私と手を組みましょ)
 黒い眼。黒い髪。絡めた指にあやしく光る、黒い指輪。
 もしかしたらギュスタは、己の中の真実に絶望したのかもしれなかった。何のために生きてきたのか、なぜ、生きてゆこうと思ったのか、その意味も理由もすべて失って。
「『引き返すべき黄金の橋』か」
 暗くかげり出していたハダシュの顔が、さらに酷薄な気配を滲ませてゆく。ハダシュは膝を立て手を突いて、ゆっくりと立ち上がった。
 狂気にも似た毒が心臓から全身へ回り、指の先まで冷たい死の色に染みつかせていく。闇が、戻ってくる。
 ハダシュは眼を上げる。

「戻れそうにもないな」
 その瞳が放つ光はもう、かつてと同じ血の色だった。
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