ラトゥースがシェイルや神官たちと共に駆けつけたとき、既にハダシュの姿はなかった。
マイアトールの神官たちが見守るなか、死神の装いをしたヌルヴァーナ祭官が白と黒の骸布にくるまれたギュスタの遺体を取り囲み、鉦を鳴らして鎮魂の呪誦をあげた。
おごそかに花が撒かれ、泣き声が送られる。だが、そんなささやかな弔いさえ一段と激しさを増す雨に追い立てられ、早々に切り上げられてしまった。
皆、逃げるように散ってゆく。
浄めにまかれた花びらが、雨に打たれ泥によごれて、無惨に踏みにじられている。
空をどよもす遠雷が聞こえた。
ラトゥースはやにわに閑散とし始めた運河のほとりに立ち、食い入るように水面を睨みつけていた。
たった一人、くずおれるようにうずくまっていたハダシュの姿を思い出す。
(何もかも剥ぎ取られて、それでもまだ、そんなことを言っていられるのか)
あのハダシュが子どものように震えていた。呪わしい捨てぜりふを口にしながら、今にもはりさけそうな眼をしていた。
どうして気付いてやれなかったのだろう。ラトゥースはただただ悔やんだ。ギュスタも、ローエンも死んだ。他にたくさんの人々が命を落とした。ハダシュが袂を分かつ理由の痛々しさに、言い表しようもない絶望感、無力感だけがつのってゆく。
雨のしずくが前髪を伝っては頬にこぼれおちた。拭っても、拭ってもとめどなかった。
ふと、背後から堅い靴音が近づいた。
ローエンの検視をすませたシェイルがランタンを手に歩み寄ってくる。
「そのままではお風邪を召します。雨套衣を」
帽子と折りたたまれた黒いマントを差し出される。
「ありがとう」
ラトゥースは無意識に応えたが、自ら袖を通そうとはしなかった。
「閣下。我々にはまだ為すべき事があります」
シェイルは声を押し殺した。ラトゥースの痩せた肩にマントをまわし掛け、子どもを相手にするときのように無理やり帽子をかぶせる。
ラトゥースは打ちひしがれた様子を隠そうともせず、シェイルを見返した。
「何をしろっていうんだ」
「逃げたハダシュと〈黒薔薇〉を捕らえ、共に断罪することです」
「逃げたんじゃない」
ラトゥースはとっさに声を高めた。
「〈黒薔薇〉を追っていったんだ。彼は〈黒薔薇〉が次に狙うのは僕だと言った。ハダシュがかつて悪に与していたことは間違いないし、それは許されるべき事じゃない。でも、今のハダシュは違う。間違いを悔いて、それで」
「聖堂にお戻り下さい」
慇懃ではあるが、断固とした口調だった。
「明日早朝、巡察使権限による抜き打ちの臨検がございます。閣下にも当然おいでいただかねばなりません」
ラトゥースは顔をそむけた。拗ねたようにうつむく。
「僕はハダシュを探す。見つけるまで帰らない」
「まさか任務を放棄なさるおつもりではありますまいな。〈黒薔薇〉と奴隷商人の結託をお忘れか」
書類ばさみを取り出しながらシェイルは容赦なく言った。
「ニール経由、南回り航路で出航予定の船団がございます。ルイネード船籍外洋船エウロラ号、随艦二隻および食料補給艦一隻。船主はジョルゼオ・ベルナーリほか、『冒険商人組合』名義での登録です。積み荷は主に黒羅紗、ガラス、金細工、アルコールなど。行き先はサウヴィー。帰路アンサール産の乳香、没薬、珊瑚、白金、黄金、香辛料、カシア等を積む、とあります」
「ふうん」
ラトゥースは興味なさそうにそのまま繰り返した。
「アンサールのサウヴィーね」
「追補として、ダージ・フラン軍港所属、五級フリゲート二隻、二級ガレオン一隻を護衛船として随行させる旨の許可申請がルイネード侯ガストン・ゴーティエの名で出され、現在すでにクーイー入港を受理されております。書類に不備はございませんが」
シェイルはそこでいったん言葉を切った。不審そうに書類から目をあげる。
「護衛にしてはやや過剰かと」
「見せて」
ラトゥースはわずかに目を底光らせた。シェイルの手から書類を取ってぱらぱらとめくり、航路図と寄港予定地の滞在日付を確認する。
「今頃出て間に合うのかな」
雨の波紋にさざめく運河をぼんやりと見渡してつぶやく。
「アンサールに向かう船は大概、ヒポラスの西風が吹き始める季節までにはバル・デハルの海峡を抜けておくというのが通例だと思ってたけれど」
シェイルは驚きの顔でまじまじとラトゥースを見下ろした。
「仰せの通りです。申し訳ございません。ではただちにその旨問いただして」
「いや、待って」
すばやく制する。
「臨検は予定通りでいい。『冒険商人組合』の共有船主の名簿はあるかい」
「間に挟んでございます」
「ああ」
ラトゥースはランプと鼻先がくっつきそうなほど書類に顔を寄せた。雨ににじんで読みづらくなった名簿をめくる。
「ルイネード侯も組合員だ。なるほどね――でも、護衛船三隻が気になるな。私掠でも働く気か。いや、それにしては行き先と目的がちぐはぐすぎる」
ラトゥースは眉間に皺を寄せながらさらに調べ続けた。指先を書類に這わせ、一人ずつ名前を確認しながらつぶやく。
「さっき見たガレオン船は、じゃあ何だったんだろう。暗くてはっきり見えなかったけど。あれは絶対に二級ガレオンなんかじゃ」
ラトゥースは怫然として口をつぐんだ。
「どうかなさいましたか」
「どうもこうもないさ。見てよこれ」
怒りもあらわに書類を閉じる。
「銀ギルドの船そのものじゃないか。カスマドーレ以下、ギルドの主だった商人が全員参加してる。まったく」
やにわにすべてが動き始める。ラトゥースはシェイルに書類を突っ返すなり厳しい表情で命じた。
「エウロラ号の船長を捜して身柄を拘束して。容疑は暴行でも執行妨害でも検疫でも何でもいい。真意を悟られるな」
「はっ」
するどく眼を細め、彼方を睨み付ける。
「つまり、こういうことじゃないかな。〈黒薔薇〉が陛下の暗殺騒ぎや奴隷狩り、聖堂の事件などを次々に起こして、僕らや王国騎士団の注意をそらしている間に、密輸するにはあまりにも目立ちすぎる何かを正規の貿易に見せかけ手に入れようと図った――」
「船種や行き先を擬装したルイネード船籍の軍艦に出港許可を出せるのはレグラムだけですからな」
シェイルはラトゥースのおそるべき考えを引き取った。
「しかし、これほど大それた企みをたかが刺客ごときに仕組まれるとは」
ラトゥースはかぶりを振る。
「いや、そうじゃないよ。どこかに本当の首謀者がいる。〈黒薔薇〉を裏で操り、レグラムやカスマドーレ、ルイネード侯を手玉にとって事を運ばせようとした人物が」
時に挑発的な笑みさえ浮かべながら、ラトゥースは海の方角を振り返った。
「港に行って来る。明け方までには必ず戻るよ」
「なりません」
シェイルが険しい表情で引き留める。ラトゥースは不敵に笑って身をかわした。
「大丈夫、ちょっと見てくるだけさ」
「閣下」
焦るシェイルを差し置いてラトゥースは腰につるしたサーベルの柄に手をやり、ぐいと引き起こして整えた。古めかしい傷だらけのベルトにさげた革ケースから、鈍色の地を金でいろどる銃床がのぞく。
「これが僕の為すべき使命だ。そうだろ」
ラトゥースは身をひるがえすと、一直線に雨の中へと飛び込んでいった。
◆
大小の商船で埋め尽くされた船着き場を横目に、ラトゥースは暗い倉庫街を伝い歩いていた。
帽子を目深にかぶり、降りしきる雨に鴉色のマントを暗く光らせながら進んでゆく。ときおりブーツが水たまりを踏んで、不自然なほど高い水音を飛び散らせた。
雨のにじんだ灯りは遠く、足下も暗い。
修理もされず斜めに傾いでいるせいで遠近感が狂って見える建物ばかりが次々と恐ろしげに迫ってくる陋巷をひとり孤独に歩いていると、不意を打って木戸を閉じたてる音にさえ足をすくませずにはいられないような、そんな気ばかりがした。
ハダシュの目にはこのような世界しか映っていなかったのだろうか。ラトゥースは身震いしてマントの襟をかきあわせた。首を振り、つば広の帽子にたまった雨のしずくをざっと振り払う。黒い羽根飾りが惨めに貼り付いていた。
倉庫街を抜け、広い船積み場に出る。
無数に林立するマストやだらりと垂れ下がって風に揺れる何本もの帆綱。手前には乱雑に重ねられた空の木箱、黴びた樽、破れた麻袋などが無造作に放り出され雨に打たれている。
聞こえてくるのは陰鬱な材木の軋みばかりだ。係留された貿易船の胴に打ち寄せる波が、船体をゆったりと傾がせているのだった。濡れそぼった船標がわびしく吹き流れている。
何隻もの帆船、あるいはガレー船が係留されている埠頭を、ラトゥースは護岸に沿って歩きながらゆっくりと見てまわった。
行く手に小さな灯台が見える。人工的な色をした光が海面を横切るたび、吹き降りの白い線と荒れた波がななめに浮かび上がった。
どの明かりも冷たい雨にさらされ、今にも立ち消えてしまいそうだ。
ポケットに手を入れ、どっぷりと暗い夜を見上げて、濡れるのも厭わずぼんやりと立ち止まる。
以前訪れたときは――
ラトゥースは記憶をたぐった。
辟易するほどの賑わしさにあふれていた気がする。
荷を降ろす間も惜しんで売り買いする声。出来の悪い乗組員しか集まらぬことに苦悩する船長たちの立ち話。船縁からふいにのぞく、目をぎょろつかせた異国の顔。
かごから逃げ出した豚や鵞鳥を必死の形相で追い回す子供がいたかと思えば、下船を禁じられた雇われ水夫を目当てに出入りする娼婦たちの胸も露わなローブに目のやり場をなくし、あまりのかしましさに目を奪われよそ見した挙げ句ぶつかった相手には怒鳴られ脅しつけられあわや掠われそうになったところを逃げまどう――
それらに比べれば、人気ない夜闇の波間に揺れる船はまるで死の海にただよう墓標のようだった。
ようやく、書類にあったエウロラ号の係留場所にたどりつく。
船標には『冒険商人組合』の紋章が染め抜かれていた。満載喫水線の水没具合から、船倉にたっぷりと荷を積み込んだ出港間際の状態であることも解る。かなり大きな船だ。
「いったい何だっていうんだ、あの野郎」
「一言もしゃべらないと思ってたら急に……こと言い出して」
バクラントの言葉。
ラトゥースはとっさに後ずさった。どこから声が聞こえてくるのか分からない。
あわてて周囲を見回す。
少し離れたところに、直径が一抱え以上もあるような巨大な丸太が樹皮もはがされないまま野積みにされているのが見えた。身を隠すには十分すぎる陰だ。
すぐさま暗がりに飛び込んで息をひそめる。
「おい、滅多なことを言うんじゃない。あの男は……って噂だ」
「まじかよ。薄気味悪いな」
「それより女だ。あの女」
複数の姿声がどやどやと船上に現れる。
肩にロープを掛けた男が船縁にうずくまり、何やらほどく仕草をしたかと思うと立ち上がって手を振った。舟板をかついだ数人が板を送り出し始める。
「せっかくのお目こぼしだ。楽しまねえとな」
「……無しの素寒貧が何言ってやがる」
「ちっ、……の分際で気取ってんじゃねえよ」
その後は訛りがきつすぎてまったく聞き取れない。
ラトゥースは苦々しく舌打ちした。
俗語だけではなさそうだ。明らかに北方系の方言が混じっている。
(彼らの造船航海技術が沿岸航行に限られ、遠洋航海が主流の現状に適応しきれなかったのは、我が国にとっても彼らにとっても幸いでございました。さもなくば両国は制海権を巡って終わりない争いを繰り返し、疲弊し続けたでありましょう)
王国経済の発展を語るとき、学習院の年老いた教師は折に触れてバクラントを引き合いに出し、比較して論じた。だがそれゆえに、と釘を差すことも老師は忘れなかった。
(伝統と格式を重んじる宗教国家バクラントが、既存の体制を破壊しつつ貿易および産業立国によって急速に地盤を固めてきた新興の王国シャノアに脅威を感じるようになったとしても、それは何ら不思議ではございません――)
「このまま脱船しちまうってのもいいな」
「金もあるし」
「借金の間違いじゃないのか」
笑いがはじける。
降りてきた水夫たちの姿はほぼ一様だった。
たぶだぶの半ズボンと袖のない革の胴着をつけ、首にバンダナを巻き、紐のついたドブネズミ色の毛糸帽子をかぶっている。やたら目立つ黄色や緑の靴下を穿き、靴は汚れたキャンバス。そろいもそろって恐ろしいほどの巨躯だ。毛むくじゃらの腕に錨の刺青が見える。
ラトゥースは水夫とエウロラ号の双方に目を走らせた。舟板はかけられたままだ。
忍び込むなら今しかない。と思いつつ、遠ざかってゆく水夫たちの気配にも焦りを覚える。
どうしようか迷ったとき、エウロラ号の甲板に青い吊りランプの光が浮かんで、さっと横切った。
ラトゥースは意を決した。息をひそめ、ゆっくりと水夫たちの跡をつけ始める。彼らの喋る内容を聞くことで何か新しい情報が手に入るかもしれない。
もし気付かれたらと思わないでもなかったが、その不安は雨が打ち消してくれた。もとより水夫たちはまったくといっていいほど身辺に注意を払っていない。相変わらず声高にしゃべり、時に笑いをあげながら入り組んだ倉庫街の路地へ入っていく。
ふと――
さほど遠くないところで犬が何かに吠えついた。獰猛な呼吸がぶつかり合う。鈍い音が聞こえた。唐突に裏返る鳴き声。続けざまにバケツか何かが壁にぶちあたって跳ね返り、転がる。
点々と響く、乾いた音。
残酷な静寂が戻ってくる。
ラトゥースはぞくりと身を震わせた。
くちびるを引き締め、なぜかしらこみあげてくる恐ろしさを噛み殺すようにして振り返る。
人の気配は、ない。
「考えすぎか」
苦笑いして再び進み始める。
その足元を、かすめるような黒い影が横切った。
男たちの濡れた足音がひびく。
孤独だった。時間の感覚もない。ここがどの辺りなのかも分からなくなりつつある。
潮っぽい藻やフジツボがびっしりと貼り付いた石橋の袂をくぐり、ぬかるみを蹴散らし、手すりもない急な九十九折りの階段を登り――まさに街の底辺と言っていいような泥道を、水夫たちは歩いてゆく。
ラトゥースは感情を押し殺し、水夫たちのあとをつけ続けた。
シェイルとの連絡手段がないことに気付いてはいた。孤立無援状態での深追いは禁物だということも。だがいくら頭では理解していても、心は闇を歩くよりはるかに杞憂な焦燥に追いつめられ急き立てられるばかり。どうしても追跡を止めることができない。
他のことなど何一つ考えられないほど悔やみ、恐れているというのに。
やり場のない苦衷が胸の奥底で出口を探し、声にならない軋みをあげている。
先の見えない無謀な行動を取っていると分かっていてなぜ続けるのか。感情を抑圧し麻痺させた今の状態で果たして冷静な状況判断を下せると言えるのか。
ラトゥースは雨を仰ぎ、真珠のようなため息をもらした。
「ハダシュ」
思うまい、考えるまいと耐えてきた名が無意識にこぼれる。
「どこにいるんだ」
あわてて口をつぐむが間に合わなかった。そんなこと考えてる場合ではないのに。
限界まで張りつめていた心の糸が緊張に耐えきれずふつりとちぎれた。耳障りな不協和音がかき鳴らされる。
任務に没頭さえしていればこみあげてくる感傷を圧殺できるはずだった。しかしひとたび恋々たる思いにとらわれてしまえばもうハダシュの暗い面影ばかりがやたら目の前にちらついて、どうしても消し去ることができない。
ラトゥースは自らの愚かしさにきつくくちびるを噛んだ。
自分が今何をしているのかようやく自覚する。水夫のあとを付けあわよくば情報を手に入れようと企図したつもりでいながら、その実、杳として消えたハダシュのゆくえをただあてどなく探し求め彷徨っているだけだ。
胸がつまって、ひどく苦しい。
初めて逢ったときのハダシュはまさに手負いのけものだった。身に染みついた血のにおい、虐待じみた背の刺青、総毛立つ眼の色。何もかもが異様で、追われる者特有の自暴自棄な態度をあらわにしていて。話を聞く耳すら持とうとしていなかった。
ラトゥースは息苦しさにふるえ出しそうな思いをおさえ、片目を手で覆った。やっと見せてくれた笑顔を失わせたくなかったのに。二度とあんな眼をしてほしくなかったのに。
次、〈黒薔薇〉と会えばハダシュはもう――
「そんな馬鹿なことあるものか」
ラトゥースは唐突に自らの思いを遮った。拒絶のかたちに唇を強く結び、帽子を目深に引き下げる。
と、どこかでぴしゃりと水が跳ねた。身をこわばらせ振り返る。
にわかに雨足が強くなった。
横殴りの吹き降りにあおられ、濡れて重くなったマントが激しく空をはたきつける。
ラトゥースは帽子を斜に押さえ身を低くして闇を凝視した。
誰かいるのか、それとも。
息を呑む。
後ずさり、手を腰のサーベルへ置いて、いつでも抜き払えるよう堅く握り込む。心臓の乱れ打つ音が身体の中でさらに高鳴った。
耳を限界までそばだて、鋼鉄の弦のように意識を研ぎ澄まし、雨音にまぎれているかもしれない別の音を、息を殺し、探る。
「一体いつまで歩かせる気だ」
水夫たちが不平そうに言い交わすだみ声が聞こえた。思ったよりかなり遠ざかっている。
ラトゥースは焦って声のする方向へと目を泳がせた。
「返事しろよ」
「何黙り込んでる」
「まさか周旋屋に行く気じゃねえだろうな」
いつの間にか水夫たちの態度がおかしい。見慣れぬ装いの男を全員で取り囲み口汚く罵っている。
中央の男は悠揚と立ち止まった。
「そう急くな。結構な上物が掛かっている」
ぞっとする低い声。
まさか。
いつの間に紛れ込んでいたのだろう。
ラトゥースは息をすすり込んだ。
そんな男、今までどこにもいなかったはずだった。怖ろしく背の高い男。足下まである漆黒のコートをまとい、ひどく反り返った凶悪な刀剣を手に下げ、雨に濡れた暗い色の髪を酷薄な表情に貼り付かせた男など。
傲然と石油のごとく燃える眼がラトゥースを見下ろしている。
「まさに”竜の書”と引き替えるにふさわしい」
嗜虐のかたちにつり上がった唇が、まぎれもなく端正なバクラント語を発した。
記憶が一気に巻き戻されていく。ラトゥースは絶句した。この声には聞き覚えがある。間違いない。あの晩、確か〈黒薔薇〉の背後にいた――
ラトゥースは混乱する思考に圧倒されながらも佩刀に手を突っ走らせた。
とたん、闇がごうっと渦を巻いて襲いかかった。凄まじい太刀風が雨を断ち切る。
男は一瞬でラトゥースの眼前に降り迫った。水しぶきがほとばしる。
「遅い」
口の端を凄惨な笑みに染めて。
「――!」
はじき飛ばされたサーベルが悲鳴のように甲高く宙を舞う。
一撃で打ち砕かれたラトゥースの身体が無惨に跳ね上がった。もんどりうって地面に激突する。
落ちたサーベルが真っ二つに折れて、点々と跳ね転がった。
「お、おい」
「だれだその女」
目の前でうち倒され意識もないラトゥースの姿に、さすがの水夫たちも及び腰になって後ずさる。
「貴様らの知ったことではない」
男は半ば水たまりに沈んだラトゥースの頬を容赦なくブーツで踏みにじった。苦痛に歪む青白い顔がみるみる泥にまみれ、汚れていく。濡れそぼった髪の下、こめかみ辺りから血があふれるように流れていた。
胸元に下げた王直下の証である紋章が、銀の光を放ってこぼれ出る。男は残酷に手を伸ばし、紋章を引きちぎった。ラトゥースは微動だにしない。
「金は〈黒薔薇〉から受け取れ。あとは――好きに嬲っていい」
男はラトゥースに侮蔑の視線をくれ、きびすを返した。
背後から獣のような唸りがあがる。続いて引きちぎられるような戦慄のうめき。
男はうすく笑って眼をほそめた。
◆
頭上に舞う黒衣の天使。残酷に指さしてはひそひそと笑っている。次に死ぬ者を示しているのか。
お前。
次はお前。
その次はお前。
まだ笑っている。鈴を振るような優しい声がさざめいている。
意識が戻れば、きっと、自分も。
ラトゥースは、かっと眼を押し開いた。
視界が渦を巻いてゆがんでいる。惨いほどの暴力をふるわれ痣だらけになった全身を、ぐったりと汚泥のような熱が取り巻いていた。口の中に残るおぞましい泥の味。そして。
両手首につけられた枷が鉄錆混じりに鳴った。とたん、こみ上げてくる嘔吐感に身を折りかける。
記憶が絶叫のようになだれかかってきた。下卑た笑い声。毛むくじゃらの手。闇。必死でそれを意識から振り払う。
状況の把握が先だ。麻痺した感覚が辛うじて理性を保てと告げている。
泣くのは、その後でいい。
異様に低い天井がまず目に付いた。木の腐ったような不潔な臭いが充満している。あとはじりじりと苦い煙を沸き立たせる鯨油ランプ。どことなく眩暈が残るような気がするのは不安定に揺れているせいだろうか。
窓もない薄暗い一室全体が、ぐらぐらと上下左右に傾いている。
他にもどぶねずみ色の背もたれと座面をもった四角い椅子があった。奥の壁には作りつけらしき雑木の机。机の閉まりきらない引き出しからは革ベルトと銃が垂れ下がっていた。
どうやら船の内部らしい。
おそらくエウロラ号ではないだろう。岸壁に係留されたままの商船、更に言えばいつ臨検が入るかもしれない船内に巡察使を拉致するほど〈黒薔薇〉もあの男も愚かではあるまい。と、すれば。
クーイー沖に停泊していた船影は一級ガレオン艦のものだった。だがエウロラ号の護衛船として登録されていたのはルイネード船籍の二級ガレオンだ。一級ガレオン戦艦は海軍の象徴であり艦隊の旗艦となるべき戦艦である。民間商船隊の護衛ごときにまわすなどあり得るはずがない。
扉が開いた。一瞬、外の様子がかいま見える。
男たちの笑い声がどっとわき起こる。ラトゥースは思わず身をすくませた。だがすぐにそれが自分に向けられたものではないと気付く。
扉一枚を隔てた向こう側は下甲板らしかった。
身の毛もよだつ光景が展開されている。何ヶ月もわたって不衛生きわまりない環境下で外洋航行を行う貿易船や軍船においては、その劣悪な労働条件ゆえにたとえ船が港内にあったとしても水夫たちの下船が許されないと聞く。
その代わり、陸から娼婦や男娼を――
ラトゥースはくぐもったうめきをもらし、目を背けた。あまりのおぞましさに正視すらできなかった。
「貴女も似たようなものよ、ラトゥース・ド・クレヴォー」
しなやかにすべり込んできた黒衣の女は唐突に言い放つなり後ろ手で戸を閉め、錠を下ろした。
ラトゥースは燃える視線を持ち上げた。
衣服のほとんどを引きちぎられ、両腕を頭の後ろに組まされたまま壁の吊り具に固定されびくとも動かせない。
それでも、赤黒く腫れた唇を無理にひきつらせて、ラトゥースは言い返した。
「縛られてなおもがくのは騎士として潔いあり方じゃないんでね」
「死ぬと分かってもまだそんなことを言えるのかしら」
女は口元を黒い布で覆い、腕を組んで斜に立ち構えている。
ラトゥースは相手の眼を見つめ、かすかな不屈の笑みを浮かべた。
「殺せるものなら殺してみろよ、〈黒薔薇〉のヴェンデッタ」
「あら」
女は顔を隠す頭巾を取り払った。
身体全体にまとった凍り付くような雰囲気さえなければ、美しすぎると評してもいい顔のつくりだった。あまりに完璧すぎて、少しでも傷がつけば全てを損ねてしまいかねないような、そんなあやうい印象さえ与える面差しがラトゥースをほの暗く見つめている。
「見た目に依らず骨があるのね」
〈黒薔薇〉は、左手の黒い革手袋をやや神経質な仕草できっちりとはめ直した。掌に収まるほどの小さなナイフを銀の鞘からゆっくりと抜く。
身をよじる鳥の形をした銀覆輪に細めの鎖が通っていた。鎖が指に絡まって繊細な音を立てる。
銀鎖の合間に、黒く光る指輪が見えた。
「壊してしまえば脆いと思ったけれど」
ラトゥースはしれっとした薄笑いを浮かべるだけして相手を見やった。〈黒薔薇〉はダーツの矢で遊ぶかのようにナイフを右、左と指先であやつり、ふいに手をひらめかせた。
軽い音をたてて、ナイフが壁に突き立つ。鎖がびしりと跳ね返って頬をするどく打った。ラトゥースは動かない。
「”竜の書”は渡さない」
「下手な嘘は命を縮めるわよ、似而非貴族さん」
〈黒薔薇〉はおもむろに歩み寄ってきて右手を伸ばし、ナイフを引き抜いた。その手に包帯が巻かれているのを、視界の隅で確認する。
「それが何か知りもしないで」
突っ張った手を耳近くの壁に置き、わざと目線をさげる嘲笑の仕草で、〈黒薔薇〉はラトゥースの眼をのぞき込む。
ラトゥースはその顔めがけて唾を吐きかけた。
〈黒薔薇〉は狐のように含み笑った。
「気の強い子」
手の甲で頬についた汚れを、ゆっくりと拭い取る。
ふいに眼がどす黒い怒りを含んでぎらりと燃え、ラトゥースの頬を張り飛ばした。指にはめた指輪が目元をかすめる。皮膚が裂けて血の小粒が飛んだ。
ラトゥースはうめきを必死で噛み殺した。かろうじて踏みとどまり、皮肉にかぶりを振る。
「あんたは僕が何者か知ってるらしい。だが、あり得ない話だ。そんなことは」
濡れて汚れた髪の下からじろりと見上げる。
〈黒薔薇〉の暗くかげった眼差しに、揺らめく炎が映り込んだ。
「――エルシリアの騎士でもなければね」
「残念ね。下らない時間稼ぎに付き合う気はないの」
案の定〈黒薔薇〉は眼の奥の光をするどくさせたが、すぐに刺をかき消し、籠絡の笑みに取って代えた。
「すぐに貴女は死ぬ。でも安心してくれていいのよ。死ぬのは貴女ひとりじゃない。貴女もよく知っている男が、いざなえるヌルヴァーナの宵闇をともに歩いてくれるわ」
ラトゥースは思わず相手に眼を走らせた。
皮肉な視線にぶつかる。胸の奥底がざらりと毛羽だった。反射的に目を伏せる。触れられたくない部分を無理やり暴かれ探られている気がした。
〈黒薔薇〉は嫣然と笑った。
「あら、誰のことだと思ったのかしら」
「うるさい」
ふざけた物言いに、つい声を荒立てる。
〈黒薔薇〉は眼を優しくなごませた。
「ハダシュならすぐに戻ってくるわ。そうせずにはいられないのよ、彼は」
背後から見えない氷の刃を突きつけられたような、そんな恐怖にかられてラトゥースは口をつぐんだ。隠さなければならない感情を見破られてしまったことに、今さらながら痛烈なほぞをかむ。
だが、知られてしまったのなら逆に隠す必要もない。圧倒的優位を敵が確信しているのならまだ付け入る隙はある。
ラトゥースは賭に出た。
「いい加減にして。これ以上ハダシュを利用しないで」
〈黒薔薇〉は小馬鹿にしたような短い息をついた。くちびるがつり上がる。身体の奥深いところから流れ出す血のこごりにも似た、深紅のためいき。
「利用――それはまたつまらない誤解をしたものね。私たちは依存しあっているだけ。互いにね。男と女ですもの」
〈黒薔薇〉は、慈愛に満ちた眼の奥底に陰惨な本性をにじませ、ラトゥースの頬に手を添わせた。
「分かるでしょ」
ほっそりとした指先が、ラトゥースの頬に落ちる血をぬぐう。
「触るな、陋劣な」
ラトゥースはからみつく〈黒薔薇〉の指から逃れようとした。
構わず、血の付いた指がぞわぞわとラトゥースのくちびるを弄ぶ。捕まえた鼠をなぶるに似た、柔らかく、それでいて残忍な仕草だった。
「そうかしら」
ぐいと頬を鷲掴みにされ、乱暴に振り向かせられる。ぞっとする眼が間近にあった。ラトゥースは歯を食いしばり、まとわりつく視線を振り払った。目を合わせば何もかも見透かされてしまう気がした。
「教えてあげましょうか。ハダシュが、どんなに」
〈黒薔薇〉が残酷に囁こうとしたとき、ノックがひびいた。戸板を釘で打ち抜いてぶら下げた白と赤の馬蹄型の飾りがぐらぐらと左右に揺れる。
〈黒薔薇〉は視線を肩越しに走らせた。口の端がいっそう妖艶につり上がる。
「やっと来たわね」
薔薇の香りを残して離れ、扉を開ける。入ってきたのはレグラムだった。濡れた茶色の帽子を取り、逆さまに返してつばの縁にたまった水を流し捨てる。
「何という不潔きわまりない船だ。デュゼナウ、いったい儂に何の」
言いかけて、レグラムは囚われのラトゥースと〈黒薔薇〉に気づき、貧相な驚きの声を上げた。
「何と」
状況の異様さにもかかわらず、好色な眼がラトゥースの下半身に吸い付いた。無駄のない腰高な身体つきからのびやかな足が投げ出されている姿に、舐めるような視線を這い回らせる。
レグラムは動揺した眼をはずさず、〈黒薔薇〉に声だけを向けた。
「〈黒薔薇〉というのはお前か」
「ええ、お初にお目に掛かります。総督閣下」
〈黒薔薇〉は陶然と頭を下げた。髪が流れ落ちてラトゥースの顔にあたった。ラトゥースはそれを振り払った。
「レグラム、貴様」
怒りがこみあげてきた。自分の置かれた状況も忘れて怒鳴りつける。
「恥を知れ。王国シャノアの官職にありながら悪党と結託し外患を誘致せんと企むとは」
「何だと」
レグラムはラトゥースの顔を初めてまじまじと見、悲鳴混じりの声をあげた。
「き、貴様はエルシリアの」
口走ってからその愚かさに気付いたらしく、レグラムは無様にうろたえた。
「く、く、〈黒薔薇〉とやら、なぜ彼奴が。デュゼナウはどこにいる」
「さあ、存じませんわ」
〈黒薔薇〉は素知らぬ顔で従容と微笑んだ。手がラトゥースの腰骨をまさぐる。
「触るな」
ラトゥースは背筋に走った悪寒に思わず身体を引きつらせた。つり下げた鎖がするどく鳴る。
レグラムはさすがに手を突きだし、かぶりをふった。
「いくら何でも儂の目の前でそれは」
〈黒薔薇〉の眼が何かを含んでひそみ笑う。
「気になさいますな。どうせ殺すのです。その前に、存分に辱めてやればよろしゅうございましょう」
執拗な指がわずかに残った衣服の切れ端をもてあそんでいる。今にもずり落ちそうだった。
「ここまで知られては言い逃れもかないますまい。貴方さまやカスマドーレ殿にも通謀の罪が科せられましょう。なれば我らが関与したという証拠もろとも海の藻屑と消えていただくまでのこと」
「しかしそれはまずい。儂はどうなる。この後」
レグラムは口ごもった。〈黒薔薇〉は何気なくつぶやいた。
「死ぬのよ」
レグラムは、がたりと物音をさせてあとずさった。一瞬、何を言われたのか分からなかったのだろう、唖然と立ちつくしてからやにわに血相を変え蒼白な顔で詰め寄る。
「裏切るのか、〈黒薔薇〉」
小心な官僚は必死で叫んだ。
「便宜を図ってやった恩を忘れたか。儂がいなければ貴様らなどクーイーに入街することも出来なかったのだぞ。この船の許可も、ラウールのことも儂が目をつぶってやらねば何一つ――」
凍り付いた微笑がレグラムを捕らえる。レグラムは息を呑んだ。
「恩、ね。そうかもしれない。何もかも貴方のおかげよ。今の私があるのは」
〈黒薔薇〉は煮えたぎる悪意のこもった視線を流しくれた。その眼に、レグラムは初めて何かを感じたようだった。
「どういうことだ」
「貴方には地獄の蛆虫にも劣る死に方をさせてやるわ。どんな罪人が受ける罰よりも恐ろしく、苦しく、絶望に満ちた最期を」
〈黒薔薇〉の低くかすれた声が、まるで響きわたる雷鳴のように部屋の全てを圧して通り抜ける。
「待て。なぜだ。儂が何をしたというんだ」
レグラムは竦然としてよろめいた。声がわなないている。暑くもないのに禿げ上がった額からみるみる汗が噴き出してきた。
「まだ分からないの、レグラム」
〈黒薔薇〉は壊れた笑い声を放った。それはまるで情感がごっそりと欠け落ちたあとに吹く、冷たく乾いた隙間風のように聞こえた。
「いい加減にしろ、〈黒薔薇〉」
ラトゥースは眉根をひきしぼって〈黒薔薇〉を睨み付けた。
「今さら何を画策しても無駄だ。僕が戻らないときにはすぐに部下が港を調査にやってくる手はずになっている。無駄な足掻きなんかせずにおとなしく観念するんだ」
〈黒薔薇〉はナイフを手にあそばせながら振り返った。ラトゥースの頬に手を沿わせ、冷然と笑う。
「信じてるの。可哀想ね」
切っ先がいたずらに耳朶を突いた。
「誰も助けになんて来ないのに」
ラトゥースは身体の芯が凍りつくのを感じた。耳元で鎖がむなしく空鳴り続けている。
「そんなものは虚しい幻想よ。どんなに助けを求めすがっても、救いの手は差し伸べられない。誰も助けてはくれないの。貴女にはそれを教えてあげる――見捨てられる恐怖、苦痛、憎悪、底知れぬ絶望と恨みにねじくれ荒んでゆく魂の真実を」
動けなかった。唇を曲げ、ひたすら耐える。痛みはなかったがなぜか身体がひどく震えて止まらなかった。耳の後ろをつたい流れる生ぬるい血の感触に全身が総毛立ってゆく。
”貴様ら”そして”デュゼナウ”。レグラムは確かにそう言った。やはりあの黒衣の男がバクラントから放たれた真の首謀者だったのか。
「私たちは荷物を送り出したあとハージュへ向かう。もちろん貴女にも同行してもらうわ」
〈黒薔薇〉は何事もなかったかのように言葉を継いだ。凍える微笑みが吐息とともに耳へ吹き入れられる。
「あの美しい湖に”竜毒”を流す」
背筋が極度の緊張に張りつめた。
「そんなことは絶対にさせない」
ラトゥースは壮絶の眼を〈黒薔薇〉へと突き刺した。エルシリアの都ハージュは湖の畔に築かれた森と湖の街である。汚染された湖の水が街に行き渡ったらどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
「勘違いしないで」
〈黒薔薇〉は水笛のように喉を震わせて笑った。
「大逆を犯すのは私じゃない、貴女よ。貴女には格別な味を教えてあげる。自虐にまみれた絶望、死に逝く者たちの呪わしい悲鳴をたっぷりとね」
「なぜそんなことをする」
遮ったつもりの声が不様に震える。
聖堂を死の帳で包み込んだ恐怖の記憶が甦った。すすり泣く声。痙攣し地面を打つ手足。積み上げられた死体からは鼻を突き刺す異様な臭いが漂い、次々と運び込まれてくる被害者は次第に手がつけられないほどの数となってベッドを床を地面さえ埋め尽くして。
ラトゥースの眼から憤りの涙が浮かんでは熱くこぼれ落ちた。それは怒り、悲しみ、おののきに満ちた激情の涙だった。
「あの人たちに何の罪があった。そんなに殺したければ僕ひとりをなぶり殺しにすればいいだろう。こんな身体でいいなら好きなだけくれてやる。何人殺せば気が済むんだ」
それを聞いた〈黒薔薇〉は口元にうっすらと笑みを掃いた。
「さあね。一人で十分なのかもしれないし、もしかしたら世界中の人間を殺してもまだ飽き足りないのかもしれない。この耐えがたい血の渇きを癒すには」
言いながら指先をゆたかな胸元に差し入れる。まとわりつく死の気配にも似た薔薇の刺青が青白い肩口にちらりとのぞいた。煙草いれを取り出して甘い香りの漂う一本を抜く。思わせぶりな視線がラトゥースを見下ろしていた。
「逆に尋ねるけれど、ハダシュと私は何が違うのかしら。あの男は私の目の前でジェルドリンを殺し、ローエンを殺し、麻薬におぼれ酒色に呑まれて何十という命を容赦なく奪ってきた。そんな血まみれの人生――私と何が違うというの」
「違う」
ラトゥースは何度も頭を振った。
「違う、ハダシュは――」
ハダシュは罪を悔い、償いの道を模索しようとしていた。己の過ちを振り返り暴力と憎悪以外の感情を知ろうとしていた。その思いを無にすることはできない。
「純情ね」
〈黒薔薇〉は煙草の端をナイフでちぎった。火が点けられる。眩暈のする紫煙が漂った。匂いが天井まで立ちのぼる。
深い闇の瞳がふいにラトゥースの視界を覆い尽くすほどに近づいた。
ラトゥースは驚いて顔を背けた。
「好きな相手ならたとえその男が人殺しでもいいの。本当に許せるかしら」
煙草を挟んだ妖艶な手が肌に触れた。潜り込んでくる。ラトゥースは恐怖の声をあげ身体をよじった。鎖の音が悲鳴のように響き渡る。
突然、くちびるに何か固いびんのようなものが押し当てられた。ぞっとするほど甘く熱い味がどろりと流れ込み、のどにからみつく。
そのまま、くちびるを塞がれる。ラトゥースはよわよわしくもがいた。
口の端からあまやかな毒がこぼれ、したたり落ちた。吐き出さなければ。いくらそう思っても声すら出ない。指一本動かせなかった。
身体の奥底が、ぞくりとうごめいた。
ぶるぶると乱れ髪を揺らがす。膝が震える。力が入らない。
心臓がやにわに熱く悶え打ちはじめるのが分かった。
「あ、あ……」
「貴女が彼を変えたのよ。貴女に邪魔されさえしなければハダシュは生まれ変われるはずだった」
ひそやかに高ぶるあやうい声で〈黒薔薇〉はささやいた。
「心の欠けた殺人鬼。血も涙もない悪魔。痛みを忘れた殺しの機械。貴女さえいなければ今頃はもう憎しみだけを糧に生きる闇の世界の住人になっているはずだった。私とともに生と死の極限に到達しているはずだった」
「そんなこと」
許さない。そう叫んだつもりだった。だがろれつが回らない。ラトゥースは焦点の定まらない眼で必死に相手を睨もうとし、眩暈にぐらぐらとする頭を懸命に揺り起こした。だが支えきれない。がくりと頭が仰け反る。
耐えがたい息がもれる。
〈黒薔薇〉は指先でラトゥースの顎をつい、と上げた。
「罪の味はどうだったかしら」
悩ましげな笑みが濡れた唇の端を吊り上げていた。ラトゥースはその表情に眼を奪われた。吸い寄せられそうになる。のぞき込んだ眼の奥に記憶のかけらが映っていた。ハダシュの、あの――ぬめるような褐色の肌に情を交わした残熱をまざまざと残した――姿が、今の自分と重なってゆく。また目が眩んだ。意識が遠くなる。
誰の声かも分からない、乱れた息が。
ラトゥースは悲鳴に近いあえぎを放って汗みずくの身体をのけぞらせた。こんな馬鹿なことなどあるはずがない。心のどこか片隅に残った理性が拒絶の叫びをあげる。
声が、漏らした息が、熱を帯びて泣いている。
信じたくない。あり得ない。罪深い感覚にもてあそばれ抗うこともできず涙する声。暴かれ苦しめられ強いられているその声が自分のものだ、などということは。
喉の奥が苦しげな声を絞り出した。
長い絶望の吐息が泡のようにこぼれる。ラトゥースはあえぎ果て、ぐらりと力を失って鎖に身を任せた。
静かになった手つきが肌をまさぐっている。その動きに茫然と身を預けながら、ラトゥースはうつろな目で〈黒薔薇〉の指に伝う涙のゆくえを見つめた。薄紙を剥ぐように思考能力が戻ってくる。
「貴女を人形にしてあげる。そのくちびるに少しずつ狂気を流し込んで、自分のこともエルシリアのことも何も分からない身体に――絶望と快楽、苦痛、憎悪、自嘲、狂気、渇望、欲情――すべてを味わわせてあげる」
レグラムが息を呑んだ。
「巡察使ともあろうものが」
〈黒薔薇〉はふと振り返った。血まみれのさいころを投げ上げる気まぐれな死天使のごとく言葉の端々へ淫靡な余韻を含ませて微笑む。
「勘違いしないでよレグラム。貴方に選択の余地はないわ」
クーイーの総督は恐怖に目を見開いた。
「今、ここで私の手に掛かって死ぬ以外にはね」
女は勝ち誇っていた。だが同時に己が裡の深淵に自ら堕ちてゆくかのようでもあった。
ラトゥースは喉を喘がせながら顔を上げた。涙の浮かんだ目で〈黒薔薇〉をよわよわしく睨みつける。
「間違ってる」
それだけ言うのにも息が切れる。
「何ですって」
ぴたりと哄笑を止ませて〈黒薔薇〉はラトゥースを見すえた。ラトゥースは呻いた。
「復讐に名を借りた人殺しなんて、間違ってる」
突然、〈黒薔薇〉の手が後頭部を打ち付けるほど強くラトゥースの首へ伸びた。渾身の力で爪をぎりぎりと深く食い込ませ、憎しみのままに絞め上げる。
もがくこともできなかった。〈黒薔薇〉は吐き捨てるように叫んだ。
「分かったような口をきかないで。貴女に何が分かるというの、今までのうのうと生きてきた貴女なんかに何が」
その隙を狙ったか、レグラムは足をもつれさせながら転がるように扉へ駆け寄った。我を忘れた裏声をあげる。
「開けろ、誰か」
扉の取っ手に手をかけ、全体重を掛けて押し回す。だがいつの間に鍵を掛けられたものか、どす黒い色の扉は耳障りに軋むばかりでびくともしなかった。
「逃げようとしても無駄よ、レグラム。それとも思い出してくれたのかしら」
〈黒薔薇〉が青ざめた笑みを伝い走らせる。
「馬鹿を申せ、儂は逃げてなど」
レグラムは醜い冷や汗をうかべて振り返った。壁にぶつかりながら後ずさる。
〈黒薔薇〉は壁際の机に歩み寄った。引き出しを開ける。黒く光る革製の帯に差し込まれた銃がたぐり寄せられた。
「触るな」
ラトゥースは虚脱しきった眼で〈黒薔薇〉の行動を追いながら呻いた。
「何を思い出せと言うのだ」
レグラムは血色の悪い顔をいっそう土気色に変え、口角泡を飛ばして唸った。
「儂がお前に何をした」
〈黒薔薇〉はラトゥースの銃をゆっくりと撫でた。しばし愛でるがごとく鬱金の輝きに見とれる。
「覚えてもいないのね」
火打の仕組みを指先ですがめ確かめつつ、火薬袋の蓋を弾き上げて軽く中身をゆすり火皿に振り入れる。その仕草にレグラムは顔をこわばらせた。
「待て、話せば分かる。いや、違う。すぐに思い出すから待て。お前は」
レグラムは必死でうそぶきながら扉にすがりついた。哀れなほど冷や汗を垂らしている。〈黒薔薇〉は膝を笑わせるレグラムを氷の眼差しで眺めた。無言ばかりが続く。息がつまりそうだった。
「ならば教えてあげるわ。貴方が私に刻み込んだ憎悪のしるし、それこそが貴方の命を奪う引き金となる。我が字《あざな》は〈黒の薔薇〉」
〈黒薔薇〉は構えた銃を天井へ向けた。おもむろに下ろしてゆきながら狙いを定め、黒光りのする銃口をぴたりとレグラムのこめかみへ突きつける。
「真の名は――」
ふいにドアが外から蹴り破られた。振り飛ばされたレグラムが悲鳴を上げてのけぞる。
黒衣の男が倒れ込んできた。怪鳥のように泣き叫びながら裂けた腹を抱えてのたうち回っている。絶叫が響き渡るたび汚れた床に鮮血が飛び散り、男のはいずり回った跡を赤黒く残した。
「誰」
〈黒薔薇〉は鋭い声を放って振り返った。
唇に紅を引き、半裸に近いみだらな装いをして、船の水夫どもに酔いどれの春をひさいで歩いていたはずの男娼。それが今は顔にも体にも点々と返り血を浴びた凄絶な姿に戻ってゆっくりと部屋に歩み入ってくる。冷ややかな激情が口元をゆがめていた。
〈黒薔薇〉は息を大きく啜り込んで一歩後ずさった。
「ハダシュ」
暗い眼をした赤毛の殺し屋。
ハダシュはナイフを握った拳でぐいと紅をぬぐい去った。頬に恐ろしい隈取りが走る。
「おお、助けに来てくれたのか」
「失せろ」
ハダシュは駆け寄ってきたレグラムを力任せに蹴倒した。
事態に気付いた娼婦たちが黄色い悲鳴を上げ蜘蛛の子を散らすように逃げ出してゆく。あわてた水夫たちもまた訳も分からないまま情けない姿で後を追っていった。
それらの騒ぎを顧みもせず、ハダシュはただラトゥースのみを睨み付けて怒鳴った。
「クレヴォー、てめえ」
荒々しい怒りが声を震わせる。
「口ばかりでロクに剣も振れねえくせに何をしてやがる」
「ハダシュ」
ラトゥースはよわよわしく首を振った。意図せぬ涙が流れる。
「来ちゃだめだ」
それ以上は言葉にならない。がくりと首を折る。
「クレヴォー」
ハダシュは思わず一歩踏み込んだ。声が聞こえているのかいないのか、ラトゥースは虚脱した身体をつんのめらせたまま妖美に喘ぎ続けるばかりだ。
「惜しかったわね、ハダシュ」
〈黒薔薇〉はふいに妬ましく笑い出した。
「ナイト気取りで現れるにはいささか遅すぎたわ」
〈黒薔薇〉は銃口をラトゥースへ向けこめかみに押しつけた。撃鉄を起こし、引き金に指をかける。
「貴方の負けよ。それ以上一歩でも近づいたら引き金を引く」
ハダシュは無言で〈黒薔薇〉を見やった。次いでラトゥースを横目に窺い見る。熱っぽく赤みの射したまなじりはあまりになまめかしく、常の様態から考えるとあり得ない色だった。薬を盛られたのかもしれない。思わずくちびるをゆがめる。
だが〈黒薔薇〉の仕草や声の端々にも同様に余裕のなさが感じとれた。ためらっている暇はない。
内心の狼狽を押し隠し、侮蔑の薄笑いにつくり替える。ハダシュはナイフを持つ手を左に変えた。腰ポケットからギュスタのペンタグラムを引きずり出す。
「見ろ」
何げなく放り投げる。それは砕けたガラスの音を立てて跳ね転がり、〈黒薔薇〉の足下でからからと回転して、止まった。
「それが誰のものだったか分かるか」
〈黒薔薇〉はあざ笑うような視線を床に落としたが、ペンタグラムを確認したとたん苦しげにうめき、右手を――指輪を隠すようにして押さえた。
「知っているはずだ、ヴェンデッタ、お前なら」
ハダシュは苦い確信とともにするどくたたみかけた。
「それはある男の形見だ。かつてエルシリアの騎士だった男で、そこにいるレグラムとは積怨の仲だった――死んだ母と行方不明になった妹の敵を討とうとして果たせずクーイーに逃げ、犯した罪をカスマドーレに暴かれ付け込まれさんざんに利用され命を奪われた男の。教えてやろうか。お前がローエンに殺させた男の名を」
言葉をいったん切って、一歩前に進み出る。
〈黒薔薇〉は蒼白な顔でハダシュを見つめ返していた。名状しがたい恐怖に見開かれた眼は今にも悲鳴を放ちそうだった。
哀れな女。だがハダシュは残酷に言い捨てた。
「ギュスタ・サヴィスだ」
それを聞いたレグラムの眼が深海魚のごとく飛び出す。
「まさか。死んだはずではなかったのか」
「嘘よ」
〈黒薔薇〉の視線は古いペンタグラムに釘付けになったままだった。ラトゥースに突きつけていた銃をだらりと下げ、肩でする息を激しく乱しながらかすれた自嘲の笑いをあげる。
「嘘、そんな馬鹿なことがあってなるものですか。兄上は、ギュスタはクレヴォーの返り討ちにあって十年前に死んだのよ。デュゼナウもそう言ったのに」
「違う」
ようやく意識を取り戻したらしいラトゥースの肩が悲痛に震えた。〈黒薔薇〉は蒼然とした眼でラトゥースを見やる。
「ギュスタはあんたを探してた。別れてから十年間ずっと、ずっと」
ラトゥースは泣いていた。
「ずっと探していたんだ」
「黙れ」
〈黒薔薇〉は突然右手の指輪を無理矢理引き抜いて投げ捨てた。それは一瞬銀の光跡を放って跳ね、部屋の隅からベンチの下に転がって消え失せた。
甲高い嘲笑がその口から漏れる。冷涼な仮面はあわれなほど剥がれ落ちていた。
「騙されるものか。馬鹿にしないで。私はもう〈黒の薔薇〉だ。この身に刻んだ憎しみの刺青は二度と消せない」
美しい顔が涙と激情でゆがんでいる。〈黒薔薇〉はラトゥースに向かってなすすべもない悲鳴を上げた。
「何もできなかった。母の身体が雪と氷に覆われたあの美しい死の湖へ沈んでゆくのを、あのときの私は生きることも死ぬこともできずただ見ているしかできなかった。でも私は死ねたのよ。レグラムが罪の露見を恐れ差し向けた者の手に掛かってではなく」
そこまで一気に言って口をつぐむ。死人のようだった〈黒薔薇〉の頬に不自然な赤みが戻ってきた。低く笑い出す。押さえた肩が震えていた。そこに古傷があるのをハダシュもまた知っていた。すべての謎が解けてゆく。
「母の死が私に果たすべき使命を教えてくれた。ジゼラ・サヴィスなどという名の腰抜けはもうこの世にいない、その名を持つ愚かな娘など自らの手で絞め殺して、生まれ変わって、果たせなかった血讐《ヴェンデッタ》を代わりに成し遂げてやる――母を死なせたレグラムもレグラムを見逃したクレヴォーも貴族どもの頂点に立つ国王と宰相も全員皆殺しにしてやると誓った――」
ふいに〈黒薔薇〉は息を深くついてレグラムを見下ろした。手にした銃を引きずり上げる。銃口が重く光った。
「まずはレグラム、お前を」
レグラムは絞め殺される寸前のような悲鳴をあげ、空を掻き床を這いずって船室から飛び出そうとした。
「殺す」
引き金にかけた〈黒薔薇〉の指にみるみる憎悪の力がこもってゆく。
「やめろ〈黒薔薇〉」
ラトゥースは鎖を鳴らし、身体をいっぱいに引き延ばして悲痛に叫んだ。涙を振り払う。
「それ以上罪を犯すな。ギュスタがそんなこと望んでいたとでも思うのか。お願いだ、分かってくれ」
白と黒のみの世界がその場を支配していた。
全ての時間、全ての音が止まって感じられた。突き進む者、転嫁する者、引き返す者。ラトゥースの苦悩に満ちたさけびを聞いた者はそれぞれに分かたれた己が運命の理由、運命の行方を否応なしに知った。
レグラムが悲鳴を上げてドアを掻きむしる。〈黒薔薇〉、かつてジゼラ・サヴィスと名乗った娘、身も心も闇に投じることによって己の過去もろとも全てを滅ぼさんと目論んだ女は、その不様な男の後ろ姿を今ようやく射程にとらえ、失った誇りの代償として憎い仇の命を奪う最大の機会に驕り高ぶって、血のしたたるようなくちびるから情痴に狂った高笑いを解き放っていた。
そしてハダシュは信頼と自分の命を一瞬のうちに天秤に掛けた。ラトゥースの語る理想を信じて天命に己が身を委ね、全身の筋肉を最大に引きしぼりたわめて、〈黒薔薇〉が今にも引き金を引こうとするその眼前に躊躇無く躍り込む。
叩きつけたナイフが白く尾を引く閃光となって空をつらぬいた。
〈黒薔薇〉が眼を押し開く。いっぱいに伸ばした手の先から確かに引き金の引き絞られる音が聞こえた。同時にハダシュの投げ込んだナイフが〈黒薔薇〉の腕に突き立つ。
悲鳴と轟音、交差する銃火が何かを撃ち抜いた。
血しぶきとともに銃が弾き飛ばされる。
〈黒薔薇〉は言葉にならない恨みの叫びを放って腕を押さえ仰け反った。こぼれおちた銃が金属質の重たい音を立て床に跳ね転がる。
ハダシュの後ろで吊りランプが粉々にくだけた。燃えるガラスとブリキが飛び散る。こぼれた鯨油に火が走りついた。一気に燃え広がってゆく。焦げ臭い煙が噴き出した。
ハダシュはにやりと笑って振り返り――
突如、身体の奥底から鉄の味がこみ上げるのを感じて片膝を折った。横腹が熱い。押さえた手の下から、耐え難く熱くすさまじい勢いのそれが流れ出してくる。
ハダシュは床を這う火を茫然とみつめた。何もかもが燃えだしている。意識までもが。
その隙にレグラムはようやく掛けられた鍵を解除し、恐怖に足をもつれさせながら船室を転がるように走り逃れていった。〈黒薔薇〉が一瞬張り裂けそうな眼差しをハダシュに走らせる。
だがそれだけだった。〈黒薔薇〉は自分自身をも打ち棄てて身をひるがえした。レグラムを追って姿を消す。
「ハダシュ、ハダシュ」
ラトゥースのうわずった悲鳴が何度も頭上を通り抜けていった。ハダシュはようやく現実に引き戻されてよろめく頭をもたげた。にじみ出る血が指を伝ってぼたぼたとあふれ落ちている。
「死んじゃ嫌だ、ハダシュ」
「勝手に殺すな、馬鹿」
ハダシュは荒い息を振り散らして笑った。涙まじりに鎖を鳴らして叫ぶラトゥースを片目で斜にすがめ見る。火と煙が立ち込め始めていた。
「間に合ってよかったな」
「ひとの心配してる場合じゃない」
「そうとも言うな」
たとえどれほどの苦痛であっても、ハダシュが今まで人を殺めるのに使ってきた毒の刃で刺されるよりはずっと痛くないはずだった。くすぶる煙に咳き込み、そのたび噴き出す血に顔をゆがめながら逆手に持ったナイフの柄でラトゥースの手首を捕らえる鎖を叩き壊す。ようやく解き放たれたラトゥースはくずおれかけたハダシュに取りすがって支えた。
「火が回りだしてる。はやく」
「だめだ」
ハダシュは喘ぎながらラトゥースの肩を押しやった。
「あいつを止める」
「無理だよそんなこと」
「お前、自分が何と言ったかも忘れたのか」
赤く黒く渦巻く炎が美しい裸身を汚す怖ろしい傷の数々を痛々しく浮かび上がらせている。ラトゥースは雷に打たれたような顔で立ちつくした。
「奴も俺もギュスタも、ローエンも、」
燃え上がる火に追い立てられ、最後まで言い切れないままハダシュはラトゥースと互いに支え合って廊下へとまろび出た。
背後の船室はもう火の海だった。火は床を伝い、壁を伝い、竜の舌のように周辺を舐め這い回りながら天井にまで達している。船倉の奥深くからレグラムの悲鳴が聞こえた。
「甲板に先回りしろ。どうせ逃げ道はそこしかない。他にもまだ〈黒薔薇〉の手先が紛れ込んでるはずだ。いいかクレヴォー、絶対に逃がすなよ」
ハダシュは娼婦たちが脱ぎ捨てていったガウンを拾い、ラトゥースの顔を見ないようにしながら押しつけた。ラトゥースはそれすら受け止めかねて取りこぼす。
「馬鹿、着ろ」
身をかがめようとして痛みに顔を引きつらせ、よろめく。ラトゥースはハダシュの腕を迷子のようにつかんだ。
「いやだ」
切羽詰まった声が追いすがってくる。ハダシュは動揺の余り眼をそらした。
「僕も行く。一緒に行かせてくれ」
「だめだ」
だがどんなに押しやってもラトゥースはハダシュから離れようとしなかった。
「勘違いするな」
ついにハダシュはラトゥースを突き退けた。悲鳴を上げてよろめく姿に顔をこわばらせる。
「誰が死にに行くと言った」
弱々しい姿を見るのも心苦しく、苛立ちに気持ちを紛らわせてきびすを返す。
「そうやってまた僕を置いていくのか、ハダシュ」
その場にくずおれたラトゥースは今にも消え入りそうな声でうめいた。
「行かないで。君を失いたくない。ひとりぼっちにされるのはもう、いやなんだ」
ハダシュはラトゥースの思いに胸を衝かれ振り向いた。揺れ動く瞳に射すくめられ声もなく立ちつくす。
気持ちに応えるにはあまりにも短かすぎる時間。本当は手を伸ばし、濡れた頬に触れ、引き寄せたかった。いっそ募る思いのままに抱きしめてしまいたかった。
だが、今さら気付いたところでどうにもならない。
ラトゥースを守るためにヴェンデッタを殺す。それこそがハダシュをずっとさいなんでいた矛盾への狂おしさもどかしさの本当の理由だ。そんな血に汚れた手で、そんな罪にまみれた手でラトゥースを抱きしめることなどできるはずがない。ハダシュを信じる、心の闇を取り除いてみせる、そう言ってくれたラトゥースの純粋な思いを裏切るなどできるはずがなかった。
「俺はどこにも行かない。必ず戻ってくる。お前の言う『黄金の橋』を渡って。だから」
死の幻想があまりにも近くに影を落としているせいか、遠くに見えかけていた希望さえ今は信じることもできそうにない。それでもハダシュは悲壮な笑みを浮かべてラトゥースに応えた。
「信じて、待っていてくれ」
逃げ場を失った炎と煙が船の中で巨大に渦巻いている。
何者かがわざと放火しているとしか思えなかった。次々と新しい火の手が上がってゆく。沈没は時間の問題だった。どこもかしこもが燃えている。
視界は殆どないも同然だった。油の燃える苦い臭いが充満している。
それでもなおハダシュはヴェンデッタを追って通路を辿った。床に点々と散る黒い血の跡が、踏み荒らされながらも途切れることなく船首側の闇へと続いている。
狭い階段をよろよろとつたい降りる。なけなしの砲甲板を過ぎ船底あたりに近くなると、さすがに積み上げられた荷物や樽に行く手を阻まれ、思うように進めなくなった。仕方なく蹴倒した樽の中身は大概水であったりビールであったり、あるいは腐臭を早くも放ち出している豚頭の塩漬けだったりした。先ほど拾っておいた分厚い布コートを飲料水の樽につけて濡らし、火の粉を避けるために頭から被る。
真っ暗だった船倉に、いつの間にか身をかがめて歩くハダシュの影が踊り始めていた。火が燃え広がりつつある。木造船における火災はすなわち死を意味する。逃げ遅れることは生きながら焼かれるも同義だ。
突然、闇に揺らぐ火と煙の彼方からレグラムの涙声が聞こえた。
「ゆるしてくれ、命だけは頼む、命だけは」
「ヴェンデッタ、やめろ」
そのさけびを耳にしたとたん、ハダシュはかすれ声を振り絞って怒鳴った。
「殺すな。そいつを殺したらお前はもう」
真紅の幻影を見たような気がして、ハダシュは身をこわばらせた。
何かをひどく押し倒す物音がした。身の毛もよだつ悲鳴があがる。振り返った天井と壁一面に、死の瞬間を映す残酷な深紅の影絵がありありと描き出された。
一回。さらにもう一回。
唐突に断末魔の呻きがとぎれる。
船全体が悲鳴を上げた。大きく斜めに傾ぐ。
燃える支柱が崩れ落ちてきて天井を突き破り、流星をまき散らすのにも似た火の粉を降りしきらせた。
めらめらと燃え上がる熱気が全身に突き刺さる。ハダシュはくすぶり散らばる樽や木箱を濡れたコートで叩きつぶしながら這いずるようにして進んだ。毒々しい空気に侵された喉と肺の両方が、鉛を流し込んだような鈍痛を身体の裡から耐え難く膨れ上がらせる。
もはやまともな呼吸すらできる状態ではなかった。
咳き込むと同時に激痛が甦る。ハダシュは足をもつれさせ、つんのめった。水しぶきがあがる。
おそらくどこかの外壁が破れでもしたのだろう。大量の浸水が始まっていた。足下には消し炭と汚物を練り混ぜたような泥水。どうしようもない量の熱と海水と煙が入り混じり、天井から怖ろしい熱水のシャワーとなって降り注いでいた。蒸気が立ち込める。
「どこだ、ヴェンデッタ。返事をしろ」
ハダシュは側にあった何かに掴まりつつ、前に進もうとした。がらりと音を立てて支えがくずれる。膝が砕け、倒れ込んだ。胸が破裂しそうだった。
「返事をしてくれ」
声が声にならない。
突如、強い力がハダシュの襟元をつかんだ。
振り回されるようにして闇に引きずり込まれる。そこは奇跡的に煙が遮られた場所だった。濡れた隔壁に阻まれでもして、かろうじて類焼を免れたに違いない。だが浸水だけはもう防ぎようがなかった。くるぶし以下がみるみる水に沈んでいく。
流れ込むにまかせた暗い水面をぼんやりと青く光る渦巻き模様がいろどっている。
夜光虫が放つ、はかなく、怖ろしく、美しすぎる色あい。
「馬鹿ね」
〈黒薔薇〉の綺麗な顔は返り血と煤に汚れていた。それを拭うでもなく、声や表情に感情を混じらせるでもなく、ぽつりとつぶやく。
「わざわざ殺されに来たの」
「ヴェンデッタ」
ハダシュは顔をゆがめた。身体が壁に沿って崩れ落ちる。
痛みと熱と悪寒が同時に身を絞り上げるように襲いかかってきた。呻き声も出なかった。ただ、壁にもたれかかって瀕死の喘ぎをもらす。
〈黒薔薇〉はハダシュの腰をかすめた銃創に目をやった。表情の失せていた眼に毒の色が混じる。
「不様なものね」
さらに傷をえぐり抜かれるかと思ってハダシュは歯を食いしばった。火を宿した目で睨み返す。
だが〈黒薔薇〉は自身のてのひらを見下ろし、苦しげな息をひとつもらすにとどめた。襟を掴んでいた左手をやや力つきた風情で突き放す。指の先がかじかんだように震えていた。
頭にかかる水しぶきが全身を幻想的な蛍光色に染め上げている。
「貴方のほかに私を殺せる男はいない――そう思っていたのに」
〈黒薔薇〉を名乗り、ありとあらゆる酷い殺しを請け負ってきた美貌の暗殺者は、疲れ果てた顔で笑ってみせながらも悪しざまな素振りで吐き捨てた。
「貴方には失望させられたわ」
だが、ハダシュは暗闇に光る涙を確かに見たような気がした。
「ヴェンデッタ、俺と一緒に来い」
それは奇しくもかつての〈黒薔薇〉と同じ言葉だった。
「クレヴォーに伝えてやる。あいつなら分かってくれる。お前のことも俺のことも、あいつなら全部分かってくれる。クレヴォーは他の役人どもとは違う。本当のことを話せば、きっと」
痛みが凄まじい熱を帯び始めている。ハダシュは手を伸ばして〈黒薔薇〉の腕をつかんだ。立っていられなかった。眩暈がひどい。ちぎれそうな痛みをこらえて喘ぐ。
「笑止ね。まったく、馬鹿馬鹿しい」
〈黒薔薇〉は降りかかった水煙をまともに浴びてむせた。ざっと周囲を見渡し、跳ね上げ式の梯子を見つけ、片腕で綱を引き下ろし始める。
「まあいいわ。あの子はいずれ変わる。貴方の思いも寄らぬ姿にね。何もかも失うその時まで、二人でなまぬるい夢にでも浸っているがいいわ。知らなければよかった、信じなければ良かった、愛さなければよかった――そう思う日が来る。必ず」
〈黒薔薇〉は冷ややかな予言を突きつける。だがその眼の奥にこらえ切れぬ悔恨が揺れ動くのをハダシュは見逃さなかった。
「どういう意味だ」
「手を離して」
〈黒薔薇〉はいらだたしく震える声で言い、ハダシュを押しのけて梯子を登り始めた。
「戻る気はない。引き返すこともしない。私は全ての血讐を為し終えた。残るは兄を手に掛けたこの私だけ」
ハダシュは這いずるように身を起こしてヴェンデッタの後を追った。
「待て、俺の話も聞け。お前はいつも」
叫ぼうとして梯子の途中で足を踏み外し、叩きつけられるようにして最下層に転がり落ちる。青い水しぶきが上がった。狭い空間でしたたかに全身を打ち、一瞬、意識を失いかける。ごぼ、と青白い息が泡になって昇った。身体が思いも寄らぬほど深く沈む。激痛に身を起こすこともできない。
〈黒薔薇〉が戻ってきた。ハダシュの手を取り、水から引きずり上げて梯子を掴ませる。
驚くほど優しい、しかしあきらめたような表情の顔が近づく。
「すまない」
ハダシュが言うと〈黒薔薇〉は虚無に満ちた笑いをもらした。
「貴方は私を裏切った」
否定する気力はすでに萎えていた。
光に向かって前進するには二人ともあまりに傷付き過ぎていた。船全体が断末魔の軋みを上げて揺れ動いている。たとえ階段を上りきったとしても甲板や船首楼はおそらく火の海だ。生きるためではなく焼き殺されに昇ってゆくようなものかもしれなかった。
それでも〈黒薔薇〉は上を目指して昇った。
青白く泡立つ海水が狭い空間に渦を巻いて流れ込んでくる。唸りを上げる濁流が扉に打ちかかり、ちょうつがいごと引きちぎってどこかへ押し流していった。一気に水位が上がる。
先ほどまでハダシュの倒れていた場所が、黒こげの支柱やら積み荷らしき樽、木箱、その他一斉になだれ込んできたものに埋め尽くされてゆく。
梯子が今にも外れそうなほどぐらぐらと揺れた。
突然〈黒薔薇〉の踏みしめた梯子の段が砕けた。悲鳴が宙に浮く。ハダシュはとっさに降ってくるその身体を全身で受け止めた。引きちぎられそうな痛みがつんざく。
〈黒薔薇〉は恐怖につめた息をもらし、かすかに震える手で梯子を握り直した。ハダシュは血を吐いた。意識が途切れる。
ふいに〈黒薔薇〉はハダシュの身体を支える形に腕を回した。ハダシュは眩む目をかすませながら笑った。
「俺を捨ててゆけばお前は助かるんじゃないのか」
「逆よ」
〈黒薔薇〉は寂れた笑いをあげた。
「ね、一緒に死んでくれない」
胸に抱いたハダシュの髪に頬を寄せかけ、〈黒薔薇〉は妖艶にうそぶいた。
「私は死ぬべき人間だった。いいえ、本当ならとうの昔に死んでいるはずだったのになぜ生きようとなんて思ってしまったのかしら。そんなことしたって何にもならないのに」
ハダシュは薄れゆく意識のなか無意識に頭を振った。濡れそぼった髪が頬に貼りつく。滅びゆくもの特有の、引きずり込まれるような死の匂いがした。
「違う」
「違わないわ」
夜光虫の淡い青の照り返しに染め上げられた〈黒薔薇〉の表情は、波に翻弄され揺れ動く木の葉のようだった。
「お願い、ハダシュ」
冷たい吐息。くちびるが氷の色に光っている。
「このまま私と一緒に」
「ヴェンデッタ」
呆然と抗って息をもらす。抗わなければ全てが崩れ去る。そう思ってはいても梯子を掴む手がぶざまにふるえた。意識が深淵へとなだれ落ちてゆく。
「貴方と死にたい」
熱に浮かされた眼がハダシュだけを食い入るように見つめている。同じ言葉だけを執拗に何度も繰り返しながら、死を誘うくちびるが近づいてくる。何という蒼白の色か。
だが、もはやそれを受け入れるわけにはいかなかった。
「やめろ、ヴェンデッタ」
ハダシュはうめき、辛うじて欲情をさえぎった。痛みに顔をゆがめながら〈黒薔薇〉を見上げる。
「俺は生きる」
〈黒薔薇〉を押しのけ、吐きしぼるように言う。
「生きて、悔いて、償う。約束したんだ――あいつと」
「そう」
ため息のような声が降った。
「嫌な男ね」
「だから、お前も」
だが、かつて殺したいほど愛し憎んだ女は最後まで青ざめた顔をそむけたままだった。
「触らないで。貴方なんかに訓戒される覚えはないわ」
言葉にならない。否定も出来ない。
「貴方は生きるべき人間だった。私は違う。それだけのことよ」
〈黒薔薇〉は誰に語りかけるでもなくつぶやいて再び梯子を登り始めた。ハダシュも同じ方向を見上げる。行く手は暗く、赤く、どこまでも続いているようでいてその実どこにも繋がっていないかのようだった。
戸板を跳ね上げて出た場所は思った通り船首楼甲板だった。ハダシュは最後の力を振り絞って身体を持ち上げ、痛みと悪寒で化石のようになった両肢を投げ出して周囲を見渡した。
雨と風が吹き荒れている。手入れの悪い甲板はぬるぬるとして滑りやすく歩きづらかった。悲鳴にも似た風音が聞こえてくる。
船内部に端を発した火は未だ消えることなく、容赦なく吹き付ける雨風に煽られて熾烈な火煙を吹き流していた。爬虫類の舌のごとき炎が船全体を這いずり、次々とマストを包み、帆布を包み、艤装を舐め尽くしてはさらに高く燃え上がる。その様は死船の火葬という以外、表現しようがなかった。
こぼれた火が周辺の船にまで類焼し、見渡す限りの海面が深紅の溶岩さながらに沸き立っている。
下甲板から火が噴き上がってきた。勢いはもはやとどまることを知らない。先にたどり着いていた〈黒薔薇〉は火に囲まれた周囲の状況に険しい目をやりながらも、己の仕組んだからくりがこの街の闇と海の彼方の国の経済にどれほどの痛撃を与えたか皮算用して苦々しくも傲岸な笑みを浮かべた。
手すりに手をついて眺めるその横顔を、燃えさかる真紅の火があかあかと染め上げてゆく。だが、そのとき。
「〈黒薔薇〉」
衝角の影にひそんでいた闇がふと動いた。ハダシュは息を呑んで身をこわばらせだ。
めまぐるしく明滅する火と雨と闇の狭間に、血の色を熔かし込んだ刃が殺意をぎらりとほのめかして抜き放たれてゆく。
襟を立てた黒いコートの男が斜に立っていた。足元は闇と影に溶け混じって見えない。
半身だけが赤く染まって浮かび上がる。コートに打ち込まれた鉄鋲が血しぶきのように光っていた。酷薄な表情がちらりと描き出される。
〈黒薔薇〉は息をとめ、わずかに身を堅くした。身じろぎもせず石のように立ちつくす。だがすぐにいつもの余裕を表面だけでも取り戻したようだった。かすかな婉笑をうかべる。
「まだ何か御用かしら、ギルベルト・デュゼナウ」
暗い色の髪が風に吹きあおられてひどく不気味にはためく。だが男は乱れる髪を押さえもしない。
「忘れ物だ」
流暢なバクラント語で返された言葉に〈黒薔薇〉は眼をほそめる。
「諦めが悪いのね」
「生憎そうではない」
ギルベルト・デュゼナウと呼ばれた男はハダシュを横目に見ながら辛辣に吐き捨てた。
「手負いの賊を斬って捨てるだけだ。三秒もあれば事足りる」
「そう上手くいくかしら」
〈黒薔薇〉はわずかに眉をひそめる。男は嗤った。
「造作もない」
刹那、闇は姿をかき消した。
甲高い音を立てて空気が掻き裂かれる。疾駆する殺意にハダシュは息を呑んだ。目の前だ。速い。切っ先が光る。
喉元寸前、光したたる巨大な曲刃が薙ぎ払われた。残忍な嘲笑が耳を打つ。
とっさに身を仰け反らせ避けはしたもののハダシュは激痛に声をつまらせ、体勢を維持することすらできずにそのままもんどり打った。苦悶の声が洩れる。なぜかラトゥースの声が脳裏に木霊する。幻聴だ。幻聴に決まっている。聞こえるはずがない。
男はふと立ち止まって視線を彼方へやった。攻撃の手を休めてまで何かを探している。だがそれも一瞬だった。ゆらりと刃を向け直す。
「残念だったな。次はないぞ」
笑いながらゆっくりと歩み寄ってくる。ハダシュは呻いた。死が足音を高め迫ってくる。
突然目の前の甲板に細長いナイフが突き立った。はじかれたような金属のするどい音が響き渡る。ハダシュは緊迫の目線を走らせた。
「その男は私の獲物よ。私が片付けるの。手を出さないで」
〈黒薔薇〉は水を打ったかのような気配の中、低く言い放った。男はうすく口の端を吊り上げた。
「戯言を」
「でもその前にひとつだけ、貴方に聞いておきたいことがある」
〈黒薔薇〉は男を睨んだ。
「どうして嘘をついたの」
ふいに巻き起こった風の渦が炎を巻き上げて竜巻となり、黒こげの帆布をちりぢりに吹き飛ばしながらみるみる船首へと迫ってきた。嵐のような火の波が手すりを乗り越え吹き寄せてくる。飛び散る火の粉のすさまじさにハダシュは思わず腕で目を覆った。
「なぜ母だけでなく兄まで死んだなどという嘘を」
男はちらと眉を動かした。悲痛な問いかけをそらぞらしく遮って答える。
「事実だ。今となってはな」
「うそつき。お前のせいで私は」
〈黒薔薇〉は涙混じりの声を押し殺しながらよろめいた。
「私は兄を、ギュスタを」
「手に掛けさせたのはお前自身だ」
漸次、冷酷な微笑みが削げ落ちてゆく。
「違う。違う。違う」
声は次第にさけびへ、そして悲鳴に変わった。
「私は母を愛していた。兄を愛していた。エルシリアを、ラ・フォーニアの美しい森を、ハージュの美しい湖、白銀の雪、張りつめた氷、沈まぬ太陽、萌えいずる緑の息吹、それらすべてを愛していた。なのになぜ――」
「愚かだからだ」
男の欺瞞に満ちた声がひびく。
ふいに煙が吹き荒れた。視界が奪われるなか、凄まじい火勢の音だけが響き渡る。物音に混じって別の悲鳴が聞こえたような気がした。ハダシュは思わず立ち上がろうとして咳き込み、痛みのあまり逆に呻いて身を折った。立ち上がれない。
風向きが変わった。唐突に煙が流されてゆく。眼下が再び熱雨と火の色に埋めつくされる。ハダシュは痛みにかすんだ目を押し開いた。〈黒薔薇〉の姿を探す。
総毛立つ悪寒がハダシュをとらえた。
刺客の姿がない。〈黒薔薇〉だけが微動だにせずその場に凍りついている。いや違う、そうではない。わずかにのけぞる〈黒薔薇〉の背から、巨大な半月刀の切っ先だけが生えかけの翼のように白く浮き上がっている。
顔も見せぬ刺客が蛇蝎のごとく刀をひねった。〈黒薔薇〉の身体が一瞬宙に浮き、痙攣する。
空気を押しつぶす呻きがその肺から漏れた。
伝い落ちる間もなく、それは酒舟の底を踏み抜くかのようにこぼれ出していった。人間の身体のいったい何処にこれほどの量があるのかと思えるほど膨大な血潮。それが取り返しのつかない勢いをつけてみるみるあふれ、濡れた甲板に流れ、滲み、広がって――
絶望という言葉そのものの光景。
大きく船が傾いだ。何か致命的な構造材が砕け散ったような、そんな沈み込む衝撃が船全体を突き上げた。火の粉が一段と激しく降りしきる。
「所詮は女か」
男はつぶやいた。〈黒薔薇〉の身体が壊れたガラスのようにくずれかかる。
「つまらぬ最期だったな、ヴェンデッタ」
「やめろ」
ハダシュは〈黒薔薇〉の投げたナイフを逆手に取るなり男の側面から矢のような当て身を食らわせた。そのまま起きあがれもせずつんのめって不様に転倒する。だが男はわずかにふらついただけだった。返り血を浴びた暗い表情がハダシュを見下ろす。
〈黒薔薇〉が呻いた。だらりと垂れ下がった腕がびくりと動く。網の目のように伝って落ちる血が爪を深紅に染めていた。
「逃げて」
最後の力を振り絞って〈黒薔薇〉は男の手を掴んだ。
「今のうちに」
男は顔色を変えた。〈黒薔薇〉の手を振り払おうと唇をゆがめる。
「貴様、何を」
「ハダシュ」
弱々しくかすれた別れ際の笑みがその眼に浮かぶ。
「さよなら――愛してたわ」
ハダシュは声にならない叫びを上げた。かぶりを振り、渾身の気迫を込めて男にめがけ銀のナイフを振りかぶり叩きつける。血がしぶいた。避けきれず男は顔を押さえて仰け反った。ようやく刀から手を放す。
支えを失った〈黒薔薇〉の身体がぐらりと倒れ込む。ハダシュは〈黒薔薇〉の血まみれになった身体を抱きとめた。
男がひくい嘆息をもらす。
傷付いた右目から血がだくだくと流れている。ハダシュは〈黒薔薇〉を抱いたままよろめくように後ずさった。なまぬるい感覚が腕を見る間に赤く、熱く、染め抜いていく。まるで命そのものが目に見える形となって無惨にこぼれ落ちてゆくかのようだった。
男は突き刺さったナイフを自ら抜いた。血まみれの刀子を甲板へ投げ捨てる。
「手負いと思って甘く見たのが失敗だったな」
残る隻眼で火のようにハダシュを睨み付ける。
「貴様のことは覚えておいてやる。確か――ハダシュと言ったな」
「余計なお世話だ」
ハダシュはじりじりと後ずさりながら歯を食いしばった。恐怖を押し殺し、余裕の嘲弄を浮かべてみせようとする。だがどうあがいても苦悶の表情しかあらわせそうになかった。
烈火の眼。傷を負ってなお冷徹な声。漆黒の姿形。
瀕死の〈黒薔薇〉をかかえた今の状態で戦っても、この男には絶対に勝てない。
ハダシュはあらあらしく息をついた。ギルベルト・デュゼナウ。男の名、男の動き、太刀筋、それらすべてを血に流し込んだ毒のごとく記憶に深く焼きつける。おそらく男もハダシュが取るであろう次の一手を悟っているのだろう。くちびるを残酷に吊り上げたまま、冷厳として動かない。
背中に船首楼の手すりが当たった。船全体が今にも引きちぎられそうな軋みをあげている。また炎が一段と高くあがった。手すりにまで火が燃え移っている。ハダシュはよろめきながら背後に目を走らせた。眼下は激しく打ち寄せる波の暗黒だ。その他は立ちのぼる煙と劫火に遮られ、何一つとして見えない。
炎の渦が船を包み込んだ。振り飛ばされそうなほど前後左右に大きく揺れる。身体がつんのめった。おもわずつかんだ手すりが根本から砕ける。限界だった。
ハダシュは〈黒薔薇〉の身をかき抱いたまま、沸騰する紅の闇へ身をおどらせた。叫びを上げる間もなく、暗黒の海へ石のように落ちて行く。
だが最後の瞬間、〈黒薔薇〉はハダシュに絶叫の眼を向けるなり手を突き放した。身体が離れる。
凄まじい水柱が上がった。身も裂けんばかりの痛みにハダシュは半ば気を失い、そのまま沈んだ。血が水を汚してゆく。
息が尽きる寸前、ハダシュはようやく自分を取り戻した。片手で傷を押さえ、もう一方の腕で必死で水をかき海面へと浮かび上がる。
ハダシュは肩越しに船を振り返った。
「ヴェンデッタ、どこだ」
濡れた髪をふりみだし、声を限りに叫ぶ。
「返事をしろ。どこにいる。ヴェンデッタ」
次の瞬間、おそらく積み込んでいた砲弾か何かに引火したのだろう、船を真っ二つに断ち割るほどの水蒸気爆発が右舷を突き破り、水煙と炎の洪水となって夜の海上に噴出した。炎の尾を引く木っ端がさながら悪夢のごとく飛び散る瀝火となって周囲一帯に炎の弾雨を降りしきらせる。
悲鳴と怒号の入り乱れた夜空が、まるで血を流したかのように明るく赤く、焼けただれて見えた。荒れ狂う雨もまた、血の色だった。
「馬鹿な」
ハダシュは絶望に浸されていく意識をふるい立たせようとした。だが抗いようもない激痛が身体を石のようにこわばらせる。
そのとき燃える木切れと煙火の混じる波間に、白い抜き手を切って近づいてくるラトゥースの姿が見えた。
「ハダシュ」
必死の声が聞こえる。
「すぐにそっちへ行く」
「クレヴォー」
木ぎれを避け、荒々しい水しぶきをたてて近づいてきたラトゥースはそのままハダシュの身体を支えるようにして寄り添った。肩に通したロープと浮きを手際よくハダシュの両脇に差し入れる。
「本当に無事でよかった」
「すまない」
ハダシュは痛みに顔をゆがめながらやわらかいラトゥースの身体を抱いた。
「ハダシュ、〈黒薔薇〉は」
ラトゥースの息詰まった問いにハダシュはただかぶりを振るだけだった。ラトゥースも多くは言わなかった。難破したまま完全に沈むこともできず滅びの火に身を焼き尽くす帆船の末路を、海上に漂いつつ燃える無数の藻くずに囲まれながら見上げる。
〈黒薔薇〉の終焉は、その流した血の色にふさわしく残酷に、壮麗に立ちのぼった炎と煙に包まれて、もはや誰の手にも負えるものではなかった。
◆
「おかえりなさいませ」
全身を黒の身なりに整えた宿屋の主人が以前と変わらず無愛想な態度で馬車の戸を開ける。ラトゥースは毛布の胸元を押さえ、傾ぐ馬車から手すりを頼りに伝い下りた。
「すまない。重傷だ。彼を運んで」
「控えに医者を呼んでございます」
慇懃に頭を下げた主人へハダシュは苦々しい視線を向ける。
「降りられるかい、ハダシュ」
心配そうなラトゥースの声にハダシュはかぶりを振った。這うようにしてよろめき降りる。腰掛けていた座の部分が血と海水で黒く濡れているのを見てラトゥースは皮肉に顔をゆがめた。弱々しく笑う。
「いつもこんな状態で悪いね」
「滅相もございません、閣下」
この隠れ宿にかつぎ込まれたのは何度目だろう。ハダシュは薄れかけた意識でふとそんなことを思った。ラトゥースの声が遠ざかる。視界までがなぜか暗くぼやけていく。投げやりな失笑がもれた。どうやら思い出す間もなさそうだった。
次に目覚めたのは、全身を責めさいなむ激痛と飢餓と熱病のさなかだった。聞こえるのは自分の悲鳴ばかり。理由はわかっている。完全に壊れてしまった身体と心のちょうつがいはもう二度と治せない。ずっとそう思って逃げてきた結果がこれだ。
手足を縛られ、口にタオルをかまされ、けだもののように身体をはね返らせ暴れては激痛に吠える。理性のかけらもない不様なありさまに泣き続けながら、それでもハダシュはラトゥースの存在を全身で感じていた。昼夜を分かたず語りかけてくれる涙混じりの声、あたたかい手のひら、抱きしめてくれるかぼそい腕。何よりも強い意志に支えられた真実の思いを。
そして一週間が過ぎる。
「決めた」
「何を」
「こんな縁起の悪い部屋には二度と入らない」
ハダシュは動くこともままならぬ包帯姿への諦めも兼ねて子供じみた不平を口にした。撃ち抜かれた横腹の銃創は不幸中の幸いか内臓を傷つけることもなく貫通していたとのことだった。傷はまだ痛むが、今はもう快方に向かっている。それより何よりあの怖ろしい飢餓感が嘘のように消えてなくなったことのほうがはるかに信じられなかった。
「仕方がないだろ。だいいち君が馬鹿ばかりして怪我ばかりこしらえてくるからそういうことになるんだ。もう少し考えて行動したらどう。いつもいつも顔突きあわすたびにこの様じゃないか。最初も然り、二度目も然り、最後には」
「誰が馬鹿だ、誰が」
「君だ」
ラトゥースはため息まじりに噛みついた。
「ほかに誰がいる」
そのまま沈み込んだ様子で黙りこくる。ハダシュは内心あわてふためいた。気の利いた言葉をいくつも探そうとしてはそのどれもがふさわしくないと思い返し、結局しぶしぶといった様子を無理につくって顔を窓の外の夕日にねじ向けて言う。
「悪かった」
「いいんだ。分かってる」
ラトゥースは立ち上がった。華奢すぎる影が透き通る紅の残照をゆるやかに横切ってゆく。
薄闇の迫る静かな部屋。二人きりだった。シェイルはカスマドーレの取り調べや沈んだ軍船の現場検証などで忙しくしている。おそらく今夜も戻ってこないだろう。
沈黙が気まずい。
ラトゥースは振り返るとハダシュの額に手を寄せ、汗に湿った前髪を指の先でちいさくかき上げた。ざらりとした無精髯に触れて、微笑む。
「熱が引かないね。痛むかい。そうだ、あとで顔を当たってあげるよ。まるで盗賊みたいだ」
そう言って部屋の隅に行き、真鍮色をした手水盆の縁にかけてあった白いタオルをいったん冷や水に浸してからきゅっと絞って広げ、冷たさを確かめつつ持ってくる。
ハダシュはぼんやりとラトゥースの動作を眼で追いかけながら、ふと思いついてたずねた。
「お前こそもう大丈夫なのか」
ラトゥースの手が止まった。
ハダシュはラトゥースの眼に宿る凄惨な沈黙に気づき、ぐっと声を呑んだ。言ってはならないことを言ったのかもしれない。だがラトゥースは何事もなかったかのように肩をすくめた。取り繕った優しい微笑みをうかべる。
「別に。どうということもないよ」
ハダシュは拭いてくれようとしたラトゥースの手からタオルを取り上げ、自分で汗を拭った。そのまま眼の上にタオルを伏せて長い息をつく。ラトゥースの顔を見ることに気鬱めいた後ろめたさがあった。何とはない素振りをするだけで息がまた苦しくなりそうだった。
「本国に詳細な報告書を送らなくちゃいけないんだけど」
ベッドの縁に腰を下ろす気配が伝わる。
「何て書けばいいのか迷ってる。僕らがいたのはたぶん護衛船のほうだったと思うけど、あの騒ぎに乗じたか類焼したかでエウロラ号は燃えてしまったし沖にいたガレオン船も行方をくらませている。拿捕すべく追っ手を向かわせてはいるけど果たして間に合うかどうか」
おそらくラトゥースもハダシュを見てはいないのだろう。すでに可能な限りの情報を共有してある。いまさら改めて分かり切った説明を受ける必要などなかった。残された問題はひとつだけだ。
ラトゥースを一撃で打ち倒し、〈黒薔薇〉の命を奪った男、ギルベルト・デュゼナウ。かろうじて虚を突き隻眼を奪ったとはいえ、あの男ほどの手練れが火に巻かれて死ぬなど到底考えられない。今もこの街のどこかに潜んでいる。次の手を企んでいる。あるいはラトゥースを――そう思っただけでハダシュは己の不甲斐なさに対し腸が煮えくりかえるような苛立ちを募らせるのだった。
「どちらにしろ奴らが言い残した竜の書とやらを手がかりに本国へ一度捜査の依頼をする必要があるね。ルイネード侯ガストン・ゴーティエにも事情説明を求めなくてはならないし。だがレグラムと〈黒薔薇〉が死んだ今となっては真相を明らかにするのも難しい」
声が沈んでいる。ため息が聞こえた。
「結局、誰一人助けられなかった。終わらせることができなかった。みんな死んだ」
「お前のせいじゃない」
ハダシュは眼の上のタオルを払いのけた。ラトゥースは聞いていなかった。自虐的に言葉を投げ棄てる。
「次に死ぬのは僕かもしれないね」
「馬鹿なことを言うな」
思わず肘をついて起きあがる。怒りにも似た感情がこみ上げた。つい語調が荒くなる。
ラトゥースは萎縮した視線をハダシュへ向け、両手を組み合わせてうつむいた。懺悔のように額を押しつける。自身が吐いた弱音にいたたまれなくなったのかもしれなかった。
「そうだね。浅薄なことを言った。だめだな。少し気が立ってるのかも」
ラトゥースは目を上げると気を紛らわすように力なく笑って、斜めに傾いたハダシュの肩をベッドに押し戻した。肩に触れた指先が離れ難くためらっている。
「驚かせてごめん」
「馬鹿野郎」
ハダシュは反射的に唸ってから自分の馬鹿さ加減に顔をゆがめた。頭が混乱している。こんな時に限ってかけるべき言葉がまるで思い浮かばない。
ラトゥースはうつろにハダシュを見た。
「〈黒薔薇〉は君が止めに来るのを待っていたんだと思う」
長い沈黙の後、あきらめたような微笑を口元に昇らせながらラトゥースはぽつりと言った。後ろ手をついて天井をぼんやりとながめる。
「あのひとの気持ちにもっと早く気付いてあげられたら良かった。義父やレグラムの非道を怨んで、怨み続けて。そのせいであのひとは変わってしまったんだ」
ラトゥースは心かき乱された暗い眼をハダシュに向けた。
「なのに僕ときたら最後まで気付かなかった。ぜんぶシェイルから聞いて知っていたのに、あの人に言われるまで分からなかった。こんな終わり方になったのもきっと僕のせいだ」
喘ぎにも似た声だった。
「違う」
ハダシュはその手をつかんだ。いろいろな思いが錯綜しては消え、水泡のように脆くはじけてゆく。言いたいことはたくさんあった。言わなければいけない言葉も、言ってはいけない言葉も。だがまともな台詞が口を衝いて出る前に身体が勝手にラトゥースを求めていた。振り払おうとする手を逆に強く握りしめる。鼓動が高まる。
「だめだ」
ラトゥースは泣きそうな声でよわよわしくつっぱねた。
「相手を間違ってる」
かまわず荒々しく引き寄せる。
「ハダシュ」
ラトゥースの身体がふるえ出した。
「やめてくれ。分かってるんだ。君は、本当は」
「ちがう」
息を継ぎ、さらに深くむさぼるように何度も唇をかさねる。それがラトゥースの心痛に付け込んだ罪深い欲望でしかないことも分かっていた。
啜り込む息のつめたさがかすかに流れ込む。
ラトゥースに出会っただけで人生のすべてが変わってしまった。もしどこかで道を違えていたら今頃どうなっていただろう。ローエンや〈黒薔薇〉と同じ最期を迎えたかもしれない。冷たい雨にうたれ、どこかの路地裏に打ち棄てられて。
だからこそ分かる。〈黒薔薇〉は最初からあきらめていた。誇りを糧に生きてゆく道を捨て、破滅に身をゆだねて死にゆく道を選ぼうとしていた。本当は間違っていると分かっていてもなお。
ラトゥースは茫然と唇を奪われながら、わずかに腕の中でもがいた。
眼を大きくみひらき、息をとめ――
ふいに手を伸ばす。反撃の強い力がハダシュの髪をつかんで引きはがした。
気を呑まれる。動けない。
熱くはずむ吐息が近づく。揺れ動く瞳がせっぱ詰まった表情でハダシュを睨みすえていた。血を吐くような声が放たれる。
「あのひとが死んだからって」
おびえた目。そう思われて当然だった。ハダシュはその後に続く糾弾の言葉を覚悟した。
だがラトゥースは声をつまらせ、悲しげに顔をゆがめた。
「何でもない。ごめん。本当に動揺し過ぎてた」
話す声の力も失って肩を落とす。ハダシュはラトゥースの名を唇に乗せようとして、そんな簡単なこともできないことに気づいた。
「ごめん、たかがキスぐらいで――子どもみたいに」
ラトゥースは涙まじりのためいきをもらし苦々しく笑った。ちらりとハダシュを流し見て、耐え難い様子で顔をそむける。赤くうるんだ眼があまりにも痛々しかった。
「でも、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。ああそうだ、ついでに思い出したから言っておくけど一応君の件で嘆願書出しておいたからきっと恩赦が出ると思う。もともと陛下は何て言うか気が良いっていうか単純っていうかかなりさっぱりした方だし宰相閣下も腹黒そうに見えて案外」
「ラトゥース」
ハダシュは饒舌を遮った。ラトゥースがはっと息を呑む。
「ラトゥース」
また、名を呼ぶ。ラトゥース。姓ではなく名を。ずっと呼びたかった。だが呼べなかった。呼んでしまえばきっと――
「安心しろ」
ハダシュはためいきをついた。吊り上げた口元にわずかな自嘲の影をおとし、笑う。
「怯えなくていい。これで終わりだ。お前を汚すような真似はもうしない」
ラトゥースは目をみはった。
「どういう意味」
「俺は血に汚れすぎてる」
「違う」
ラトゥースは凄い勢いで振り返り、身を投げるようにしてハダシュの胸に飛び込んだ。
「違う、違う。そんなこと言ってない。勘違いしないで」
ハダシュはラトゥースの細い肩に手を置いた。こわばるその身体をそっと押しのけようとする。
「いやだ」
ラトゥースは子どものようにいやいやとかぶりを振ってなおいっそうハダシュにすがりついた。それはまるで貴族の義務や誇り、巡察使の矜持といった仮面を投げ捨てたあとにあらわれた少女の素顔であるかのようだった。
「謝るから。おねがいだから」
「いいから聞け」
その声が今は何よりも胸に痛く、愛しい。
「俺は人殺しだ。死ぬまで血の臭いにつきまとわれるだけの男だ。どんなに取りつくろってもその事実は永劫に変わらないし変えられもしない」
すすり泣くラトゥースの重みを腕に抱いて、髪に顔をうずめる。
「だから恩赦はいらない。俺はお前の国の法に基づいた刑に服する。たとえそれがどんな罰であっても、何年かかろうとも、犯した罪の重さを背負い続けるために従う。それが俺の償いだ」
優しい香り。没入しそうだった。
「それで最後にひとつだけ伝えておこうと思って」
声がふるえる。こんなことが言えるのはきっと今夜が最初で最後だ。犯した罪を償い終わる日が来るまで、二度と口にすることはない。二度と。
ハダシュは万感の思いを込め、ささやいた。
「お前に会えてよかった。逢えたのがお前で本当によかった」
ラトゥースの肩もまた震えていた。頬にぽつりと涙が落ちて、流れる。
ハダシュは優しい微笑みにも似たその涙をキスでぬぐってやった。ラトゥースははずかしげに泣き笑ってうなずく。
「待ってるから」
その一言はやわらかく、穏やかなきらめきを放ってハダシュを溶かした。
エピローグ
「何やってるんだ、さっさと乗らなきゃ」
ラトゥースは純白の羽根飾りもうるわしい大きな青い帽子を振り回して、船着き場目指し一直線に駆けだした。周囲の船客たちが驚いた目で振り返る。
銅鑼がせわしなく鳴り渡っている。出港を告げる予報だ。
「船が出ちゃうじゃないか。ほら」
接岸した船の乗降口にはマイアトール信者であることを示す黄色い布を腰に巻いた巡礼の一行が詰めかけていた。巡礼といっても要は豪華船を用いた周遊気分たっぷりの優雅な旅行であるらしく、添乗員らしき伝道師が黄色い三角旗を振るって必死で呼び集めている。何も考えずその中へと飛び込んだラトゥースは思わぬ人の流れに引きずられてよろめいた。
「うわあ、流される。助けて」
ラトゥースは巡礼の列に巻き込まれ、みるみる違う方向へと流されていく。
係留されているのはエルシリアの都ハージュへと向かう帆船だった。朝日を受け優美な影をきらめかせた姿を水面にとろりと映している。予定ではこのあと途中の街に寄港しながら数日をかけてゆっくりとトワーズ河を遡ることになっていた。
日が出たばかりの街並みには、いつも通りのきらびやかさと賑やかさ、猥雑さの混じった活気がよみがえっていた。集まっているのは乗客ばかりではない。首から下げた籠に干し果を山積みして売り歩く子ども、長い棒の先にガラガラと鳴る妙な道具をくくりつけて人寄せに振り回す者、冷たいはちみつ水を売る者。少し離れたところでは本格的な屋台まで出ていて串に刺して焼いた魚の香ばしいにおいが垂涎の眼差しを誘っている。
「何とかしてやれ」
ハダシュは肩に抱えた荷物を斜にしょい上げ、わざと重そうに揺すって見せながらシェイルに向かって言った。ラトゥースはといえば何とも情けない声を上げ、必死で人混みを泳ぎ渡ろうとあがいている。
「助けてってば」
「子守はそっちの役目だろうが」
「黙れ囚人。貴様ごとき重罪人に言われるまでもない」
シェイルは傲然と巡礼の列へ割り込むとラトゥースの腕をつかみ、苦もなく戻ってきた。ようやく連れ戻されたラトゥースは照れくさそうに笑いながら頭を掻いた。
「ごめん。やっとハージュに戻れると思ったらつい」
「少しは落ち着かれたらどうです。遊びに帰るわけではないというのに」
シェイルは仏頂面をさらに渋らせて言うと船に向かって大股に歩き出した。
「そんなの分かってるって。囚人の護送だろ。何せ大罪人だから一時も目を離さず厳重に見張ってなくっちゃだもんねえ」
一人でうんうんとうなずくラトゥースはいつの間にかシェイルがいなくなったことに気付いてあわてて飛び上がった。
「ほらハダシュ、行こ。シェイルがかんかんだよ」
ラトゥースはハダシュに悪戯な目の合図を送ると、転がるようにシェイルの後を追っていった。ハダシュは疲れたため息をつき、肩をすくめる。
向かうはエルシリアのハージュ。
太陽神マイアトールを主として信仰する総本山として知られた、歴史あるたたずまいの残る街。その人口は十万を優に超える。
シャノア北東山麓の豊かな地に位置し、冬は白銀の雪、春は輝かしい萌葱の草原に覆われ、夏は清流に跳ねる魚鱗もまばゆく、そして今ごろの季節には繚乱の紅葉舞い散る炎のような山模様が見られると聞く、この国の政教を一点に集約した王国最大の街にして中枢の都。
ハダシュの赤い瞳が一瞬、あやうい光を放つ。
だがすぐにその険しさもやがて穏やかな表情にまぎれてゆく。帆船にかかった昇降板の中途から何やら嬉々として叫びつつ手を振るラトゥースの姿が見えたからだった。
「やれやれだな」
眩しすぎる朝日にハダシュは手をかざした。遠くの空でかもめが鳴いている。彼らの空は自由だ。手を伸ばせばきっと届く。
柔らかい鳴声に導かれ、歩き出す。
その先はハダシュがいまだ知らない外の世界――ずっと心の底から憧れて止まなかった陽の当たる世界だった。
[終]
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